寄り添う心
「いいんですか、学校は」
金色の髪を長く伸ばした彼女が静かに諭す。
しかし、もう一人の少女はそれを右から左へ聞き流し、再び布団に潜り直してしまった。VIP室のベッドは華奢な少女二人が寝転がるのに申し分ない広さであるため、金髪の少女もゴソゴソと布団へと潜る。
「私は行きたかったですけれど……こだまさん、学校お嫌いなんですね?」
「そんなことないもん。好きだよ、学校」
チラりと顔だけのぞかせた彼女は、そう言うとまた引っ込んでしまう。ただし、その杏色の髪と頭につけた大きなうさぎの耳のようなリボンは隠れきれていない。
金髪の彼女──クレイスは微笑混じりに溜息を吐いた。天蓋付きの豪華なベッドからするりと抜け出す。
「じゃあ何で行かないのですか?」
服についたシワを払って伸ばしながら、ベッドの脇にあった丸椅子に腰掛け、訊ねた。布団がもぞもぞと動き、ぴょこんと頭が飛び出す。
「だって……」
バツが悪そうに口籠もった。ぷいと目を背ける。
「ふふ、当ててあげましょうか。あの男性と何かあったのですね。貴方は彼を怒らせてしまった、でも、何故怒らせてしまったのか分からない」
少し悪戯っぽく笑うクレイスを、こだまは目を丸くして見上げる。図星、だった。
「なんで……」
「昔から、そのような他人の心のモヤだけは人一倍感じ取れるのです。精神干渉や読心系統の異能力に分類されるようですが、余りにも力の範囲が限定的なものですので、ご存知の方は殆どいらっしゃいませんが」
こだまが子供っぽいのか、はたまた、クレイスが大人びているのか。年齢差が逆転したかのような優しい手つきでこだまの頭を撫でた。
クレイスはそれなりにスタイルもよく、身長もスラリと高い。恐らく、こだまはクレイスが自らより歳下である事を知らないのだろう。素直に受け入れている。
そして暫くの沈黙が流れた。
二人きりの部屋は非常に広い。こんな大きく立派なベッドがあっても狭いと感じさせることのない開放感。そして、シックな紅色の絨毯が敷かれている。
何故こだまが此処に居るのか。
勿論、医務室を追い出されたからである。
そのこだまは、クレイスをじっと見つめたまま重い口を開いた。
「別に、私何も悪いことして無いのに、みんなと違うんだもん。アイツだけ」
「何が、違うのですか?」
「なんとなく。なんとなくだけど、アイツは違うの。私はたぶん、アイツと一緒に居ないといけないの。でも、向こうは私を嫌がってる」
声が沈む。だが、『なんとなく』『たぶん』と言っているのに、その声は何故かはっきりとした口調だ。一定度の確信があるような、そんな口振りなのである。
こだまは今まで、五年もの間ミュートロギアと行動を共にしてきた。そんな中で、彼女を拒む人間などは居なかった。籠の中の小鳥のように大切に育てられてきたのだ。
だから、彼女にとってこんな経験をするのはきっと、初めてだったに違いない。
不思議な縁のようなものを感じるのに、彼は何故かそれ以上踏み込んで来ない、そして、彼女も踏み込めない。そんな彼が、自分がもどかしくて、素直になれない、こんな感情を持つのもきっと初めてのことだった。
「きっと、それは嫌がっているのではない、と私は思います」
そんなこだまの心のモヤを吹き飛ばすように、クレイスはキッパリ言った。
狐につままれたような顔のこだま。
「彼もまた、心にモヤを抱えています。彼には、彼なりの悲しみや願いがあります。きっとそれが、貴方が今まで会った方々とほんの少し違うだけです。そのモヤが何かの後悔の念なのか、トラウマなのかは分かりかねます。でも、それが何か、貴方が理解できたら、きっと分かり合えるはずです。貴方の苦悩も、彼の悲しみも」
まだポカンとした顔のこだまだが、クレイスは続ける。
「私のお父様も、後悔を抱えていました。私にクレイスの業を背負わせる事に対して。此処に居る貴方以外も、みんなそれぞれに抱えているように思います。そして、私の中の始祖の鬼も、貴方の中の終焉の鬼も同様に」
「クレイスは、始祖の鬼と話ができるの?」
「いえ、直接話はできません。でも、彼女の想いを時折感じます。今の彼女は、欠けた何かをずっと探しています。そして、強い葛藤と戦っています」
こだまがやっとベッドからのそのそと這い出てきた。
「クレイスは怖くないの? クレイスの心にモヤはないの?」
クレイスはこだまの問いに、豪華な照明が飾る天井を見上げる。
そして少し目を細めて言った。
「怖いですよ、私だって人間ですもの。貴方たちに守られないと生きていけない、そんなちっぽけな存在です。いつか始祖の鬼に心を乗っ取られるのでは無いか、また昨日の様な発作を起こしてフレイアさんに心配を掛けてしまうのでは無いか、いつもそう思います。でも──」
そこでひと呼吸置いた彼女は何故か笑っていた。
「……今は少し、分かるんです。彼女の気持ちが。何か大事なものを失ってしまった気持ちが。私を逃がそうとしてくれた城の皆さん、そして何より、最期に私を抱き締めてくれた父上と……可愛い妹、みんな、みんな失ってしまった」
「どうして笑っていられるの……?」
「私は決めたのです。父上や、幼かった妹の分まで生きる、と。一人だけ生かされたことを怨むのではなく、生きている意味、此処に居る意味を全うする、と」
細めた目の端から熱い雫が落ちる。
しかし、彼女の強い決意のお陰か、その口元はやはり笑っていた。こだまは、クレイスの強さを少し羨ましく思った。
「でも、それは私一人で出来ることではない。人は皆そうです。私も、そして貴方も」
ベッドに腰掛けているこだまは足をぶらぶらさせている。そして、溜め息をつく。「分かってるよ、そんなの」そう言いたげな顔だった。そんなこだまを、クレイスは優しく抱きしめた。
「喜びを分かち合うのは簡単です。でも、悲しみを分かち合えた時……貴方はもっと強くなれる。強いものを手に入れることが出来る、私はそう信じています」
「クレイス……」
「貴方のその素直な所、何となく、今は天国に居る妹に似ています。だから、もう少し……こうしていていいですか」
クレイスが、心の弱さを露わにした瞬間だった。
こだまも、優しく、ぎゅっと、クレイスの細い身体を抱き返した。
広い部屋に、少女の啜り泣く声が静かに染み渡る。
姫だから、始祖の鬼の心臓の守護者だから、という肩書きなど関係ない。今の彼女は、家族や大事な仲間を失った一人の少女、そのものだった。
□◆□
寒い。上着があったら良かったのにな……。
電柱の陰に隠れ息を潜めるが、時折漏れる吐息が白い。天気が良かったせいで地上の熱がどんどん宇宙に昇ってしまったようだ。そのエネルギーを吸収したかのように、星がキラキラと輝きを放っているのは言うまでもないだろう。
「何を探しているんだろうか……」
小さく呟く。その俺の目の前には特徴的な髪型──辮髪の大男が居る。鋭い目付きで周囲を見回し、警戒しながら路地の奥へと歩む。いよいよ怪しさが増してきたな……。
尾行を始めて早くも一時間。
俺の中でグレーだったものがどんどんその濃さを増してきているのが分かる。心臓が高鳴る。落ち着くんだ……俺。
男の影がピタリ、と2ブロック先の電柱の側で静止した。
気づかれた……?
いや、そうではなかったようだ。その電柱の裏から新たな人影がぬうっと現れる。細身の、男のようだ。逆光で顔は全く見えない。仲間……か?
何やら話を始めたようだが何を言っているのか……。微かに聞こえる言語は俺の馴染みのある言葉ではない。
意味を理解するのは困難だな。
「ん……?」
盗み聞きを諦めた俺は、その一挙一動をつぶさに観察する。すると、辮髪の男が懐から何かを取り出した。小さな紙……メモ、かなにかだろうか。
すかさず双眼鏡を覗き込んで、何を取り出したのか確認しようと試みる。この双眼鏡は俺が中学に進学した時、親父が買ってくれたものだ。こんなことに役立つとは全く思いもよらなかったが使えるものは使うべきだろう。
「……ッ?」
なかなか手元の小さな紙を見るのは至難の業だったが、男が懐にそれを戻した時に見ることが出来た。それは、メモではなかった。──写真、だった。
そして、俺の中の疑惑が確信に変わる。
リャンの父親が、鬼だ……と。
その写真に写っていたのは、ある人物だった。それが俺に答えを教えてくれた。その人物は……そう、始祖の鬼の心臓の守護者──クレイス。
奴は、彼女を探しているのだ。
その行動は、明らかに黒を意味するだろう。
俺はどうしようか迷った。
だが、此処で下手に動けば何が起きるか分かったものでは無い。未熟者だという自覚もあるし、何より、あの男の体格を見る限り勝てる気がしない。
この事をメルデスに言って……いや、待て。
こんな時だけ彼らに頼るのか?
都合が良すぎるじゃないか。それに、俺は彼らを信用していない。リャンに火の粉が降りかからないという保証はこれっぽっちも無いのだ。
「俺が……──ッ? なんッ……!」
一歩前に出ようとした瞬間に、俺は身動きが取れなくなった。強い……、そして、上手い。人間の自由の奪い方を熟知してやがる……!
さらに、口元も押さえ付けられ、噛み付こうとしてもゴチャゴチャと指を装飾する金属に邪魔をされる。というか、むしろそれによる痛みで抵抗心を削がれているようにも思う。
まさか、リャンの父親に気づかれて……
《静かにしてろ、クソガキ……手ぇ焼かせやがって》
《声》が直接脳内に語りかけてくる。この荒っぽい口調……その瞬間、馴染みのタバコと微かなコロンの香りが背後から俺の鼻腔を刺激した。
《喋らなくていい、テメェの思考は読めてる。アジトに戻るぞ》
《でも……》
《文句タレんじゃねぇ。お前のしたい事は分かるが、やめとけ》
強引に引きずられていく。リャンの父親の背中がどんどん遠ざかる。歯を軋ませた。
──この男に、俺の何がわかる。
だが、もう気がついた頃には奇妙なマークの付いた電柱の傍に立たされていた。その拘束が解かれることは無い。
そして景色は反転し……もうすっかり見慣れてしまった無機質な空間にいた。時計を見れば、今は夕食時。転送室はがらんどう……いや、俺たち以外に一人いた。
銀色の髪、カーキ色の戦闘服。そして、目を覆う黒い布。
「オルガナさん……」
仁王立ちの彼女。岸野は何も言わない。
胃に穴が開きそうな程の緊張感だった。
──これはマズい。
直感した。
だが、時すでに遅し。
「何を、考えて、いる。愚か者」
「ガハッ……!」
景色が反転する。
しかしこれは空間移動をしたのではなく、本当に俺が反転したのだ。身構えてはいたものの苦痛に顔をしかめ、腹部を抱えて蹲った。ドサリという音とともに肩にかけていたカバンが床に落ちる。
「お前は、私たちに、嘘を、ついた。それだけ、でなく、身勝手な、行動を、した。何も、知らない、とでも、思ったか。お前の、愚行は、お見通しだ」
「愚行……だと」
冷淡なオルガナを睨む。彼女は『愚行』だと言った。リャンを守ろうとするこの行動を……『愚行』だと。抑えきれなかった。
「ふッざけんじゃねぇぞ! 俺は、アンタに言いましたよ『俺は自分の意思ですべきことを見極める』と。あれは俺が決めた、俺の意志だ。アンタに、ミュートロギアに指図される筋合いはない! それに、俺はおたくらと行動を共にしているが、決して仲間になったつもりなんてない。勘違いするんじゃねぇッ!」
「勘違い、と言ったか。お前こそ、重大な、勘違いを、している、ようだ」
いつもの鉄仮面のまま、歩み寄ってきたオルガナは突如、俺の胸倉を掴んだ。蹲る俺を強引に立たせる。
そして、左の頬に痛みが走る。爆発するような音と痛覚。そのあと押し寄せるのは熱い熱を帯びた感覚だった。
しかし、暴力に屈するなんて、俺はそんな事はしない。
右も叩けよ、そう言わんばかりにオルガナを睨む。
「忘れたか『お前の、身勝手な、行動で、仲間を、失い、我々も、危険に、晒された』と、私が、言ったのを。誰か一人の、言動が、他人に、影響を、与える、その時点で、お前は、組織の、人間だ。軽率な、行動も、自己中心的、行動も、許される、ことなど、無い」
「だから何だ、俺は誰にも手伝えも、助けてくれも言っていない。俺は一人でカタを付ける。その覚悟だった。俺にはその力がある、アンタらはそう言ったでしょう!」
「自惚れるな、本城暁人。お前は、何も、分かって、いない。第一の鬼の時、お前は、岸野や、レンの、助け、無しに、バリッサに、近づけたか。私の、誘導無しで、奴を、追い詰め、られたのか。それなりに、訓練は、積んだ、ようだが、所詮、お前は、その程度、だ。どう、足掻いても、私には、勝てない。ならば、鬼にも、勝てる筈、無い」
それは、間違いない……。拳をギュッと握った。
だけど……!
「やってみなくちゃ、分かんねぇだろ! 俺にとってあれは絶好のチャンスだった。なのにそれを……ッ!」
オルガナの右手がまた振りかぶられる。
しかし、その手が俺を叩くことは無かった。空気が弾けるような音を、俺は床の上で聞くことになった。
恐る恐る見上げる。大柄な背中が俺を庇うように立っていた。
「もういいだろ、オルガナ。コレで勘弁してやれ」
まだ、居たのか……何も言わないからもう何処かへ行ってしまったのかと思ったが、赤いシャツを着た一見ガラの悪い大男はこの一部始終をを見ていたようだ。
そして、止めに入ってくれた。
「どういう、風の、吹き回しだ、岸野」
「今のコイツに何を言っても無駄だ。諦めろ。今回は誰も死んでいない、事なきを得ただろうが」
左の頬を赤く染ながら、オルガナと対峙する。
《今回だけだ。次はねぇぞ、アキト》
脳内に直接語りかけてきたその声が、やけに優しく聞こえた。
《テメェの気持ちは良く分かる。だが、お前の正義がいつも正しく誰かを、お前を想う人間を救えるとは限らねぇ。俺が言えるのはそれくらいだ。肝に銘じとけ、いいな》
彼──岸野充という男が、俺の中で少しずつ融解していく。他人を寄せつけようとしない鋼のような外見や言動に内包された、小さな灯火。
《オラ、もう行きやがれ。もし何か、見聞きしたことがあるんならメルデスの野郎に言いにいけよ。それに、アイツも、夕妃も、菊川も相当心配してやがった。良かったな、心配してくれるヤツがいて》
《……有難うございます》
カバンを持ち、だだっ広い転送室を後にする。俺を追おうとするオルガナの腕を岸野が掴んで制止したのが見えた。
何故か俺はみっともなく泣いていた。
俺は分かっていたのかもしれない、いや、心の何処かでは、少し期待していたのかもしれない。あのまま俺が戻らなければ、誰かが探しに来てくれるんじゃないか、心配してくれるんじゃないか、と。こだまを追ってあの海岸に行った時のように。
自分のズルさが嫌になった。
だからこそ、さっきの岸野の言葉が染みたのだ。
俺の正義がいつも正しく誰かを、俺を想ってくれる人間を救えるとは限らない。結局俺はただの自己中心的人間に過ぎない。
正義とはつまり、己を信じることだと、誰かが言っていた気がする。でもそれは、己を信じてくれる人が居て初めて振るえる力なのかもしれない。信じる人の心に寄り添えてこそ、それは正義になる、そんな気がした。




