緊急退避
───何故、またここで……これは、偶然?
──いや、これは……必然、つまり“運命”?
どっちにしても、俺は、この目の前の状況を打破する必要があることに変わりはない。
押し寄せる人の群れが俺たちを押し退け、親切そうなおじさんは「逃げろ」と唾を飛ばしながら叫ぶ。
真面目そうな黒メガネのサラリーマンは、脚の遅い中年女性にぶつかったのに謝りもせずに走り去ってしまう。
店の店員も、人々の恐怖の波に逆らう事なく、パニックに陥りながら逃げ出した。
真っ赤なリンゴがゴロゴロと転がり落ちて、踏まれ、蹴られ、果汁を飛び散らす。勿体ない……しかし、そんなことを気に留める者は一人としていない。
「こだま、グズグズすんなッ……早くふたりを……」
「上ッッッッ!」
こだまの声をきくや否や、直感に任せて後方に飛び退いた。
刹那、俺のいた場所は大きくひび割れ、小さく陥没する。粉塵が切れたその中心では黒い物体が羽を整えていた。
俺とこだま達の間に割り込み、分断したそいつは汚い声で“カァカァ”と鳴いた。
普段なら馴染みのある生き物。厄介者ではあるが、目の前に居るこいつからは……厄介者どころではない。危険な香りがするのだ。
赤黒く染まった爪。
そして、俺を観察する……赤い目。
(また、動物が……鬼化しているのか!)
目の前のカラスは、俺に向かって執拗に鳴き続ける。
カラスは、かなり知能の高い鳥だ。群れを成すこともあり、攻撃性も高い。
嫌な予感しかしない……!!
その瞬間、カラスは俺に飛びかかった。爪で容赦なく俺の目を狙って来る。
持っていた鞄を思い切り振り回すと、反撃は空を切り、奴は器用に俺から遠ざかる。俺の動きが読めているようだ。
そして、遠のいたそいつは……
「チ…………ッ!」
「キャァアアアア」
こだまたちに襲い掛かる。
正確には、その後ろ。
神崎さんが叫び声を上げる。この中で一番弱いのは恐らく彼女だ……奴もそれを分かっている!
畜生ッ!
「破ッ……!」
その時、リャンが回し蹴りをキメた。見事な蹴り。テレビで見たことがある……あれは、恐らく少森拳法の型の一つだろう。
不意を疲れた黒い鳥は数メートル先まで吹っ飛ぶが……やはり起き上がる。その赤い瞳は俺達を捉えて離さない。
再び飛びかかってくる。本来のカラスより、何倍も素早い……!
俺は寸でのところで躱したが、軽く頬を切ってしまう。こいつらは本体ではなく、恐らく下っ端だろうが、リャンや神崎さんが万一、傷付けられて鬼化でもしたら……と思うと背筋が凍る。
リャンがカラスに向かって手をかざすのが見えた。
指先がポウ……と光る。
しかし、その表情は直ぐに焦りに変わった。
「なんでデスカっ……効かない!」
残念ながら、リャン。鬼には効かないんだ。もう、死んでいる存在なんだから。
「トリャアッッツツツ!」
いつの間に接近していたのか、俺たちですら気付かないうちに駆け抜けたこだまが、飛び立つ瞬間のカラスの胴体を蹴り上げた。
すると、普通ならありえないが、アーケードを派手に突き抜けて遥か上空へと吹き飛ぶ。俺の角度からは、それが砂に変わるところまで確認できた。
こだま……何をどうやったらそんな人間離れしたことが出来るんだよ。
ふん! と誇らしげな顔のこだまを見て小さく息を吐いた。
だが、勿論、それで安心していられなかった。
「な、何ですかっあの人たちは!」
大通りの方、つまり、商店街の出入口。
そこから、10人ほどの人影が見えた。
彼らの目は、虚ろ。来ている衣服に血がついている。
まごうこと無く、彼らは鬼化している。そう判断せざるを得ない。
……どうする、兎に角、3人を逃がして、それから……
それからどうするんだ?
俺一人で、どうにか出来るのか?
ふと過ぎった迷いが仇となった。
「……ッッッ!」
眼前まで迫っていたのは、人間の顔。
その男の生気の宿らない目に俺の姿が映り込んでいる。
咄嗟に相手を組伏せることを選択した。それを皮切りに、ほかの鬼化した人々が一斉に動き出したのを確認した。ただ、どの個体も動きが少し遅いように思う。これなら、3人を逃せる!
気づくや否や叫んだ。
「こだま! いいから行けッ……」
「私だって……た」
「つべこべ言うな!」
戦う、と言おうとしたのを遮るように声を張り上げた。
俺の剣幕に怯えているのか、それとも、この状況によるものか、神崎さんの瞳は潤んでいた。
物言いたげだったこだまだが、意を決したように神崎さんの手をとる。
「ヘマしたら承知しないんだから!」
「アキト、ボクも……っ」
「リャン、あの二人を守ってくれ! お前にふたりを任せたいんだ!」
リャンは……何も言わなかったがコクリと一つ頷いた。
さあ、早く行ってくれ。
リャンや神崎さんの前で刃物を振り回す姿は見せたくない。
3人が俺に背を向け走り出した。組み伏せた男から距離を取り、同時に、俺は鞄の中から刀を引き抜く。
ギラりとした輝き。この状況に、自然とこのような行動が取れるようになった自分が少し怖いが……
さぁ来い。援軍が来るまでは、3人が逃げ切るまでは、俺が相手をしてやる。
あの3人を追うのを諦めたのか、俺は鬼化した人々に囲まれてしまった。それでいいんだ。
だが、正直言って、ここを切り抜けられる自信がない。
あれだけの大口を叩いたが、おそらく俺一人でここは乗り切れないだろう。
俺の力は、こいつらには通用しない。
もし、彼らを操る親玉がいれば話は別だが……。
先程俺に迫ってきた男がやはり一番に動きを見せた。
こいつだけ、異様に早いな。
先に方をつけた方が良さそうだ……が、そんな単純に考えてなどいられない。
もしこの中に異能がいれば……この男以上の脅威だ。
手首を返し、素早い動きを見せる男へと刃を向ける。
最悪、一度で倒せなくてもいい。行動不能にしてこの状況から抜け出せればいい。
「行くぞ……!」
足元を払う様に一閃。
勿論、そんな見え透いた攻撃は避けられてしまうが、師匠はそんな甘い教え方はしないからな!
振り向きざまに、他の鬼化した奴らを巻き込みながら刀を振るう。刀は先程の男の背中、そして、ほかの二体の腹部を斬り裂いた。もう既に生を終えた身体だ。血が飛び散ることも無い。が、やはり未熟な俺の攻撃で、刀身が零れてしまった。
いつもこうだ。また、怒られちまうな……。
視界が開けたところに飛び込み、バックステップで距離をとる。
が、またしても絶望的な状況に気づいてしまった。
「ははは……マジかよ」
さらなる敵。
額を汗が伝う。
俗に言う小動物達が、俺を逃がすまいとしている。
勿論、どの個体も等しく赤い瞳を持つ。
鼠、猫、犬、カラス……
『絶望』その二文字が浮かぼうとした、その時だった。
アーケード内に鳴り響く1発の銃声。
驚いて、音源の方に目を見やる。
銃口から伸びる白い煙。
その向こう側にいたのは……
「神威?」
「……」
彼は無言で俺を見つめていた。
俺だけではなく、鬼化した人々、そして動物達も新たに現れた人間に意識が向いている。
彼はさらに三発、天井に向かって射撃した。
俺にはどういう意図か図りかねたが……。
神威の口が小さく動く。
(“た”……“い”、“ひ”………? 退避?)
確かにそのように見えた。
そして、突如響き渡るエンジン音。かなり大きな……バイク?
そんな音だ。
音源はどんどんこちらに迫ってきている。そして、大通り側から姿を見せたのは……
「アキト! 捕まれ!」
菊川の声……!
鬼化した彼らの間を強引に、ぬうように大型のバイクが走ってくる。タイル張りの地面の上をキュルキュルと音をたてながら駆け抜ける。運転する彼は……ヘルメットを被っているが、間違いない!
差しだされた手を掴む。
バイクは疾走したままだ。物凄い力で俺の体が引っ張られていく。後部座席に何とか跨った俺は問うた。
「退避……? どういう事だよ!」
「ネメシスがこっちに来てるらしい! 岸野さんはクレイスさんたちを避難させに向かった。こだまたちは栁がしっかりついていてくれる筈……! ……クソッ!」
さっきのあの男だ。
バイクに追い付いてきた。更には背後を動物達が追いかけてきている。
この状況……振り切れるのかッ!?
運転中にも関わらず、菊川がヘルメットを脱いだ。そして、そのまま追い付いてきた男を殴りつける。倒せはしなかったが、バランスを崩して一気に姿が後方へと消えた。
しかし、その向こう。さっき菊川が飛び込んできたアーケードの反対車線。その歩道にいる男に俺は釘付けになる。
恰幅のいい男。青ざめた様な顔でこちらに顔を向けている。彼は特徴的な頭髪をしていた。リャンと同じ……辮髪。
彼は………っ!
「アキト! 神威を!」
菊川の言葉でハッと我に返る。
俺はめいいっぱい腕を伸ばして神威の腕を掴み、彼をバイクの上に引き上げる。
腕がもがれるような痛みが走った。
しかし今はそんなこと気にしていられない。
もう一度振り返ってみたが……もうそこに彼の姿は無かった。
「ッ………!」
「乗ったな……ッ?」
俺が返事をする間もなく、更に鉄の馬は轟音を轟かせながら加速する。
薄暗い商店街を抜け、日の元に出る。眩しさに目が眩んだ。
バイクを追おうとした奴らは皆一様に、透明な壁のようなものに阻まれて失速した。それを確認した菊川は再度ヘルメットを被り直し、俺たちにも予備を投げて寄越す。
もう一度振り返る。
フルフェイスのシールド越しに、赤い目が揃って俺たちを凝視する光景は異様としか言えない。
さっきまでアレに囲まれ、アレと対峙していた。そう考えるだけで悪寒が走った。
俺たちを乗せたバイクは、すぐさまその場を発進する。
てか、よく見たらこれ……大型バイクでも名門中の名門、ΣSIGMAのCBR10000ΣRR……くっそカッコイイじゃねぇか!
また、それを運転するのが菊川なだけあって様になってるし……。
「アキト、カバンにあれ入ってるよな」
「あ……あぁ、そうだった!」
危うく忘れる所だった。このような緊急退避時に、俺達がいたという情報を消すための秘策。秘策とは言うが、とても単純なもの。懐にいつも入れている小さな端末。そのロックを解除して、一つのアプリケーションを起動。指紋を読み取ったそれは画面上に赤いボタンを表示させる。
迷うことなく押した。
その直後、背後から爆発音が聞こえ、暫くすると黒い煙が上がるのが確認できた。
「生徒手帳に仕組んだ小型爆弾……ね。よく考えてあるよな」
「セギさんの設計だよ」
神威が後ろから補足してくれた。成程、セギさんは言わばミュートロギアのエンジニアの核。こんなものお手の物な筈だよな。
そういや……こだまたちは、どうなっているだろうか。さっき、菊川はタツヤが向かったと言っていた。それなら、きっと大丈夫だ。若しかしたら先にアジトに着いているかもしれない。
俺の心の中は、何故か、妙な満足感に満たされていた。勿論、俺一人でどうにか出来た訳では無いし、菊川たちが来てくれなければどうしようも無かった。
ただ、こだまやリャンたちを危険から遠ざけられた。それが、素直に嬉しかった。
手に握ったままだった刀に目をやる。刃こぼれした刀身が日光を受けて、ギラりと光った。
その輝きが、珍しく誇らしげに見えた。




