不気味な紳士
「僕たちは、ミュートロギア。君がいるこの場所は、その本部中枢に他ならない。ようこそミュートロギアへ」
呆然とした。ミュートロギアという単語だけが除夜の鐘のように何度も響く。あの、ミュートロギアか……?
無法者の異能力者集団。日本だけじゃない、世界の警察や治安組織が血眼になって探している悪の権化とも言える存在。彼は確かにその組織の名を口にした。二度も。彼が差し出した手を握ろうとした右手をとっさに引っ込めてしまう。
「驚いたでしょう、アキト。あなたにはどうしても話せなかった。異能であることに誰よりも息苦しさを感じているアキトにはきっと私たちの存在は受け入れてもらえない、そう思って」
申し訳なさそうに、俺の手を握った。それを俺は反射的に振りほどいてしまう。彼女の悲しそうな顔がちらりと見えて、胸が痛んだ。
「姉貴は、そうだ、こいつらに脅されているんだろ。きっとそうだ」
「いいえ、アキト。私は進んで彼らに力を貸しているわ。此処は、もう私の居場所になっている。私はむしろ、メルデスに助けられて此処にいるの。貴方もきっとわかるわ。同じ異能をもつ人間として……」
「その異能をもつ人間の居場所がなくなっているのはミュートロギアのせいだろ!」
声を荒げた。すると、下腹部に鈍痛が走る。額に汗がにじみ出た。
「興奮するのは良くない。ユーヒ、君は席を外したほうがいい。ここは僕に任せて」
「でも……」
「大丈夫。僕を信じて」
「わかったわ」
じっとしていると痛みは引いた。でも、俺はもう姉貴の顔が直視出来なかった。二人とも出て行ってくれ。そう言いたいくらいだった。
カーテンを引く音と、ヒールの硬い足音。がらら、と扉の音がして、またその場は静かになった。
「君がミュートロギアのことをどう思っているかは、ユーヒから聞いているよ」
一人で話し始めるメルデスと名乗った男。彼はあのミュートロギアのトップ。聞く耳を持っちゃだめだ。
「異能をもつ人間は40人に1人。社会に順応できないものも多い。僕らは、そんな異能力者を一人でも多く救いたいと思っている。特に、君のお姉さんのような異能や、君みたいな異能をね」
余計なお世話だ、そう言い返してしまいたかった。でも、姉貴は……そうじゃなかったかもしれない。教師を志していた姉貴。でも、今のこの国で異能力者が教壇に立つことはとても難しい。特に姉貴のような【S】付きの異能にはそれが許されない。異能はその危険度からランク分けがなされる。下は【E】から始まり、【A】のさらに上は【S】がつけられる。危険度の基準は明確に文字に起こされているわけではない。しかし、多くの人々の憶測はたいてい一つにまとまっている。【国家及び人命を脅かすかどうか】である。俺の息苦しさとは違う息苦しさを彼女は抱えていた。それを俺は一番近くで見てきた。
「君ならわかるだろう。ユーヒがどれだけ傷つき、悩んでいたかを」
「ああ、判ります」
彼は、さも知ったかのような口ぶりで俺達を、姉貴を語る。気に食わない。
「でも、ミュートロギアはそんな慈善活動をするだけの組織じゃないはずだ。姉貴の異能を利用して、何をしようとしてるんですか」
メルデスの顔が一瞬陰ったのを俺は見逃さなかった。碧い瞳が眼鏡の奥でこちらを凝視した。だが、口元だけは相変わらずの笑みを浮かべている。
不気味だ────彼の感情が、思考が、つかめない。彼は今、怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか。こんなにもわからない人間は初めて出会ったと思う。これが、あのミュートロギアの人間なのか。
「何をしようとしているか……か。君にはきれいごとが通用しないみたいだね。アキト君。ならば話してあげよう。ミュートロギアの実態を。そして、世界がどれほど狂っているのかを。異能がなぜこんなにも虐げられているのかを」
これは長くなりそうだ、とこぼして手元を操作した。すると、車いすの背もたれが自動で動いた。途中、目が合うと彼はにこりと微笑んだ。
「アキト君は、誰が異能を排除しようとしているか知っているかい?」
「誰って……」
「聞き方が少し悪かったね。今のこの状況を作ったのは何か知っているかな」
今のこの状況? 異能が虐げられ、社会から隔絶されかけているこの状況の原因を問われているのか。白々しいにもほどがあるんじゃないか。
「そんなの───」
「ミュートロギアに決まっている、と言おうとしただろう。だがおかしいとは思わないか。余りにも、情報が一方へ偏りすぎている、と。異能力は本当に悪しき存在なのか? 迫害されて当然なのか? そういう風に洗脳されていると考えたことはないかい」
彼の言葉は甘い。するすると俺の心の隙間へ潜り込んでくるようだ。
確かに、文明の進んだ現代でここまでの措置はもはや差別や彼の言う迫害に近い。持ちたくてもって生まれたわけでもない力なのに。
「それは……」
不意に見上げると、メルデスは何故か満足げに頷いていた。
「ほら、今でさえ君は僕の言葉に惑わされつつある。違うかい。人はそうかもしれない、と少しでも思っていることを相手に肯定されたり言語化されると、途端にそれを意識し始める。ほんのちょっとの火種と言葉があれば洗脳なんて容易いんだよ」
「そうやって姉貴のことも丸め込んだんですか」
「君は少し頭に血が上りやすいタイプらしいね、アキト君。特にお姉さんのことになると」
でもね、と彼は俺に反駁の余地を与えない。
「僕らの敵はもっと手ごわい。彼等は社会全体を扇動することも、不穏因子をいかにも合法的に排除することも容易い」
そんな存在、本当に居るのか? そんな人間が。社会を反異能へ動かし、其れに抗う人々を法にのっとって裁くことができる。あり得ない。そんな存在、民主主義国家が許すはずない……いや、待て。
「国家……? まさかそんな」
「そのまさか、さ」
「証拠はあるんですか」
「それは君次第と言っておこう。僕が何と言っても今のアキト君が信じないのはわかっているからね。そんなことよりも君のこれからについて話をしたほうが良いと思うんだ」
そう言って彼はパサ、と何かを投げた。膝の上が少し重くなる。新聞の記事のようだった。地方誌の第一面。じっと目を凝らす。日付は八月十日、朝刊だった。
「待て……おかしい。この新聞は変ですよ。だって、昨日は八月三日だ」
「そうか、そうだろうとは思っていたけれど、記憶が飛んでいるんだね、アキト君」
メルデスはその白い手を伸ばして一つの記事を指した。
「『元大臣殺害事件───異能力者の痕跡に加え、行方不明の高校生の血痕についても警察が公表。異能力者として登録されている少年であり、被害者加害者両方の側面で捜査中』……?」
何の変哲もない、政府の元要人が殺された事件。だが、何故か胸がざわついた。急いで視線を先に進める。そして、ある名前の前でぴたりと俺の思考は停止した。
「『少年の姉 本城夕妃(23)もまた行方不明となっており、Sクラスの異能力者でもある事から姉の関与も視野に入れつつ参考人として2名の行方を追っている』……少年とは、君のことだよ」
追い打ちをかけるように、メルデスの言葉が頭に響く。信じられない、いや、信じたくない。これじゃあ、俺も姉貴も指名手配じゃないか。なぜこうなった。姉貴も、ましてや俺が何かしたはずない。人殺しなんてするハズがない。
「こんなデタラメを信じろと?」
「身に覚えがないのは当り前さ。君もユーヒも人を殺めてはいない。ただ、そういう風に偽装されたんだよ。まだ、思い出せないかい? あの夜のこと」