閑話~蒼風~
姉貴、何でこんなに採点早いんだろう。一昨日受けたばかりの古文のテストがもう返ってきた。案の定七割と少しの点数。論述系の問題は減点だらけだし。あの茶髪が満面の笑みで付けたであろう大きなバッテンも目立つ。なんか腹立つ。
帰って復習しなきゃ。
眺めれば眺めるだけ気が立つような気がして、丁寧に折り畳んで鞄へ仕舞う事にした。
ホッとため息をついて教室を見渡してみると人がかなり減っていた。授業後は大抵そんなものだ。女子の団体様がゾロゾロと退却してくからな。連れションって言っても、女子って個室なんだから意味無いと思うんだが。
「アキト! ラーメン食べたいデス!」
「へ?」
ガラガラと開いた前方の扉。鈴風が突然大手を振って教室に入って来たのだが、開口一番にそんな要求をされた俺は思考停止に陥る。落ち着けよ、俺。リャンは単にラーメンを食べたいと宣言しただけなのだ。
興奮した彼の声は、彼が思っている以上に大きい。教室に残っている人影は疎らだが、視線が集まってしまう。
「生徒会の人タチ言ってタ! 近く、ラーメン屋さん出来た!」
そんな事もお構い無し。辮髪の三つ編みの部分を犬の尻尾のように振るリャン。その黒い瞳も子犬さながら。留学生の彼にとっては、この日本という異国で見るもの聞くもの全てが真新しいのだ。
今は丁度、四限が終わったばかり。
「まさか今から行くのか?」
「アシタ!」
明日、と言うと。土曜日か。そう言えば俺が初めてリャンと出逢ってから明日で丁度一週間になるのか。夢の中に終焉の鬼が現れたり、こだまの教育係的な仕事を押し付けられたりしたせいでやけに短く感じた。
土曜日は、あの鬼教官オルガナの重点指導が通例あるのだが、何という奇跡。今週は休みらしい。
「予定無いから行けるぞ」
俺の言葉に、リャンの顔はさらに明るくなった。「ホントっ?」と笑窪を作りながら後ろの席につく。ここが彼の定位置だ。机の横にかかったコンビニの袋を取り、彼に向き合った。
上機嫌なリャンもリュックの中から自前の弁当袋をゴソゴソと取り出した。
「刘サンが昨日、お小遣いくれマシタ!」
「良かったじゃん。明日、何処で待ち合わせればいい?」
おにぎりの包装を破きつつリャンの弁当を覗くと、彼もまたおにぎりを持ってきていた。だが、俺のとは違って手作りである。この学校には私立高校らしく食堂もあるが、転入当初の一件により今では敬遠することが増えた。朝余裕がある日はこうやってコンビニに寄ってから登校する。
俺の問いかけに、リャンは顎に手を当て考え始めた。「んー」と呻る。
「場所、聞くの忘れチャタ」
危うく、握り飯に顔面ダイブするところだったぜ。俵型のおにぎり片手に小首を傾げるリャン。お前相当、小聡明いぞ。微塵も怒る気が起きないじゃんか。
「調べれば出てくるのかな……」
こういう時は文明の利器に頼ればいい、と思ったのだが。あろう事か今日は携帯を持ってきていない。つまり、不携帯。やってしまった。鞄を漁った俺の手に当たった黒い塊は父さんの形見のラジオ。
俺の焦った様子に状況を察したリャンが肩を落とした。誰かに借りるか、知ってるか聞くか……または、リャンをもう一度その生徒会の人の元へ派遣するか。最初のふたつは、俺には無理だな。借りる友達も聞ける友達も居たもんじゃない。
「どうしたの、アキトも鈴風も暗い顔して」
「ダイキ! 救世主! 万歳!」
眩しい笑顔が俺とリャンを照らす。後ろのドアから入って来た細身の男。明るい茶髪に色素の薄い瞳。そこらのアイドルや俳優なんかに引けを取らない整った、いや、整い過ぎた顔立ち。
彼──菊川大輝は俺の隣の席に腰掛けた。颯爽と現れたこのクラスで唯一話し掛けられる相手。何時になく後光が差している。
「何の話してたの?」
彼は食堂でテイクアウトしてきたホットドックにかぶりつきながら、俺たち二人を不思議そうに眺める。
「ダイキ、知ってるか? 新しく出来たラーメン屋」
「あー確か、校庭の裏辺りだったかな。栁はもう女の子と行ったって自慢してた」
「そんなに近いのか」
栁──隣のクラスの栁達哉──の話はどうでもいいが、思っていたよりも近場じゃないか。学生に来てくれと言わんばかりの立地だな。菊川はコクコクと頷きながら、紙パックのりんごジュースを器用に開封した。
「アシタ、アキトと行きマス! ダイキ一緒に行こう!」
いつの間にかお握りが二つ目に移行していたリャンが目をキラキラと輝かせて菊川に迫る。ストローから口を離した彼も明日の訓練の空白を思い出したのか、俺をちょっと見て「いいよー」と微笑んだ。
歓喜したリャンが立ち上がろうとしたが、それを俺は制止した。
「リャン、行儀が悪いぞ」
「え……アキト、楽しみじゃないデスカ?」
うっ、鈴風……なんて顔するんだよ。ガッツポーズをしかけた姿勢のままのリャンの悲壮に満ちた目線が俺を貫く。
「いや、別にそういう訳じゃ!」
慌てて取り繕う。だが、椅子にちょこんと腰掛けた彼のオーラが暗い。どうしよう、と縋る俺の視線に気づいた菊川は何故かニヤニヤしていた。イケメンだからか、イヤらしいそれには見えないが。
「まぁまぁ、鈴風。アキトは所謂オカン基質が有るんだよ」
「オカン?」
リャンは目をぱちくりさせている。元は西の方の言葉だから、知らなくても不思議ではないか。首を捻り、かなり真剣に悩んでいるようだ。
菊川め、俺をからかってやがる。
「何で俺がオカンなんだよッ! そもそも性別が違うだろうが!」
「でも、何だかんだ面倒見良いし、細かいっていうか?」
「それは姉貴の所為だから!」
ホットドックを食べきった菊川のイジリはエスカレートしてくる。苛立ち紛れに残りの梅握りを無理やり口にねじ込んだ。
その時、リャンがポン! と手を打った。なにか閃いたのか、彼の中の何かが繋がったのか。
「ナルホド、日本のは直ぐにお湯が湧きマス!」
米粒に口内を占領された俺だけでなく、残りのりんごジュースを飲み干そうとしていた菊川も沈黙した。そして、ほぼ同時刻に感情の波がどっと押し寄せた。それは笑いを堪えようと敷いた堤防をいとも簡単に決壊させる。
「アキト、汚い! ダイキも、大丈夫デスカ?」
咄嗟に手が出たのは幸いだった。吹き零れた白米と梅干しのマーブル模様が他人様の目に晒される事は阻止された。だが、二人揃って盛大に噎せた。
「ごめん、誰かティッシュ……」
「ほらよ」
自身もりんごジュースを口の端から零してしまった菊川がポケットティッシュを投げて寄越してくれた。
「ボク、変な事言っタ?」
優雅にひとり、食後のお茶をすするリャンが眉根を寄せている。
「リャン、それはヤカンだろ」
「いや、確かにアキトは沸点低めかもしれないけど。こりゃ、一本取られたね」
菊川は口の周りを、俺は手をゴシゴシ擦りつつ今起きた事を説明しようとする。
ふんふん、と相槌を打つリャン。まぁ、これも留学生としての勉強のひとつってことだな。
「確かに、アキトはオカンみたいデス! 一杯色んなこと気が付きマス!」
「だーかーらー」
反論も虚しく、俺=オカンという若干癪に障るレッテルが貼られてしまった。姉貴がそのオカン的属性が強い──お袋が死んでからは母親代わりという意識が強かったのだろうが──所為で口調とか口癖とかがどうしても似通ってしまっているだけだと思う。そう思いたい。
「んじゃあ、明日十二時過ぎに校門で待ち合わせる感じでいいかな」
丸めたティッシュでゴミ箱に見事なスリーポイントシュートを決めた菊川が提案する。そうだ、俺とリャンはラーメン屋に行く話をしていたのだった。
「勿論! 楽しみデス!」
これ以上何か言われても嫌だし、何より彼はもう食事を終えていたのでガッツポーズする背中を黙って眺める事にする。だが、そこに思いもよらぬ刺客が現れた。
その小さな人物は頭の上の大きなリボンをゆらゆら揺らし、軽やかな足取りで接近してくる。臙脂色のセーラーの襟と杏子色の髪の毛が上下に踊る。
「なんだか楽しそうだねー」
「あっ、こだま! あのね!」
何となく、リャンがこの後言いそうなことを先読みした俺は口を塞ぎにかかった。俺より少し背の高い彼を羽交い締めにするのは少し難儀するが、スグそこにいらっしゃる菊川先生のお陰で力の奪い方は大体マスターしている。
「ドシタの、アキト」
「こだまは勉強しなきゃいけないらしいんだ。だから、誘ったら行きたがるだろ」
爪先立ちでリャンの耳にどうにか囁く。留学初日から俺と夕妃先生──つまり、俺の姉貴──との関係を見破った彼はそれで納得したようだ。「ナルホド」と空気を察してまた笑顔になった。
「ところでこだま、彼の名前は覚えたかな?」
机に肘をつきつつ菊川が訊ねた。そう言えば、こだまはまだリャンを名前で呼んでないな。俺の事もだけど。
案の定、ヘラヘラとした顔が引き攣った。本人と目が合い、さらに気まずそうな顔になる。
「リ……リッ……」
虫の鳴き真似かと突っ込みたくなったが、深呼吸をして我慢する。そうだ、その調子だ。俺の名前もそのくらい気合い入れて思い出そうとして欲しいんだけど。
「リャッ……」
「いいねいいねぇ」
その光景を眺める菊川は妙に楽しそうだ。
そして、ついにその瞬間が訪れる。ちっこい手をリャンの方へ向け、自信満々に口を開いた。
「リャッ、りゃくだつこん!」
誰が払った訳でも無いが、菊川の黄金比で構成された顔が机で強打される。俺も、膝裏を蹴られたような気がしてガクッと折った。
前々から思っていたが、人の名前は覚えられないし勉強出来ない割に微妙なラインの単語が飛び出すんだな。オウムやインコみたいに意味もわからず言っているんだろうが、あまりにも酷い。
幸いしたのは、リャンが留学生でそこまで日本語に精通していないという事。「なんて意味ですカ」と囁いてきたが「大した意味は無い」とすんなり返すことが出来た。
こだまは俺たちの反応で外れた事を察したらしい。というか、そもそもそんな名前を付ける親はどこにも居ない。
「ち、違った? ごめんね……やっぱりまだ眠いみたい」
「眠いのは常だろうが。午後からはちゃんと授業受けろって夕妃先生も言ってたぞ」
「やだぁ」
「やだじゃないだろ」
「眠いー!」
それだけ叫んでいられるなら眠くないだろ、とその首根っこを捕まえる事に成功する。もう少しで予鈴がなりそうなこともあり、人が大分と戻ってきた。暴れるこだまに視線が集まる。
「ほら、席ついとけ。出席日数も大事な成績だぞ」
「いやだぁー!」
嫌だと言おうが何と言おうが構わない。家庭教師をしろと言われた俺にとってはこいつを進級させるのが責務なわけで、学力伸ばしても出席日数足りなくて無理です、なんていうオチは困る。
前の席が彼女の席だ。逃げないように本鈴が鳴るまで見張っておいてやらねば。
大きな溜息が出た。何やら視線を感じる。背後と、右隣から。恐る恐る振り向いてみる。
二人とも目を細めている。
「何だよ」
「ほら、やっぱりね」
「ウン」
目尻から流れ星でも飛び出そうなウインクを受け取ったリャン。彼もまた顔をクシャッとさせて笑い返している。何だよ、二人して。
「そういう所が好きだよ、アキト」
「告白なら俺なんかじゃ無くて女子にしてろよ」
半目をお返しした所で予鈴が鳴った。リャンが席を離れる。次は数学の授業だから、彼は別室で語学研修らしい。俺の顔を見てニヤニヤするその背中に手を振った。何が可笑しいんだろう。
そして翌日。
秋晴れの青い空。太陽が燦々と降り注ぎ、遠くに見える山々は色付き始めている。赤や黄色が疎らに見える。隣を歩く菊川も「綺麗だねー」と民家の庭先に植えられた楓を仰いで呟いた。
校門の近くの桜の木も紅く染まり始めていて、木肌が目に付くようになってきている。
吹き抜けた風が少し肌寒い。
そして俺たち二人は木の下に辮髪の青年の姿を認めた。彼もこっちに気づくと、大きく手を振って駆け寄ってきた。
「アキト、ダイキ!」
「ごめん、待たせた?」
くすんだサーモンピンクのロングTシャツにジーンズパンツ姿の鈴風。フード付きのビックシルエットパーカーの俺や、ニットセーターの上にチェスターコートを羽織った菊川よりも随分と薄着に見えるが、なんとも無さそうだ。
「ボク今来た!」
「それは良かった。鈴風、寒くないの?」
菊川も同じことを思ったらしい。リャンはブンブンと頭を振った。
「ボク産まれた所もっと寒い! だから平気!」
「へぇ、そうなんだ」
えへへ、とはにかむリャン。菊川の服を見て「かっこいいデス!」等とはしゃいでいる。微笑ましい光景だ。
「行こう! 我很饿! お腹空いタ!」
「うん、行こう行こう」
昨日、菊川と二人で調べたルートを歩く。住宅街の真ん中に立つ学校は外周が三キロほどある。途中、菊川が明後日の方向に行かずに済んだのも敷地に沿って歩いていたからだった。このイケメンは右と左の区別が相当苦手らしい。
小中高一貫の私立高校だからか敷地内の建物の数が多い上、グラウンドもだだっ広い。少し歩くとそれが見えて来た。
「あ、佐和山センセだ」
休日だから、部活動をする生徒も多い。特に今日はテスト明け初の週末だもんな。色々な声が聞こえてくるが、中でも際立ってうるさいのはやはりあの体育教師だった。熱血指導は勿論部活動でも健在で、生徒が走り込みをするのに紛れる所かそれを追い抜いている。
「そう言えば、あの人何部なの?」
俺の質問に、リャンも「気になる!」と便乗して来た。外であれだけ走っているという事は陸上部かサッカー部か……。
「佐和山先生? ハンドボール部だよ」
「ん? ハンドボール?」
「うん。ハンドボール。あの人、日本代表の補欠にも選ばれた事があるらしいよ」
マジかよッ。確かに、あれだけゴツいのに少し色白だとは思っていたのだが……。しかも、超凄いじゃん。補欠だろうと、七人でやるスポーツだということを考えれば尊敬に値する。リャンも目を丸くしていた。
それだけ上手いなら、プロから引く手数多だっただろうに。
「あ、あれじゃない? 人が並んでる」
白い指が指す先。確かに人だかりがある。この時間は学生よりも近所の客が多いらしい。リャンを二度見する人がチラホラと見受けられた。
少し早めに集まったおかげで長蛇の列という程でもないな。並んでいると、店員らしき恰幅のいいおじさんがひょこひょこと現れた。頭にタオルを巻き、メニュー表をばら撒き始めた。
「先にオーダーするタイプみたいだね」
笑顔でそれを受け取った菊川。「何アル?」と覗き込んだリャンは顔を綻ばせた。俺もその波に便乗する。なるほど、スープだけじゃなくてトッピングも自分で決められるらしい。煮卵は外せないな……それと、メンマ。
「兄ちゃん達、決めたかい」
さっきのおじさんが顔色を窺いに来た。店内は暑いらしく、彼は額に汗を浮かべている。繁盛してるんだな、やっぱり。
「僕は醤油ラーメンで、チャーシュー増量。アキトは?」
「俺も醤油。煮卵とメンマ付きで」
さて、次はリャンの番だが……。何故か彼は肩にかけた鞄の中をじっと見ていた。俺の視線に気付き、困ったように笑う。
「ボ、ボク、普通の醤油拉麺でいです」
「おじさん、トッピング全部載せといて」
「えっ、アキト?」
もう遅いぜ、リャン。おじさんは「まいどあり!」と皺の寄った笑顔を振りまいていそいそと店内に帰ってしまった。戸惑うリャンを菊川が宥める。
「まぁまぁ、気にすんなって。アキトはこう見えてオカンな上にコレも持ってるんだよ」
リャンへもたれ掛かり、親指と人差し指を引っつけるジェスチャーをしている菊川。何故だ。達哉がやるとただ単に厭らしいのに菊川がやると何処かのホストみたいだ。本物を知らないけど、何となくそんな気がする。
金があるのは事実だ。とは言っても、大部分は進学費用だからな? ただ、今はアホ兎の家庭教師という臨時収入がある。このくらい痛くも痒くもない。
「そういう事。気にしなくていい」
「謝謝……アリガト!」
だってさ、一番楽しみにしてた本人を満足に食べられないまま帰すなんてあんまりだろ?
リャンは何時になく笑顔だ。見ているこっちが癒される。
「三人さーん! 席空いたよ!」
先刻のおじさんが丸い顔をひょっこり出して手招きしていた。店内に一歩足を踏み入れた途端、腹の虫が盛大に騒ぎ始めた。油っこいが、病みつきになりそうな匂いが充満している。遠慮気味だったリャンも、別の客が食べているラーメンをチラチラと見ては感嘆を漏らしている。
通された席は窓際の四人掛けのボックス席。リャンを奥に押し込んだ菊川がその隣に詰める。俺はその反対側に座った。左利きの俺を気遣ってくれたのだろうか。
「寒いね今日は。温まって行きなー」
それを見計らったように、今度は五十代くらいのおばさんが丼を運んできた。チャーシューがこれでもかと載せられた菊川の、煮卵が頂点で輝きを放つ俺の……そして、一度戻った彼女は最後に一際大きな器を抱えてきた。
「開店後初のオールトッピングだよ! 家の人がトップ賞だって、大盛りにしちゃったけど、よかったかい?」
男っぽい話し方のおばさんが指さす先はカウンターになっていて、厨房が覗ける。そこから顔を出した細身のおじさんがペコッと会釈した。なるほど、夫婦で経営してるのか。
「もちろんデス! ありがとございマス!」
「あら、よく見たら留学生かい。これが日本のラーメンだよ」
「初めて食べマス! 頂きマース!」
無愛想な俺一人ではこんな状況にはならなかっただろうが、万人受けイケメン菊川と人懐こさが飛び抜けた鈴風のダブルパンチに女将さんも上機嫌だ。
にしても、ホント大盛りだな。まず、麺の量が大盛りサイズだし、チャーシューもメンマも煮卵も俺や菊川の倍くらいある。立ち上る湯気を顔面で受け止めたリャンが頬を赤くしてニンマリしている。さぁ、たんと食え。俺の奢りだ。
「あ、その前に手を拭けよ」
「出た、アキトのオカン」
「出タ! オカン!」
「五月蝿い」
こればっかりは癖なんだよ。それに、お絞りがあるなら使うべきだろ。
菊川もリャンにそんな言葉教えるなよ……。俺が差し出したお絞りでおざなりに手を擦ったリャンは待ちきれない、という様子で箸を握り締めた。そして、俺は親指を立てて見せた。
先ずはチャーシューにかぶりついたリャン。トッピングの所為で麺が見えないのだから仕方がない。頬を押さえ、蕩けそうな笑みを浮かべた。俺もそれに倣ってみる。
なんだこれは……口に含んだ瞬間に融解していくぞ。こんなチャーシュー初めて食べる。
「マジかこれ」
「試しに頬っぺでも抓ってみる?」
菊川の冗談に首を振り、上品な甘みのある油の余韻を忘れる前に、黄色い麺を啜った。赤茶色のスープに浸かったそれは細麺でツルツルとした素晴しい喉越し。
「好吃! 何回でも食べれマス!」
妙に食べるのが速いリャンは煮卵を頬張った。食べきれなさそうなら手伝おうかと思っていたが、心配する必要は無さそうだ。
口の周りが脂まみれだけど、放っておこう。まだ半分以上残ってる上に、突っ込むとまたオカンだと騒がれる。
「鈴風って、ほんっと幸せそうな顔するよね」
お冷を煽った菊川がリャンの顔をマジマジと眺めていた。
確かにそうだ。無理しているようにも見えない。ごく自然な笑顔も、明るい声も──その分、あの河原で呟いた言葉が引っかかるのだが。
「幸せだカラ! 笑ってたらいいことアルネ!」
ズルズルとラーメンを啜り、メンマをポリポリ食べていた彼はそう答えた。とてもシンプルで、当たり前な答えだった。温まった頬に赤みがさしている。
「ラーメンのびる前食べるのと同じ!」
ほんと、その通りだよな。リャン。お前が羨ましいよ。
「だから、アキト! 早く食べる!」
「んあ?」
ビシッと指を刺されてハッとする。手が止まっていたらしい。気付けばリャンが俺に追い付いてきていた。残った麺の量が大差ない。
「あ、ああ」
「アキトったら、オカンがそれじゃ示しがつかないよ?」
「だから、オカンじゃねぇっての」
何処まで引き摺るつもりだ、菊川。リャンも「ホントだ! ボクがオカンでした!」と手を叩いている。まったく……今日一日はこの調子なんだろうなぁ。
勘定を済ませて店を出ると、冷たい風が吹き付けた。
まだ日は高い。さて、これからどうしたものか。
「ボク、帰りマス!」
「え、帰るのか?」
腕をバッと広げ、大きく伸びをしたリャン。突然の宣言に思わず聞き返した。それに対して、彼は大きく頭を振った。そして申し訳なさそうに笑う。
「風太待ってる」
風太とは、彼の相棒の金獅子だ。「誰?」と囁いた菊川にそう耳打ちした。彼もまた拍子抜けした顔だが、納得した。動物の世話は仕方が無い。
「ラーメン美味しかったデス! 謝謝、アキト!」
「良いって良いって」
「んじゃあまぁ、お開きにするか!」
両手を胸の前で合わせ、深く頭を下げてきたリャン。顔を上げ、菊川の言葉に頷いた。
少し歩くと「ボクこっちだから!」と言ってリャンは足を止めた。確かにそっちはあの堤防に続く最短ルートだ。余程、風太が心配らしい。そんな彼を引き止める訳にはいかないだろう。
「また月曜日ね」
「ウン! ダイキも謝謝!」
そこらの女子なら卒倒してしまいそうな爽やかスマイルの菊川。「僕も楽しかったよ」と小さく手を振っている。
「じゃ、リャン。気をつけて帰れよ」
白い歯を見せてニッと笑ったリャンは、踵を返した。汚れたスニーカーがアスファルトを蹴る。三つ編みにした黒い髪がバウンドする。
これで一つ、彼に日本での良い想い出が出来ただろうか。
空を仰ぐと、蒼の上に真っ白な斑点が漂っていた。それを縫うように、飛行機が尾を引きながら飛んでいる。
何時ぶりだろうか。立ち去る人の背中に名残惜しさを感じたのは。天空と同じ色をした風が吹き抜けた気がした。




