憔悴
今日の夕飯は魚のバターソテーとスープ。どちらも申し分なく美味しい。
更に、今日の俺の気分。
グレンさんの手料理がいつもよりも一段と美味しく感じた。
明るく活気に溢れた食堂。
周囲のテーブルでワイワイと雑談をする声が聞こえ、和気藹藹としている。
「アキト、なんだかやけに今日は機嫌がいいね」
「……え、そう? そんな事ないって」
俺の向かいで夕食を食べていた菊川が突然そんな事を言ってきた。その表情は微笑を称えている。
なにか見透かされたように感じた俺は適当に取り繕うが、それもそれで逆効果だったらしい。
「あ、もしかしてもしかしてー、コレ、出来たのか?」
なんともヤラシイ下衆顔をしたタツヤが、ここぞとばかりに手袋をした左手の小指を立てる。
俺の隣で焼き魚の骨と格闘していた神威もチラリとこっちを見た。かなり鋭い目付きでこちらを見て来る。……なんで?
「いや、そんなんじゃない……」
「あらアキトくん」
背後から声をかけられる。若い女性の声だ。
聞き覚えがあった。
「心恵さん、どうかしました?」
黒くて長い髪を高めの位置で括り、薄ら化粧をした女性。芳河心恵さんだ。若いと言っても、実年齢は34歳。しかし、何時も明るくて皆から姉のように慕われている人だ。とても30半ばには見えない。また、彼女も『永遠の二十歳』を公言しているので、年齢について触れるのは御法度である。
というのはさておいて。
彼女は現在、混雑した夕食時の食堂で配膳などの仕事を請け負っているはず。俺たちのところにはもう既に全ての食事が運ばれた後だ。忙しいのに、どうしたのだろう。
「ちょっと伝言を頼まれて、ね?」
エプロンで手を拭きながら俺の隣の席に腰を下ろす。
女性らしい仄かな甘い香りがした。
「俺に? それより、大丈夫なんですか」
「ん? なにがかしら」
「いや、まだ食堂も混んでるのに……」
「あー……それはね、」
心恵さんが話そうとしたその時だった。
「オラ、テメェらァ! 動くんじゃねぇぞッッ! 飯が身体に食い込みたくなけりゃ静かに座ってやがれぇぇぇええッ」
厨房の出入り口付近、俺たちの斜め後方からドスの効いた怒鳴り声が轟く。一瞬にして状況を理解した人々は、静かに席に着いた。
俺もすぐに納得する。
「いつもの、『お手伝い』ですね」
「そう、いつもの」
突如として、何も無かった食卓に夕食のセットが出現した。
あちこちで同様の現象が起こる。
もちろん、こんな能力を使える人物は俺の知る限り一人しかいないし、怒鳴り声ですぐに分かるだろう。
厨房から再び現れた彼は、左眼から頬にかけて大きな傷跡があり、胸元を大きく開けた赤いシャツを着ている大柄の男。見るからにカタギじゃない。が、悪い人ではないことは周知の事実だ。
彼の名は、岸野充。
ヤクザのような彼が、何故、食堂を手伝っているのか。その理由はただ一つ。
「ミツルさん、ご苦労様です!」
「こここここここ、こんなの、朝飯前……いや、夕飯まえですよッ、グレンさん……!」
彼の背後から現れた小柄な可愛らしい女性。
栗色の結い上げた髪をバンダナで留め、ニコニコとした天使のような笑顔の彼女、グレン=エドワード。岸野は彼女にゾッコンなのだ。
「いつ見ても飽きないわねぇ……岸野くん、可愛いわ」
「心恵さん、そんなこと言ってたらオバサンみたいっスよ」
「……タツヤ。後でしばくからね」
再び、夕食の席は賑やかになる。
「で、心恵さん? 俺に伝言って……」
「そうだったわね。夕妃ちゃんから」
そう言って、小さなメモを俺の手に握らせた。細くて綺麗な指が一瞬触れてドキっとしたが、そんなの心恵さんはお構い無しだ。これぞ大人の余裕というやつなのだろうか。
メモを渡した心恵さんは、ふふっと笑いつつ席を立つ。
用事はこれで済んだようだ。
「さて、私は行くわね? 岸野くん、配膳は出来ても皿洗いは出来ないからね。今まで何枚お皿を割ったことか」
岸野が意外と不器用なことが発覚。いや、意外と、では無いのかもしれないな。銃の整備も神威に任せきりな上に、なにより、グレンさんになかなか告白出来ないみたいだし?
「じゃあね、残さずしっかり食べるのよ? 特に、カムイくん」
名指しで注意を受けた神威が肩をびくりと震わせた。
基本的に無表情で、あまり感情表現が上手くない彼だが、たまにこういう反応をする所が面白い。
そう言えば、俺をさっき睨んでたような気がしたけど、気のせいだったのかな。
心恵さんが俺たちの席を離れた後、貰ったメモをそっと開いて中を見る。綺麗な文字で書かれたそこには
『夕食後、教官室に来て。必ず一人で』
と、あった。間違いなくこれは、姉貴の文字。
流石、長い間書道を習っていただけあるね。
にしても、教官室かぁ……。
あまりいい思い出のない場所だ。(オルガナとか言う人物のせいで。)だが、姉貴の呼び出しとあれば無視することは不可能。姉弟間の上下関係は如何なる状況に置いても不変なのである。
ま、今日は俺の機嫌が良いからな。文句の一つや二つ、そっと胸にしまうことにしよう。
軽く溜息をつき……残りのおかずに手をつけた。
あれ……?
どういう訳か、俺の皿に食べきったはずのニンジンがあったのは気のせいだろうか……?
■◇■
所変わって、ここは教官室。
「で、何さ。話って」
ノックして入ってみると、教官室にはやはり姉貴がいて、俺を今かと今かと待ちわびていたらしい。ただ、一つ不可解だったのが……
「いや、その前に、なんでこいつがいるんだ」
教官室のガラス窓に、何やらへばりついているものがある。
着崩したセーラー服に、杏色の髪の毛。そして、白いリボンを頭のてっぺんで括っている。だが、いつもピンと上向きに立ってウサギみたいになっているそれは、今日に限ってペタンと萎れたようになっている。
「実は、あの子のことで、少し話があるのよ」
遂に姉貴が口を開いた。
こだまのことで……?
もしかして、あの夢の中の話だろうか。
“終焉の鬼 リリー”についての。でも、だとしたら姉貴からではなくメルデスから話があると思うのだが……。
「単刀直入にいうわよ。───明日からでいい。この子の、家庭教師になって欲しいの」
「……ごめん、なんて?」
「家庭教師っていったのよ」
「………」
暫くの沈黙の後、俺はやっと姉貴の発した言葉の意味を理解して……ェエエエエエエエエエエエ……ッ?
「なんで俺がそんなのしなきゃなんねーんだよ!」
冗談じゃない。俺に、そんな余裕があるとでも……?
ましてや、あのウサギ女の?
「そんなこと言わないでよ、アキト。ちょっと私達大人が立て込んでて……手が空くまででいいの」
「んな事、俺に関係ないだろうが!」
「お願いだから! ね!」
俺の肩を鷲掴みにして迫って来る姉貴。
いや、そんなことされても断るし。
「ほっときゃいいだろ。授業中寝てるやつが悪いじゃねーか」
「だからマズいのよ!」
はぁ?
今度は何故か姉貴が半ギレになった。何でキレるんだよ。
姉貴も『オトシゴロ』とか言うやつか。いい歳こいて何やってんだか……
「こだま! こっちきて座りなさい!」
この部屋には簡易的なソファーが2つ、向かい合うように設置されている。姉貴に一喝されたこだまは振り返ってこっちに来た。座るように促され、ドスンと腰を下ろした。いや、崩れ落ちたというのが正しいか。なぜなら……
(か、顔が死んでいるッ……?)
こだまの顔が、死んでいた。読んで字の如く、死んでいたのだ。
目は虚ろで、色白の顔が更に白く……いや、青白くなっているではないか。いつものバカのようなハイテンションも何処へやら……フラフラと覚束無い足取りだった。
「こだまに何かしたのか」
普段の彼女のやかましさには手を焼いている俺だが、流石にこれは心配の一つや二つする。姉貴を問いただした。
すると、姉貴がバツの悪そうな顔をする。
「何かしたって言うか……ここで、勉強させてたのよ」
「なるほど、で?」
こうなった……と?
「で? じゃないわよ。こんなコト、本当は言っちゃいけないんだけどね、あんたは弟だから言うわ。と言うより、こだまの家庭教師なんだから知っておくべきね」
いや、言っちゃいけない事なら言わなくていいんだけど。面倒事は嫌だし。
でもって、俺はまだやるとは言ってないし、やるつもりもない。姉貴もメルデスの奴に影響されてきたのか強引だな……おい。
「こだまね、次の期末までに学力あげないと、留年確定するのよ。今回のテストもこだまのだけ優先的に採点してもらったんだけど、散々でね……」
「はい?」
「あんた、さっきから私の話聞いてるの? 何で毎度毎度、2回も言わなきゃいけないの!」
「あぁもうっ、聞こえてるから!」
だから、何で姉貴がキレるんだよッ。
俺も連られてキレ返してしまったじゃねぇか。
「で、俺が勉強を教えると? このアホ兎に?」
「アホとか言うんじゃないの! こだまは、勉強してないだけで、出来ないんじゃない!……筈なの」
語尾が小さくなっていったけど、確実に今、曖昧にしたよな?
目も逸らしたし!
「で、何で俺なんだよ。他にいるだろ。ダイキとかさ」
こだまが勉強をしないといけない理由は分かったが、何でわざわざ俺を呼び出すのかが腑に落ちない。姉貴なら俺がこうやって断ることくらい予想出来ていただろうに。
ここは、怒りに悶々とする気持ちをぐっと堪えて、この状況を脱する術を模索するしかない。
「だって、こだまがアキトがいいんだって言うんだもの」
「……はぁ?」
何で何で何で何で何で何で……何でだよッ!
憔悴し切っているこだまには悪いがキッと睨みつける。何で名前もロクに覚えてないような奴を指名するんだよッ。
ハッ……
まさか……リリーは、こだまを助けろと言ったが、これもその『助ける』に含むとか言うんじゃないだろうな。だとしたら、リリー、今度あったらぶん殴るからな。そもそもぶん殴れるのか謎だけど。
「お願いよ、アキト。このとーーりっ! なんでも一ついう事聞くから。あ、ほら、メルデスも、家庭教師代としてお小遣いはずむって言ってたし、ね?」
合掌し、頭を深々と下げる姉貴。
どうしても、というお願いの時はいつもこのポーズだ。昔から変わってないな。
まぁ、確かに、最近またミュートロギアのアジトの中が慌ただしくなっている。噂で聞いたところによると、鬼の出現が増えているらしい。更に、天雨美姫の目撃情報も多発しているようだ。
大人達はその対応や調査に駆り出されていて、こだまの面倒を見ていられないのには納得がいく。
「分かった、分かったよ。こだまが進級できる程度まで勉強出来れば良いんだろ?」
「いいの……? アキト」
「仕方ねーだろ、姉貴がそうやって頼む時は俺がどんだけ嫌でもやれって時だ。但し、さっきのはぜったい忘れんなよ」
「さっきの……?」
「『なんでもいう事聞く』ってのと、『家庭教師代』だよ」
姉貴は暫くキョトンとした顔をしていたが、ニッコリと微笑んで「勿論!」と俺の髪を……
「やめろ、やめろって……ッ」
子供じゃねぇんだから、髪をワシャワシャすんのやめろ。
あーあ。何でこうなっちゃうんだか。
■◇■
(また、この天井……そして、あの『夢』)
彼女が目覚めたのは何度目だろう。荒い息をしながら身体を起こす。
任務に失敗したあの夜から1週間が経とうとしているにも関わらず、彼女はあの時の夢ばかりを見る。
バカのような髪色の少女が自分に向かってずっと向こうの方から叫び続ける夢。何を叫んでいるのか、聞こえない。いや、聞こえてはいる。聞こえてはいるが、意味がわからない。意味が分からない? そんなことは無い。だって、彼女は……
『お姉ちゃん』
確かにそう叫んでいるのだから。
でも、どういう訳なのか。天雨美姫の脳はその言葉の意図するものを的確に捉えることが出来ないでいた。
じっとりとした汗をかいていることに気づいた美姫は、洗面所へ行く。冷たいコンクリートの床を裸足で歩く彼女。
シンクの小さな明かりを灯すと、鏡に自らの姿が映る。いつもと変わらぬ姿。額の白い布も、真っ黒な髪も、色白の肌も、そして、憔悴した黒い瞳も。
しかし、そこで彼女は違和感に気づいた。
白かった筈の樹脂製のシンクの色が、違う。
赤い色だ。
鮮やかな赤では無い。どす黒く変色した赤い色。
紛れもなくそれは、彼女が日頃から目にしてきた色。
血だ。
しかし、何故それがシンクにこびり付いているのだろうか。
よくよく見ると、先程、自分が歩いてきた所にも転々と赤いものが落ちているのが分かる。
フワリと漂った鉄サビのような臭いで……
───思い出した。
《相当なバカだな》
その時、脳内に女の声が響いた。人を小馬鹿にするような口調。
《無駄だと分かってるだろうに》
《声》は彼女を責めるかのように言葉を続ける。
「良いでしょ。どうせ死なないのだから。……いや、死ねないのだから」
《声》に応答するかのようにポツリと呟いた。蛇口を捻り、顔を洗い、続いて、手首にこびり付いた赤黒いモノを擦り落とす。なかなか綺麗に落ちない。ザァザァと水の流れる音がコンクリートの壁に反響した。
暫くして、彼女はシンクの横の棚から包帯を引っ張り出し、無造作に手首に巻き付けた。パックリと割れた手首の傷は隠れたが、すぐに包帯に血液が滲んだ。しかし、彼女は気にする様子がない。
ふと、あの少女のことが再び脳裏に浮かんだ。
白い輝きを放つ刀を手にした彼女。あれさえ無ければ……彼女さえ居なければ、任務はうまくいった筈なのに。ギリリと唇を噛んだ。
じわりと口の中に鉄の味が広がる。
《美姫、あの女は、必ずお前の前に現れる。だから、その時まで待てば良い》
「……何でそう言い切る」
《何でも、と言っておこうか?》
《声》が言葉を濁した。が、その声は何故か愉快そうに感じられる。不可解に思った美姫だったが、彼女とともに居ればよくある事だ。特に気にはしない。
「次に会った時は……必ず葬る。出来るよね、リリー」
《勿論。あんな偽物に負けるわけがない》
《声》もとい、リリーが放った言葉を天雨美姫が聞き漏らすはずがなかった。
「“偽物”?」
偽物、とはどういう事なのだろうか。
……いや、なるほど。あの少女は妹の“偽物”。そう考えれば辻褄があった。
独り合点した美姫の胸中でフツフツと怒りがこみ上げる。
「許さない。許さないから。こだまは、あの子だけ……!」
方カタカタカタと周囲の物が微弱な振動を始めたかと思うと、それは段々と増して……窓もないのに彼女の髪が風に激しく靡かれたようになる。
《美姫、こんな所で感情的になってどうする》
リリーが彼女を諌める、が、その現象は収まらない。
リリーはそれ以上何も言わなかった。何故なら、彼女としてはその方が現時点よりは好都合なのだから。
が、しかし。
その現象は長くは続かなかった。
警報音が鳴り響き、刹那、外と通じる唯一のドアが激しく破られる音。武装した男達の硬い足音が狭い部屋にこだました。
バシュッ
「っ、あぁ……」
首筋に麻酔薬入の弾丸を被弾した天雨美姫はその場に崩れ落ちた。
薄れる意識の中でも、彼女はずっとその名を呟き続けていた。
「こだま……こだま…………」
彼女は男達に担がれたものの、どこかに連れていかれるという事も無く、再びベッドに乱暴に寝かされる。
「こだ……ま……」
男達が出ていった後。
部屋には再び静寂が訪れた。
天雨美姫の白い肌の上を一筋の雫が這った。
「必ず、必ず……助けに、行く……から」
その呟きを聞いているものは居なかった。
聞いていたのは、冷たいコンクリートの壁面と、壁に立てかけられた抜き身の刀だけだった。




