蛇に睨まれたカエル
「だぁあああ……疲れた」
不意に目の前をひらりと横切った枯葉さえも煩わしい。
あんなに春は美しく咲き誇っていた桜の木も、随分とみすぼらしい姿になった。赤茶けた葉が地面に落ちて風に飛ばされていく。
桜の木を見ると、春の……まだ俺がミュートロギアになんの関わりもなかった平穏な日々が思い出されて、また大きな溜息をついた。
足元の小石を軽く蹴飛ばすと、その先にあった側溝の中に落ちて乾いた音を立てる。
そして、もう一つ、大きな溜息をつく。
恐らく、今日受けたテストは手応えからして……7割から8割取れたかどうか……というところだ。悪い点では無いにせよ、良いとは言えない。高2の今、成績の維持というのは必須の課題なのだ。正直、バイトが出来ないともなれば……首席合格くらいして奨学金をもらうしか手がないしな。
「浮かない顔だネ?」
「え、あぁ。うん、まぁな」
隣を歩くリャンが声を掛けてきたが、返事は上の空だ。
川沿いの住宅街を抜けて、土手に出る。
リャンと俺が初めて話をしたあの土手だ。あの時と違って太陽は高く、少し暑い。俺たち2人とも、ブレザーを脱いで手に持って歩いているくらいだ。
「ホラ、元気出して! はやくハンバーガー食べよう」
ギュルル……と、俺の腹が鳴く。鼻腔を、なんとも言えないファストフードの誘惑の香りが満たす。
リャンが手招きし、少し枯葉の混じった芝生に腰を下ろした。少しチクチクするが、致し方ない。下の方にあるベンチには……見ず知らずの男女が手を繋いで川を眺めている。
「……そういや、リャンはテストの間どうしてたんだ?」
「別室で日本語の勉強してたヨ。あ、おしぼりあるヨ」
俺の他愛もない質問に応えながらも、リャンはてきぱきと包みからハンバーガーやポテトを取り出してくれた。
苛立っている上に、この上ない空腹が己を支配していたため、すぐさま素手でハンバーガーを掴んでかぶりつく。食べ慣れた、安っぽい味が更に食欲を刺激した。
「そんなに急いで食べなくても……悔しいノ?」
御行儀良く、付属のおしぼりで手を拭いたリャンが、ポテトを摘みながら訊ねた。なんでそんな事でカリカリしているのか分からないといった表情だ。
「悔しいっつーかさ……ほら、言ってただろ? 一流の大学に入って、それから……刑事になるんだって。いや、タダの刑事じゃなくて……」
「キャリア、だっけ?」
「あぁ。そうだ」
これはまだ姉貴にも言っていない。というか、言えば嫌な顔をされる気がして言えないのだ。
「どうして、キャリアになりたいノ……?」
フィッシュカツバーガーの包みを開きながらリャンが訊ねる。
俺は、食べ終わったチキンカツバーガーの包みを折り畳みつつ考える。どうして、俺がキャリアを目指すのか。
「どうして……か」
明確な理由はある。でも、この話をしてもいいのだろうか。出逢って数週間の留学生に。
「話しにくいなら、いいヨ? どんな理由でも、ボクはアキトの夢応援する」
「まぁ……話しちゃいけない事じゃないんだ。でも……」
「でも……?」
でも……。
「いや、ううん。話すよ。夕妃先生……いや、姉貴には内緒にして欲しい」
「モチロン。誰にも言わないヨ」
ニコリと微笑みながら、フィッシュカツバーガーを頬張ったリャンの幸せそうな顔に癒される。
「実はさ、俺ん所は母親が早くに死んじまって……親父が俺たちを育ててくれたんだ。でも、その親父も3年前に殉職した。俺が中学2年の時の話だ」
リャンは……黙って俺の話を聞いていた。いつの間に食べたのか、フィッシュカツバーガーは既になくなっていた。リャンは何も言わずにポテトを俺に差し出す。
そのうちの1本をつまんで咥え、空を見上げた。
「俺なりに、親父の知り合いとか色々頼って手に入れた情報によると、親父は……親父が死んだのは、頭の硬いキャリアの判断ミスだったそうだ。誘拐犯が立て篭もった場所に俺の親父と仲間の刑事数名が交渉中だったのに、特殊武装隊を突入させたらしい。親父は……犯人と対等に話し合うために銃をもっていなくて……それで……」
それ以上は、言わなくても分かる、と……リャンが俺の目を見つめて言っているように思った。
「仇……だとは、おもわないノ?」
ゾクリとした。リャンの落ち着き払った様な声が酷く重く感じられたから。
しかし、横を向くとそのリャンは何食わぬ顔でポテトを摘んでいた。
「どうかシタ?」
いつものリャンの声だ……。少し気が立っている事もあって、そういう風に感じただけに違いないな。
「いや、なんでもない。仇……そうだな。でも俺は、そういう怒りの感情とか、そんなのに惑わされちゃいけないと思うんだよ。なんていうかさ、そうだな……。俺が、キャリアになって腐りきった内部をどうにかしたいって思うんだよ。親父と同じ道……俺のように悲しむ家族が居なくなるように」
だから俺は、キャリアにならなきゃいけない。所轄で、みんなのために奔走する親父のような刑事にも憧れるが……それ以上に俺は……
「凄いネ……アキト、やっぱりアキトは凄いヨ。凄い夢だ。ボク、やっぱりアキトの夢応援するヨ!」
俺の手を握り、目を輝かせながら迫ってきたリャン。
「ちょ……近いって」
「ご、ゴメン。つい興奮しちゃっタ」
恥ずかしそうに頬を赤らめながら、また一つポテトを摘み、指に付いた塩をペロリと舐めた。
暫く、俺とリャンは学校での他愛のない話で盛り上がった。さらに、彼は祖国などでの面白い話を沢山してくれた。サーカスの団員として各地を転々としている彼の話は、聞いていて飽きることがない。カタコトながらも俺に色々な話をしてくれる。
一方、大した話を持ち合わせていない俺は何も言うことが無かったが、相槌を打つだけで満足だったし、リャンも嬉しそうだった。
他人と関わるのをあんなに避けようとしていた俺と、今の俺はまるで別人のようだと密かに感じた。
その時だった。目の前に一匹の蛇がいることに気がついたのは。
奴は、とぐろを巻いてこっちをジィーッと見つめていた。ちろちろと赤い舌が見え隠れしている。
「おい……リャン。目が合ったんだが……」
「じっとしてたら平気だヨ」
「いや、こっち……来たんだけどッ?」
シュルシュルと枯れ草の上を器用に這って、俺に近づいてくる。蛇が苦手という訳ではないが……流石に自分に向かってくるとなれば怖い。毒などないにせよ、噛まれれば痛いだろうし、締め付けられればアザくらいは出来るかもしれない。
しかし、ここで逆に慌てふためいて逃げ出したら、それこそ襲われるに決まっている。
隣にいるリャンに助けを求めた。
「出来るかな……アキト、ビックリしないでネ」
ポツリと呟く。何をするつもりなんだ。
そうしている間にも蛇は時折シューシューという音を立てながら足元に近づいてくる。
「こら、こっちに来ちゃいけないヨ。君が行くのはアッチ」
リャンの独り言かと思ったが……違う。これは……
彼の指先が薄く発光しているのが分かる。蛇はそれに魅入られたのか、俺の方に近づくのをやめてリャンの目をじっと見つめている。リャンもまた、蛇から目を離さない。
「さ、向こうへ行ってくだサイ。何も、痛い事はしないカラ」
蛇は、リャンと暫く見つめ合った後、何も無かったかのようにリャンが指さした先へシュルシュルと去っていった。その姿がすっかり見えなくなってからリャンに話しかける。
「今の……もしかして、異能なのか」
「少し……ネ。ボク、変?」
寂しそうに、俺に問いかける。いつもは合う目も、今は地面を見つめている。
そうか、リャンの国でもきっと……異能は煙たがられる存在なんだ。彼の悲しげな顔を見ると胸に刺さるものがあった。
やはりこの世の中はどうにかしてる。
「いや、変じゃないさ。俺もだから」
「ほ、ホントに?」
リャンの顔がパッと明るくなる。やはり、彼の笑顔には俺もつい笑わされてしまう。
人懐っこい、と世間一般では言われる部類だ。
昔から俺は愛想が悪いと言われ続けてきた。別段気にしたことも無かったが、『人懐っこい』と言われる人たちのことを密かに媚びたヤツらだと思っている節があったのだ。
なぜなら、無愛想な俺はそういう人にも関わろうとしなかったから。
しかし、リャンを見ていても『媚びている』ようには全く見えないし、心から他人と関わることをたのしんでいるように見えるのだ。
少しだけ、羨ましく思った。
「リャンのそれは……ほかの生き物を従わせる感じの能力だよね」
「ウン。『控制动物』って言うんダ」
再び、彼の指先がポウ……とにわかに光る。
すると、俺たちの周りをトンボが飛び始めた。一匹じゃない。五、六匹はいるだろう。
「これは、リャンが呼んだのか……?」
「ウン」
「いい能力だな」
彼らは、悠々と青空の下を飛び交う。
透明な羽根に、傾き始めた太陽が透けて見えた。
「そろそろ、帰るか」
この時期、陽が傾き始めると直ぐに宵闇が訪れる。最近、この界隈では暴力団絡みの事件もちょくちょく起こってるらしいから早めに帰るのが得策だろう。
リャンを連れ立って再び土手の上の舗装された道を歩く。
川がオレンジがかった太陽を受けて、朱く光っている。見上げると、空にはうろこ雲を引き裂きながら飛ぶ飛行機があった。
リャンたちが寝泊まりする、サーカステントまではすぐそこだった。手前の交差点で立ち止まる。
「じゃあな、リャン。また明日」
「そうだ……アキト」
ふと何かを思い立ったかのように俺を引き止めた。
「どうかしたか?」
「ボク、こんな能力持ってるけど、風太には使ったことないヨ。そんなことしたら……風太がカワイソウだから……だから……」
突然のことに俺は直ぐにその意味を理解出来なかったが、リャンの表情は真剣だった。
なるほど。風太とのショーにあの能力を使ってる、と俺が思っているんだって誤解してるのか。
そんなの、今初めて気づいたよ。
「分かってるよ。リャンはそんな事しないって、俺は信じてるから」
正直、言われるまでそんな可能性コレっぽっちも考えていなかった。
きっと、その事で嫌な事があったのだろう……。きっと、リャンに不快な思いをさせた奴らはリャンの心の底から溢れる純粋な心に気づいていないか、妬んでただけだ。気にすることないさ。
「……ちょ、なんだよ、蛇に睨まれたカエルみたいな顔して」
リャンがあまりにも変な顔をしていて、思わず笑って言ってやった。
すると、顔を夕日の如く真っ赤にして慌てたリャン。
「か、慣用句は苦手! それニ、蛇に睨まれたカエルはアキトのほうダ! ……でも、アリガトウ。信じてくれて」
あぁ……確かに。
この慣用句っつーか、例えは墓穴だったな。
すると、突然リャンはパッと踵をかえして走り出した。
少し行って、振り返ってこっちに向かい、大きく手を振る。
「アキト! ボクの友達になってくれてアリガトウ!」
なんだ……この不思議な感じは。
顔が、胸が、心が熱くなる。いつぶりだろう。いや、初めてかもしれない。
(友達……か)
新鮮な響きだった。
今までも『友達』と呼べる奴らは沢山いたと思ってる。でも、何だか、リャンの発した『友達』という言葉はそれとは少し違う気がしたのだ。もっと特別な、もっと、密接なもの。
気がつけば、俺も大きく手を振っていた。
「俺こそありがとう!」
……と、言おうと思った。が、しかし、恥ずかしくて言えなかった。
代わりに、無言でひたすら大きく手を振る。
リャンがテントの中に消えていくまで、その背中をずっと見ていた。心の中で『友達』という言葉が反復する。
ふと、俺はなんであんなに昼間イライラしていたのか分からないくらい心が落ち着いている自分に気づく。テストのことなんてもうこの際、どうでも良くなっていた。
暫くして、俺は沈みゆく太陽に背を向けて歩き出した。が、俺の顔の赤い色は消えなかっただろう。だから、誰にも見られないように、小さく身を縮め、足早に歩いて帰路についたのだった。
足早に去っていくアキトの姿を睨む影があった。電柱に背を預け、タバコをふかす、人相の悪い、大柄な男。
「だいたいこの辺らしいが……どうなってやがる……」
忌々しく独りごちた彼は、タバコを踵で剃り消してその場を離れる。本城暁人が進んだのとは逆、太陽が沈む向きに歩き始めた男だったが、ふとその姿が消えた。跡形もなく。




