君はいったい……?
「さてさて……今夜のツマミはイカにすべきか、いや、チー鱈も捨て難いなぁ」
コンビニのレジ袋を引っさげた男が国道沿いの歩道を気だるげに闊歩していた。少し嗄れた声でブツブツと独り言を漏らしている。歳は四十代半ばだろうか。無精髭が生えている。
空はもう随分暗く、秋の深まりを感じさせた。乾いた冷風が男の頬を撫で、赤いネクタイをふわりと揺らす。
彼は何を思ったかすぐ近くの細い路地を抜けて裏道へ。
実は、彼は時々こうして裏路地の散策をするのだ。まさしく、彼の数少ない趣味と言えるだろう。
「───アンタねッ! お姉様に怪我をさせた元凶はッ!」
突然、竹藪のある方向から少女の怒鳴る声が聞こえてつい振り返る。興味本位で彼は物陰からそっとのぞき込んだ。確かに、廃工場に隣接した電話ボックスの前で若い男女が言い争っているように見えた。
(ん……? あの少年は……)
臙脂色のブレザーを着た少年の姿に彼は見覚えがあった。
何故かふと小さな笑みがこぼれる。
「必ず会えると思ってたぜ、本城暁人」
彼が物陰から出ていこうとしたその時だった。
喚き続けていた少女の方が静かになる。少年が訝しむが、彼女は竹薮の方を警戒している。ザワザワと葉が擦れ合い不気味な音を立てた。
その時、一本の竹が激しい音を立てて地面に倒れる。
転がり出てきた人影。美しい金色の髪……心当たりがあった。彼女の体を本城暁人が駆け寄って抱え上げた。ぐったりとしているように見えた。
(あの時のお嬢さんか……)
バスンッ
物陰で見ていた男は、突然の銃声に驚いた。先ほどぎゃーぎゃーと騒いでいた少女の手には硝煙の上がる拳銃が握られている。穏やかじゃないな……と男は顔を顰めた。
すると、竹薮から二匹の小さな生き物が三人を襲おうと飛び出した。……どう見てもあれは猿だ。そして、薄暗い中で彼らの目は赤く光っている。その光景に、彼は見覚えがあった。
「少年ッ……」
加勢しようと立ち上がるが、その時、彼の携帯が大きな音と共に震えた。大急ぎでポケットから取り出し、電話に出ることなく切る。
「チッ。こんな時に限って……」
それよりも彼らが心配だったようだ。どうなっているか……と物陰から顔を出す。
だが、同時に激しい光と熱の光線が男に迫り、危険を感じた彼は再び物陰に引っ込む。ジリジリと肌が焼けるような感覚だった。あれに当たったら一溜りもないことは明らかだ。恐らく、あの猿たちを狙って放たれたのだろう……しかしながら猿はまだ生きていた。
もう一度のぞきこんだ時、あの三人は電話ボックスの中にいて、少女が必死に番号を打ち込んでいるようだった。そっと見守る。
(何してんだ……仲間を呼ぶつもりか?)
そんな彼らに再び魔の手が忍び寄る。二匹の猿が電話ボックスに上ってガラスを割ろうとし始めたのだ。
男はついに物陰から出て彼らの方へ近づき始めた。これなら猿共の背後から攻撃できる、男はそう思っていた。
しかし
突如、電話ボックスの中にいた三人の姿が消えた。驚愕する。
カシャン
その時、彼の足がなにかを蹴った。見下ろすとそれは刀だった。恐らくあの少年の物であろう。そっと拾い上げた。そこそこに手入れはされているように見える。
「……あぁ、バレた?」
ふと目線を向けると、彼の目の前に二匹の猿がいた。突然現れた男を警戒しているのか、すぐに飛びかかっては来ない。しかし、その赤い目は男の一挙一動を凝視している。
「ちょっと待ってろよ」
彼は手に下げていたコンビニの袋から缶ビールを取り出して、一気に飲み干した。右手でくしゃりと押しつぶす。
その時再び彼の携帯が鳴る。舌打ちをしつつ、今度は携帯を開き応答した。深く大きな溜息をつく。誰からの電話かは分かりきっていた。
[どこほっつき歩いてるんですか。電話にはスグ出てくださいといつも言ってるじゃないですか]
彼にとっては聞き慣れた男の声だ。若い男の声が彼を控えめに叱責する。
「はぁ。オレに休日は無いのかよ……まあいいや。今すぐに処理班呼んでくれないか?」
[……どういう話の流れでしょうか]
「いや、ちょっとばかりな……。物壊す可能性があるから頼むわ。まぁ、俺一人で片付ける。後のことは任せるぜ」
電話の向こうで若い男が深くため息をつく。困ったように額に手をやる彼の姿が容易に想像できた。自由人の彼にはいつも手を焼かされているようだ。
[……分かりました。くれぐれも無理しないで下さいね、旭さん]
「お気遣いどうも、んじゃ頼むぞ。ティナ」
プツリと通話を切った。今どき珍しい二つ折りの携帯電話をパタリと閉じて二匹の猿を見つめる。これだけスキを見せるのになぜ飛びかかってこないのか。……おそらく彼らの生存本能がそうさせているのだろう。
死んで鬼と化した今でもそれが残っているのは皮肉のようにも思えるが、強化された今、彼らにとってこの男は脅威だったに違いない。
遂に一匹が男に飛びかかった。
ギャウッ
刹那
その身体は廃工場と道路を隔てるフェンスに激突していた。その小さな身体には短めの刀が深く突き刺さっている。
一瞬の出来事。さらに、男はいつ抜いたのか、何処から出したのかも分からない2mもあろうかという長い棒を下段に構えていた。ギラりと先端が光る。彼の眼光のように。
不敵に微笑む彼を中心に……風が乱舞した。
「……さぁて、コンビニ寄って飲み直すか」
砂が風に乗って彼のそばを通り過ぎる。
乱れたジャケットを脱いでいかにもだるそうに肩にかけた。
彼はフェンスの傍に横たわる刀を再び手に取った。随分と軽量化された刀身。間違いない。あの少年のものだ。
「旭さん。ご無事で何よりです」
黒のスーツを着た男が一人と作業服の男女が五人、後方に立っていた。気だるげな顔の彼は少しだけ振り返る。
「ご苦労さん。じゃ、俺行くから頼むわ。ちょちょーっと証拠隠滅したら帰っていいよ。んじゃ、お先ー」
やってきた彼らに少し早口で指示をすると、刀を持つ手にジャケットをサッと掛けた。そして逃げるようにその場を立ち去ろうと歩き始めた。
「……旭さん」
呼び止められ、旭は仕方なく足を止める。
その表情はやはり気だるげだ。眉間に皺を寄せながら首だけを少し後ろに向けた。
「菅谷さんからの伝言です。報告は逐一行え、との事です。宜しいですか」
彼は小さな嘆息を漏らし、嗄れた声で「分かった」と呟く。ヒラヒラと手を振りながら少し背を屈めて再び歩き出した。
「はぁ、めんどくせぇ……」
彼の不満の言葉を聞いた者は誰も居ない。
いるとすれば路肩で騒ぐ鈴虫だろうか。それとも、大空を覆う星たちだろうか。
ネメシスの構成員、旭 大輔は秋の夜の闇に一人消えていった。
■◇■
夢を、見ていた。
ふしぎな夢。
俺は何処かの高台にある草はらに寝ころんでいる。空は青く澄んでいて、どこまでも続いていた。
ここに来たことがある……? いや、ないだろう。
身体を起こして周りを見渡しても、青々とした草原がどこまでも続いているのだ。それ以外は何も無い。爽やかな風が頬を撫でる感覚に、俺は大きく深呼吸をした。
そんな清々しい所にいる俺の姿は、どう見ても寝間着だった。寝ていた時と同じ。
なるほど、これは夢だな。
夢にしては意識のはっきりとした……夢なのだろう。
ほら、横ではこだまも寝てるし。
……………
こ、こだまッ?
夢だと思いつつも、全力で後方に後ずさる。
杏色の髪の少女が、涎を垂らしながら眠っていたのだ。
…………少し乱れたパジャマ姿で。
サッと目をそらす。
これは夢だ。夢だ。夢なんだ。
でも……
『本城 暁人さんですね』
後ろから掛けられた声に肩を震わせる。
俺は、この声を知っている。でも、どこで聞いたのか思い出せない。学校でもない……遠い記憶を遡っても……
『振り向いてください。危害は加えません』
その声は丁寧な口調で話しかけてくる。
若い女の声。もっと言えば、落ち着いているが芯のある少女の声。
どこで聞いたんだ……。
「君はッ……」
振り返った俺はそれ以上何も言えなくなった。
呼吸が詰まる。これは……夢……悪い夢。
『そうです。彼女の意識を介しながら貴方の夢にお邪魔しています。ご挨拶が遅くなってすみません』
分からない。
彼女の話す言語は、恐らく日本語の筈なのに。
それなのに……俺の脳内はそれどころではないのだ。
『貴方と私はほぼ初対面だと思うのですが……?』
「いいや、俺はあんたを……見たことがある」
どうにか振り絞った言葉に、彼女は透き通るような美しい目を一瞬大きく見開いた。
『そうですか……“私”に会ったのですね』
目を伏せてぽつりと呟いた彼女の顔は、どこか遠いところを見ているようだ。彼女の儚げな顔とは対照的に、俺の脳内では『聖域』で見たあの姿がフラッシュバックしている。
機械音と水泡の割れる音の入り交じった寒い部屋。薄暗いその部屋の中央に聳える水槽の中に眠る、少女……。
『怖がらせてしまったようですね……しかし、私は彼女と相反する存在、貴方の味方です』
始祖の鬼 リリーの姿をした半透明の少女は、遠慮がちにそう言った。美しい声だ。その瞳は、『聖域』で見たリリーとは対照的で、コバルトブルーの様な色だ。
その綺麗な瞳が俺を見つめる。
『貴方の助けが、必要なのです』
その瞬間、パズルのピースのように周りの景色が崩れていった。青かった空も、新緑の草木も、小さく咲いていた名も知らぬ花々も。
暗闇の中に残されたのは、俺と、目の前にいるリリーと名乗った少女。そして、足元で寝息を立てるこだまだけだった。
それ以外は“無”だった。それ以上、それ以下でもない。
「俺の、助けが……?」
俺は訊ねた。
分からないことだらけだけど、直感的に訊かずには居られなかったのだ。
少女はニコリと笑う。
『はい。でも、その前に……貴方に謝らねばならない事があります。あの夜、あの場所に貴方方二人を呼んだのは、紛れもなく私です。危ない目に遭わせてしまった……本当にごめんなさい』
深々と頭を下げる彼女の言葉は、本当に申し訳ないという気持ちが滲み出るようだった。そこまで謝られると、俺も何と返せばいいか分からない。
しかしなるほど。よく思い出してみれば、空耳のように聞こえていた『姿なき声』はこんな声だったように思う。
そして俺は、意を決して訊ねた。
「君は、いったい誰なんだ」




