目覚め
「アキト……アキト!」
聞きなれた声を聞いた。
重い瞼をそっとこじ開けてみる。すると、眩い光が目に刺さった。其の残像は閉じた瞼の裏にぼんやりと映った。今度は慎重に片目ずつ開いた。ぼんやりと霞んだ視界には世界がまだうまく映らない。ゆっくりと、視界以外の五感を取り戻していく。
俺は、悪い夢を見ていた。とてつもなく悪い夢だった。その名残なのか、体が重い気がしてしまう。
目だけを横にやる。すると、人の影があった。短い茶髪を顔の左側だけ耳にかけ、そこに羽の髪飾りをつけた女性。それなりに整った顔立ちだが、少しつり目気味のところが鏡で見た俺の顔とよく似ていた。亡くなった父さんにそっくりの目だ。
それはいつも俺を起こしてくれる姉貴の顔だった。
「おはよう……?」
「何いってんのよバカッ……!」
何気ない一言を発した瞬間、その表情は安堵に変わった。そして、目頭から涙がこぼれた。徐々に戻ってきた手足の感覚をたどると、彼女は俺の手を固く握りしめていた。
「姉貴……?」
細い体が覆いかぶさってきた。シャツから香る柔軟剤の匂いは、紛れもなく姉貴のもの。サラサラとした短い髪からはシャンプーのいい香りがする。こんなにも取り乱している姉貴を見るのはいつぶりだろうか。肩のあたりで嗚咽が聞こえる。
単に俺は眠りから覚めた訳ではなさそうだ。これは、姉の反応を見れば明らかだし、加えて、ひどい倦怠感と空腹感に襲われている自分の体の異常からもそう思う。何がどうなっている。
さらに、慣れた視覚は見慣れない物ばかりを映し出した。
窓は見当たらない、明るい室内。
天井には、清潔感のある白色の光を発する蛍光灯。
白いカーテンに囲まれた狭い空間。
記憶の中で最も近い其れは病院、または学校の保健室だった。においもまた、それらに似ている。
すると突然足元でカーテンが開いた音がした。
「思ったより早く目覚めてよかったね、夕妃」
「ええ。ほんとに、ほんとによかった!」
姉貴は俺から離れた。
背中が押される感覚とともに、ベッドごと上体を起こされる。機械音が鳴り響いた。
「やあ、初めましてだね。本城 暁人君」
透き通るようなグリーンの碧眼に、丸いメガネ。
サラサラとしたブロンドの髪を短く切りそろえ、パリッとした黒スーツに身を包んでいる。ネクタイも黒い色。パッと見、喪服と勘違いしてしまいそうだ。どう見ても日本人だとは思えないが、彼はとても流暢な日本語を話していた。知的な英国紳士と言うべきか。そんな印象のある男が目線の先にいた。
歳はまだ、二十代半ばから後半くらいにも見える。いや、もしかしたらもっと若いかもしれない。
彼の頭から下の姿を見て、少し驚いた。車椅子に乗っていたのだ。耳を澄ますとレバーの乾いた音と、モーターの微高音が聞こえる。
「僕は少し足が悪くてね」
俺の視線を察したのか、彼は笑顔でそう言った。
なんだか申し訳ない気もしたが、別に気にしている様子ではない。
しかし、一体、この男は何者なのだろうか。先ほどの口調からして、彼と姉貴は知り合いのようだ。姉の夕妃はこの前の春に塾の講師になった。もしかしたらその知り合いだろうか? いや、そうだとしても彼が此処にいる理由にはならない。悶々とした考えが頭をさらに混乱させる。
「あぁ、僕が何者か気になるようだね? 顔に書いてあるよ」
「え、いや、あの……」
図星すぎて返す言葉が見つからなかった。対して、彼は笑顔を崩すことはない。
「僕は、メルデス=サングシュペリ。ここの責任者だよ」
「一つ謝らなくちゃいけないことがあるわ。アキト。私が勤めてるのは塾なんかじゃなくって、彼の経営している学校なの。言いにくい事情があって隠していたの。ごめん」
彼の名前には何か引っかかりを覚えたが、どこかで聞いたのだろうか。それに、姉貴の言いにくい事情というのも気になる。
「もう少し分かりやすく言ってくれよ、姉貴。俺に何を隠そうとしてたんだよ。俺達、家族だろ?」
「本当にごめんなさい、アキト。でも、これはアキトのためを思って……いつかは話そうと思っていたのよ」
「俺の為? どこで働いてるかくらい弟に隠すものでもないだろ」
いつになくハッキリとしない姉貴の物言いについ強い口調になる。今、俺達にとって家族と呼べるのは互いの存在だけだ。
「少し、いいかな」
金髪男、メルデスが口を開いた。
「彼女はずっと悩んでいたんだ。君に真実を話すか否か。それは僕が保証しよう。最終的には僕が彼女に言わないように言ったんだよ。あまりユーヒを責めないでほしい」
「別に、責めてなんて……」
口ごもる俺の顔を覗き込み、メルデスは神妙な顔をした。
「君には、この事実を知る権利がある。でも同時に、それ相応の覚悟も必要だ。覚悟はあるかい? これまでの日常を失うことになるかもしれないよ」
「……それは困るかもしれない。でも、それを姉貴だけに背負わせたくはない」
もしかしたら、この俺の言葉は震えていたのかもしれない。姉貴が心配そうに眉を下げた。メルデスは少し口角をあげた。満足そうに。
「それでこそ、君だよ。本城暁人君」
彼はレバーを操作して車いすを動かした。するすると真横へとやってくる。ぴたりと止まったメルデスはその白い手を差し出す。俺は生唾を飲んだ。
「僕たちは、ミュートロギア。君がいるこの場所は、その本部中枢に他ならない。ようこそミュートロギアへ」