AM 2 : 24
時刻は深夜二時二十四分。
あの女性以降来客はなく暇を持て余した。手持ち無沙汰にカウンターの中をウロウロ歩き回る。
その時、バックのドアが勢いよく開く音がした。こんな時間に店の裏口から入ってくる人物は一人しか思い当たらない。
「いやぁーこりゃ参ったよ。すごい雨だ」
「店長、濡れまくってますね。タオル要りますか」
彼は俺の雇い主、このコンビニの店長兼オーナーだ。
もの凄くいい人で、異能力者に関しては穏健派で、俺が異能持ちである事も解ったうえで接してくれる存在だ。カウンターの近くに置いたタオルを投げて寄越すと「サンキュー」と笑窪と共に親指を立てた。
大きな荷物を持つ彼はバックヤードで窮屈そうに身をよじらせる。ドスン、と鞄を机に置いて頭を拭き始めた。それよりも、ビールで膨れた腹回りとか肩が濡れてるんだけどなぁ……と苦笑しつつも俺はカウンターに戻る。
「アキト、そろそろ帰る準備していいぞ。傘持ってるか?」
「一応は」
「なら良かった。気をつけて帰れよ。寄り道せずにな」
しばらくすると、彼は此処の制服に着替えてのそりと姿を現した。この時間でバイトは終わり。彼と交代だ。
「その、なんだ。最近物騒な事件が多いから……」
「もう俺は高二ですよ。夜道くらい慣れましたよ」
「はは、警察官の息子なだけある」
「それとこれとは別でしょう」
俺も、はは、と笑った。警察官だった親父と店長はちょっとした顔馴染みだった。
制服の上からパーカーを羽織った俺は店の裏口から外に出た。あたり一帯を覆いつくす雨音と独特な臭い。こんな大雨はいつぶりだろうか。傘に当たる雨粒はバチバチと激しい音を立てて跳ね返る。せっかく傘をさしても地面で跳ねた雨粒がズボンの裾を濡らしてしまった。水を吸ったスニーカーも重い。ここまで酷くなるのなら長靴にすればよかった。
夕方の自分を少し恨みながらも歩みを進める。自宅までのおよそ二十分の道のりはずっと水浸しだ。イヤホンの隙間から、わずかに雨音が割り込んでくる。
こんな日は特に誰とすれ違うこともない。誰も聞いていないことをいいことに鼻歌なんかを歌ってみたりする。一人きりのこの時間は、何も考えずにいられる貴重な時間だ。
それなのに、脳裏にふと何かがふと湧いて出た。
季節外れな服装に、不自然な額の布。冷え切ったような黒いまなざしと、絹のように白い肌。そして、鈍色に光るギターケース。
彼女はいったい、何者だったのだろう。変わった客は今までも多く見てきたつもりだが、彼女だけはどこか特別だった。直観といえばよいのだろうか。彼女の中に何かこの世のものではない物を見た様な気がするのだ。彼女の《声》の正体が解らない。それは喉の浅いところに引っかかった小骨のようなわずらわしさを感じる。
さっきの《声》は誰もが聞けるものではない。俺が、異能力者であるからこそだ。
俺の異能、それは『潜在潜入』と命名されている。俺以外にこの名をつけられた異能を持つ人間は今のところいない。『読心能力』と呼ばれる異能力に近い。だが、俺のはその劣化版と言っても差し支えないだろう。人間の行動や思考には表面的なものと内面的なものがある。喜怒哀楽や生理的な欲求は本人にも自覚があるからこそ表面的であると言える。だが、内面的なものは本人ですら自覚していないことがある。していたとしても、それを何かに封じこめていたり、何かに抑え込まれていたりする。これは潜在意識と言われているらしい。読心能力者が読めるのは前者だが、俺は後者を感じ取る。
幼かった俺は覚えていないが、母親は異能力専門の医者にそう説明されたのだという。データベースにもそう書いてあったのだからそうなのだろう。
彼女は、心の奥底で助けを求めていた。だが俺にはもう関係の無いこと。会うことはもう無いだろう。会ったとしてもまたその時はきっと客と店員という関係だ。何もできることは無い。もう、忘れよう。
雨脚はどんどん激しさを増す。傘を雨水が激しく叩く。ズボンはもうびしょ濡れで、靴にも水が染みて兎に角、気持ちが悪い。早く家に辿り着きたい。
大きな国道沿いの道を一人歩く。あと少しだ。
街灯が転々と道を照らしている。歩道側はちょっとした緑地公園となっている事もあり、木々が生い茂り、雨と風のせいで叩き落とされた木の葉が路面を僅かに賑わせていた。
今夜は雨のせいか、さっきから全く誰ともすれ違わない。まぁこんな夜中だ。雨なのにフラフラと出歩く人なんて、なかなかいないだろう。
でも、おかしい。何かが、おかしい。
誰ともすれ違わないことはたまにある。だが、ひとつ。俺の直感がこの違和感に警鐘を鳴らす。
俺はさっきから一度も車を見ていない。
そんなはずはないだろう。この道は街を縦断し、都市部に直結している幹線道路だ。なのに、車が全く通らないなんて有り得ない。
自然と歩みが速くなる。傘の柄を握る掌に雨とは違う水分が滲む。雨音をかき消すように自分の鼓動が聞こえる気がした。
振動で外れたイヤホンがカチカチと傘の柄に当たっている。公園の前を通り過ぎ、高級住宅街のエリアに差しかかる。このエリアの先に俺の家がある。
その時、視界が突然明滅した。街灯が一斉にチカチカと目眩のしそうな光り方をするようになった。真横の高層マンションの廊下の電灯も同じ光り方をしている。
不可思議な現象、しんと静まり返った国道。考えたくもないが、俺の思考はひとつの答えを提示した。
「ミュートロギア……」
ラジオのニュースで聞いたアナウンサーの声で、その単語が突如何度も脳内を往復した。
逃げればいい。分かってる。まずは引き返せ。
なのに、足が竦んで動いてくれなかった。こんな所に居ちゃいけない、なのに、言う事を聞いてくれない。鼓動がまた一段と速くなる。雨音さえも気にならない程に。
だが、その一瞬の静止はある意味俺を救ったのかもしれない。何かが落ちてきて数センチ先に転がったからだ。明滅する光で、それが何かよく見えない。ただ、印象的なのは落ちた瞬間の鈍く低い音と、何かが潰れて中身が飛び出すような音。
それが何かを凝視して確かめようとしたが、さらにその行為を中断せざるを得ないことが起こる。
鼓膜がヒリヒリとするような爆発音。それはちょうど俺の真上からしたように思われた。
間違いない。俺はもう何かの事件に巻き込まれている。そう思えると逆に冷静になれた。さっきの何かを確かめる事は諦めて踵を返す。
駆け出そうとした瞬間に、再び何かが落ちてくる音がした。着地音に反射的にふりかえってしまう。
「ひぃっ」
俺は、そいつと目が合った。
「目撃者は処分する」
雨の音に紛れながらも、確かに聞こえたその声。
俺はそれに覚えがあった。真夏なのに漆黒のコートを纏う妙な出で立ちと、対照的な白い肌。明滅を繰り返す街灯の下、肩越しにこちらを見つめている。その目は、赤い色をしていた。さっきのような冷たい黒ではない。焔のような紅蓮の瞳。しかもそれは、ただ赤いのではない。禍々しい光を放っていた。暗闇でも浮かび上がるほどに。
逃げろ。本能が叫びを上げる。しかし、彼女の方が速かった。
俺と彼女の間には、おそらく三メートルくらいの距離があったはずだった。それなのに、赤い瞳はもう俺の目と鼻の先だった。
こうして近くで見ると、紛れもなくあの客の女だった。凛々しい瞳はそのままに、虹彩が赤く発光している。
「……ッ! なん……だ?」
突然下腹部に広がる痛みを覚えた。そして熱いものが流れ落ちる感覚。これは、何だ。
少し目線を下げてみると理由がわかった。
刺されていた。暗くてよく見えないけれど、かなり鋭利な刃物で。
身体の中で何かが抉られたような感触がする。そして、彼女の腕の動きと共に俺の中からその何かが出ていった。
するりと手の力が抜けて傘を落としてしまう。ピンと張った帆が路面をバウンドする微かな音がした。
その女は終始冷ややかな目で俺を見ていた。酷く、冷たい目。感情は一切篭っていない。それで、やはりあの女なのか、と確かな確証を得る。
遂に全身の力が抜けた。そのまま赤く汚れた水溜りの中に崩れ落ちる。意識が、薄れる。見えてる物が白と黒に見え、時折霞んで……電波の悪いテレビを見せられているような気さえした。
これは死の予感だろうか。
死、とはもっと一瞬の出来事だと思っていた。こんなに長い時間をかけて命は尽きるのか。この状況でふとそのようなことを思う。
顔を地面に擦り付けた。鼻腔には鉄のサビにも似た血の匂いが充満する。まだ感覚は残っている。でも、もうここから逃れようとかそんな気は起こらない。覚悟よりは諦めに近い感覚だった。
「──てぃ! みきてぃ!」
遠くから新たな声が近づいてくる。知らない声。女の子の声……鈴がなるようで可愛らしい。こんなところにいるべきでは無い、場違いな声の主に警告できるほど俺には余力がないらしい。小さく呻くのがやっとだった。
「誰だ、貴様」
「みきてぃ……私が誰だかわからないの!」
「わからない。だが、危険だ」
甲高い声は女と会話を試みたらしい。だが、それは無駄に終わったようだ。直後、俺の目の前に薄らと見えていた黒いブーツが水を撥ねながら遠のいた。
突然、白い光が視界に飛び込んだ。
「こだま! てめぇ、何しに来た!」
「早く! 早くみきてぃを追いかけてよ!」
「無駄だ。手前があんな所に飛び出さなきゃ……」
次は少し掠れている、でも若い男の声が少女らしき声と争っている。彼らは一体何者なのだろうか。しかし、彼らの口調からして俺を刺した女の仲間ではないらしい。
バシャバシャと水溜りを踏みつける音が聞こえた。周囲に人の気配が増えた。
「メルデス、早く! 私だって、戦えるんだから!」
「その願いは聞けない。君は、戦うべきじゃない」
今度は別の声が彼女と言い争っている。
「彼を、どうしたものか」
「始末するしかねェだろ。何を今更日和ってやがる」
「いや、よく見てご覧よ」
「……これは」
彼らは何の話をしているのだろうか。俺の話? 俺ならもう、恐らくこのまま死ぬ。さっきまで感じていた指先の冷たさも既に感じ無くなっている。
「標的は逃走した。撤退準備に入れ。それと、彼を回収するよ」
「それは命令か?」
「ああ。彼は、最後の……」
俺が聞き取れたのはここまでだった。閉じた瞼の向こうに見えていた光すら感じられなくなった。嗚呼、走馬灯とはこのことか。家族の微笑む姿がまぶたの裏に浮かんだ。みんな笑って俺に手を差し伸べていた。
遠くで誰かが俺を呼んだ。白く、どこまでも続く海を泳ぐ俺の名を。
「歩み寄る者よ、役目を果たしなさい」
「ああ。わかってる」
顔の見えない何かが微笑んだ。