夢の姉妹
目覚めると、そこには白い天井。俺の周りを囲むのは、白いカーテン。少し病院のような匂いのするシーツ。
爽やかな風が窓から入ってきている。窓の外では、木の葉がサワサワと心地よい響きを運んでいた。
病室のように見えるが、Dr.レンの病室とは全くもって違う。タバコの匂いも染み付いていない。この明るさは、蛍光灯の明るさではなく、自然の明るさ、つまり太陽光。
(ここ、この学校の保健室か)
前の学校もこんな感じだった気がするなぁ、と俺は体をベッドから起こした。映った景色をぼぉーっと目の中に収める。
そうだ、よそ見しててテニスボールが頭に当たったんだった。見事にたんこぶになっているが、気になるほどではない。
テニスのボールは、硬式にもなるとそれなりの硬さと弾性がある。そして、プロの選手ともなるとサービスは二百キロを超えてくる、そんな危険スポーツなのだ。俺たちみたいなド素人でも男子ならば、人ひとり昏倒させるくらいの威力が出る。やっぱり、よそ見はするべきじゃない。
チラと時計を見ると、六時間目の真っ最中だった。
「あの、もう大丈夫なので、教室に戻ります」
初日から保健室でダウンする転校生って色々目立つよな。それは困る。早いこと戻ろう。そう思いカーテン越しに呼びかけたが、誰も来ない。
仕方なく、ベット横に綺麗に揃えて置かれていたスリッパに足をとおし、カーテンの囲いの中から出てみる。
そこにはやはり、誰もいなかった。
散らかり気味のデスクが置いてあり、そこで
【目覚めても勝手に授業に戻らないでね♡】
と書かれたメモを発見した。
謎に、♡マークまで付いている。やけに女っぽい字だな。まぁ、恐らく保健室の先生だろうけど。
待てと言われれば待つしかないだろう。仕方なくその場で待つことにした。
その時、少し強い風が保健室内に吹き込んだ。
朝、あの少年が言っていた、『アジトには出入口がない』という言葉。実は、本当にあそこには窓すらもない。だから、こうやって外の光を浴びて、新鮮な空気を吸うのはとても久しぶりだ。
俺が寝ていた隣のベッド。先ほどの風でカーテンが半分ほど開いてしまったらしい。
(誰か寝てる)
俺はちらりとそこを覗き込んだ。
あいつだ。特徴的な髪の色。こだまに間違いない。
(またサボりやがって)
先ほどのビンタや、爆弾発言のことも含めて、一発引っぱたいてやろうか。他のクラスメイトほど俺は優しくないんでね。
「おい、起きやがれ。このバ……」
「ハァ、ハァハァ、ハァ、ハァハァ」
何故かこだまは苦しそうに喘いでいた。額には汗が滲み、顔つきが険しい。掛け布団をぎゅっと掴んで時折悶えている。
さっきまで、あんなにピンピンしてたのに。どうしたんだ。
こだまの頬を、雫が伝う。汗が流れているのかと思ったが違った。
目尻からスッと駆け落ちた彗星が枕に染みた。泣いているんだ。でも何故……。
「おねぇちゃん……どこ?」
消え入りそうな声。寝言で誰かを探しているらしい。
「おい、大丈夫か」
もしかして、とんでもない高熱に魘されているんじゃないかと心配になった。こだまの額に掌を当てた。
少しねっとりとした暖かい感触。熱と言う程じゃない。心配する程じゃないな、と手を話そうとした。だがその瞬間、俺の意識の隙間を掻い潜るように何かがドッと流れ込んできた。
□◆□
そして、俺は見知らぬ場所にいた。
打ち付ける波の音。潮の香り。時刻は昼をすぎてもう少しで夕方といったところだろうか。日がだいぶと傾きかけている。
大きな入道雲が、水平線の向こうに見えた。
周りにはたくさんの人。
松林を抜けた奥には切り立った崖。その真下では、岩で白波が砕け散る様子が見て取れる。
(深層潜入した、のか)
夢は、即ちその人の無意識。暫くこんな事は無かったが、確かに俺には他人の夢を見る能力がある。あまりいい気分ではないが、うまく制御出来ないから何となしにこの空間を抜け出すことなんてできない。昔、姉貴がイケメン俳優とイチャイチャしている地獄絵図を見て以来かな。
さて、この夢を見ている本人、こだまがどこかにいるはずだ。
辺りを見回してみる。俺はそこで重要な事に気づいた。
(あれ? 此処、来たことがあるかもしれない)
先ほどの『見知らぬ場所』というのは撤回する。俺は昔、此処に来たことがある。大きな神社と崖で有名な場所だ。断崖絶壁に建つ神社。かなり歴史が古いらしい。
中でも特徴的なのが、その崖の、ど真ん中にある祠だ。どうやって建てたか不明らしいが、その祠の中に御神体が祀られてるのだとか。俺は小学生の時に課外研修で訪れた。
いずれも今は閉鎖されているらしいけど。
「こだま、危ないから離れちゃダメ」
「おねーちゃん! すごいよっ! 水がびしゃーんどしゃーーんって!」
こだま?
ああ、見つけた。
今と変わらずウサギみたいにしたリボンをピョコピョコさせている。しかし、髪が黒くて、短い。雰囲気が少し違うな。あの少女が呼ばなければ気づかなかったかもしれない。しかし、言われてみればこだまに似ているようにも思う。
今の歳のこだまはただのバカだが、幼いこだまはとても可愛らしい。年相応って感じかな。
見た所、小学校低~中学年か。いや、今もかなり小柄だからもう少し上だろうか。
そして、そのこだまの傍へ駆け寄り長髪の少女が手を繋いだ。だが、幼いこだまはその手を振りきって一人どこかへ行ってしまう。
困り顔の彼女が振り返った。黒髪、スラッとした出で立ち。歳は俺と同じくらい。現在のこだまより少しだけ背が高く、体つきもしっかりしているが、雰囲気は似ている。姉妹で間違いなさそうだが、何だろうこの感じ。既視感のような。
(あの人、どこかで……)
「みきねーちゃんも! ほら!」
「凄いねぇ。ほら、そろそろ戻んないとパパとママが心配するよ。早く行こ」
ちいさなこだまはその女をみきと呼んだ。みき、ミキ、美希……美姫。そうだ、あの女は。気が付くと、心臓がドクドクと激しく伸縮し、胸を締め付けた。あの赤い瞳が脳裏でフラッシュバックする。
あれは、あの夜俺を襲った女……天雨美姫だ。
「あんたら、姉妹かえ?」
地元の人だろうか、老婆が優しい顔をした天雨美姫に話しかける。婆さん、離れろ。そいつは暗殺者だ。
「ええ、まぁ。少し歳が離れてるんですけどね」
しかし、全く雰囲気が違う。
彼女はとても愛想よく笑みを浮かべていた。間違っても人を出会い頭に刺殺してしまうようなそんな人間には見えない。目つきは少し鋭いが、赤く光っていなければあんなに冷たい瞳でもない。
さらに俺は自分の耳を疑った。
あのこだまと暗殺者が、姉妹……? その言葉に最も衝撃を受けた。動悸を押さえつける。頭がガンガンと痛み始めた。
本当なのだろうか。いや、もしかしたら、彼女の空想からやって来た夢かもしれない。でも……!
それにしては、リアル過ぎる。
「誰か! 子供が!」
突然、崖の方で若い女がヒステリックな声を上げた。一同の視線はそちらへ向く。天雨美姫も駆け出していた。その背を追うように視点が変化する。
「子供が祠の屋根の上に!」
なんだって……? まさか。
肩で息をする天雨美姫が野次馬を跳ね除け、滑り込むように崖下を覗き込んだ。
「こだま、何してるの!」
「おねぇちゃーーん……怖いよぉ」
彼女は膝を擦りむいていた。
祠の屋根に乗ったこだまは上を見上げて涙ぐんでいる。転げ落ちたのだろうか。それにしてはピンピンしているが、自分で降りたのだろうか。何れにせよ、自力で戻ってこられない場所に行ってしまった。その距離は三階から地上を見下ろした位だろうか。
「待って、今行くから!」
天雨美姫が着ていたTシャツの袖をまくり上げた。しかし、人だかりの中からそれを止めようとする声が掛かった。観光客らしい。チェックのシャツに、大きなリュックを背負った初老の男。
「あんさん、正気か? レスキュー隊来るまで待ぃや」
「どのくらいかかりますか?」
焦りを隠しきれない天雨美姫。黒い瞳が彼等をキッと睨むように細められた。
「いつもやったらすぐそこにおるんやけど、今日は近くで火事が起きてなぁ、三十分くらいはかかる」
「それじゃ、間に合わない。喘息の薬がもうそろそろきれるんです。早く……飲ませないと」
「子供が苦しそうにしてるで。どないしたんや!」
崖下のこだまが咳き込み始めた。息が吸えていない。ヒュウヒュウという乾いた音がする。更に騒然となる現場。
天雨美姫が意を決したように立ち上がった。周囲はもう彼女を止めようとしなかった。外国人らしき観光客は胸のロザリオを握り締め天に祈る。怖いもの見たさで寄ってきた若者は携帯でその様子を撮り始めた。
「誰も、止めないでください! レスキュー隊の方には出来るだけ早くと伝えて」
そう言うと、天雨美姫は切り立った崖を降り始めた。しかも、命綱も無しで。無謀すぎる。
「ぜぇ、ひゅう……おねぇ、ちゃん……」
こんな崖を身一つで降りるなど、正気の沙汰ではない。周りにいた人々は手に汗を握った。中には最悪の事態を想像し、胸の前で手を擦り合わせる老婆もいる。
しかし、その予想は砕かれた。良い意味で。
さすが姉妹だ。彼女の運動能力は凄ぶる良かった。彼女はものの一分でこだまの元まで無事に辿り着いたのだ。少し息を切らしているようにも見えるが、その表情には比較的余裕がある。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
泣きじゃくるこだまの背中を優しくさすった。
無事、喘息の薬も飲ませることが出来た。こだまの咳も落ち着いく。上にいる人々からも安堵の声が上がった。
「ここでレスキュー隊の人が来るの待つからね。もう勝手にどこかに言っちゃダメだよ」
「うん。ごめんなさい」
だが、その時それは確かに聞こえた。ミシッ……という不気味な音。べそをかきながら謝るこだまの足元から。
「みきねぇちゃん、今、なんか音がしたよ?」
「え?」
ミシミシミシッという音が今度はハッキリと聞こえた。姉が気づいた時にはもう遅い。咄嗟にこだまを抱き抱えたが……まずい!
大昔からそこにあった祠。
海の傍であったのも不幸したか、かなり老朽化が進んでいたらしい。突如、崩壊した。大きな音を立てて崩れ、崖の下へ散り散りになりながら落下する。崖の上から悲鳴が聞こえる。
(二人は、どうなった……?)
しかし、奇跡は再び起こった。
姉は岩場にどうにかしがみついていた。右腕で岩肌を掴み、左腕でこだまを抱えている。かなりの腕力だ。よいせ、と声を掛けたかと思うと、懸垂の要領で体を上へと持ち上げた。
「仕方ない。このまま登ろっか」
そう呟いて、彼女はこだまを抱えたままヒョイヒョイと崖を登り始めた。今度ばかりは、安堵の声よりもどよめきが巻き起こった。この姉妹の運動能力どうなってんだよ。ほんと。こだまは嬉しそうに姉の顔を見上げている。
気がつけば、人々が立つ崖の上まであともう少し。心配そうに見つめていた大人が、手を差し伸べ、まずはこだまを引き上げた。人々の間に歓声が沸く。
「次は君だね。いくよ、せーの……」
「あれ! なに……ッ?」
男が、天雨美姫を引き上げようとしたその時だった。見下ろしていた黒人風の観光客が声を上げた。皆、彼が指差す方向を見る。
(なんだ……あれ)
壊れた祠の中からどす黒い何かが這い出て蠢いている。それはだんだん人の形になり、何故だろう。顔がないのにこちらを見上げていると、俺は感じた。
そのどす黒い何かが突如形を変え、こちらに向かってきた。異様な光景に、人々は、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。それは、天雨美姫の手を掴んでいた男も例外でなかった。
「お、おねぇちゃあああああああああんッッ!」
「うそ……」
振りほどかれた腕が、空を切り、彼女の身体が岩肌から離れた。こだまの絶叫が響き渡る。
彼女の視線が天雨美姫の顔を捉えて離さない。
すると、真っ黒な影は落下していく天雨美姫を包み込んだ。先ほどのどす黒い何かだ。天雨美姫の身体はそれと共に、荒波が打ち付ける崖を真っ逆さまに落下していく。
鈍い音がした。日常音とはまるで違う音。ゴン、と重い音と、グシャリ、と粘着質な音。
その一部始終を、こだまは見ていた。
落下した姉。黒い何か。
着地直後に見えたのは、頭などから血を流す、姉の姿。
そして、次に見たのは、どす黒い何かが、姉の中に吸い込まれていく姿だった。
そしてその姿は、白波に飲み込まれた───刹那。
すさまじい衝撃波が周辺を襲う。崖の一部が崩れた。薙ぎ倒される松林。一瞬にして海水が蒸発し、湿気と熱風が襲ってくる。人々はさらに逃げ惑う。
こだまもこの衝撃波で数メートル吹き飛ばされていた。何が起こったのかわからないと、きょとんとした表情で海の方を見つめている。額から細く赤い筋が流れ出て、彼女の白く柔らかそうな頬をなぞった。
それでもこだまは視線をまっすぐにしていた。その崖の下から黒いオーラを纏った人影がぬうっと現れる。
「おねぇ……ちゃん?」
こだまは掠れた声で彼女を呼んだ。しかし、姉の姿をしたそれは何の反応も示さない。生まれたての赤子のように、周囲の景色をキョロキョロと見回していた。その赤く光る瞳で。
紛れもなく、あの時俺が遭った天雨美姫。いや、何かが違うような気もする。
「そっか、身体と心臓は別のところに隠したか。ま、この身体……使えそうだし、ひと暴れするかな」
俺が聞いたのとは違う声だった。先ほどの天雨美姫の声とも異なる声で、彼女の口が別人の声で独り言を呟いている。
彼女の額にはツノが二本。禍々しい赤い瞳の色はあの時と酷似している。
天雨美姫が、自身の胸元に手を当てた。すると、どういうわけだろう。彼女の身体から一振りの刀が現れた。
「こんな鞘、前からあったっけ? 要らないよこんなの」
刀を抜き払い、鞘はどこかへ放り投げた。カランカラン、と乾いた音とともに小石の上を滑った。
「さて、まずは手始めかな」
刀で空を薙いだ。すると、漆黒の弓が七本現れ、四方八方に飛んでいった。
刀で地を薙いだ。すると、辺り一面火の海となった。野次馬が火達磨になる。子供を庇おうとした父親の背に焼けた礫が突き刺さる。
燃え盛る炎の中に佇む小さな影。
こだまは、目の前で何が起きているのか分からずに、ただただ泣きじゃくっていた。
飛び交う怒号と、悲鳴。
何かが焦げる匂い。
姉の高笑い。
恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖
《助けて》
□◆□
俺は、とんでもないものを見てしまったのかもしれない。
危うく、こだまの夢に取り込まれるところだった。こっちに戻ってきた俺。意識だけが潜入していたはずなのに、汗で体が湿っていた。
「んーっ。よく寝たぁー。あれ? なんでいるの?」
「な、何でもない」
見てはいけないものを見てしまった気がして、こだまの目を見ることが出来なかった。居所が悪かった俺は、保健室を飛び出す。
俺はその後、授業が終わるのを見計らって教室に戻り、こだまに出くわすことがないように、そそくさと学校を後にした。
携帯のGPSを頼りに、バイト先に向かう。電車を乗り継いでやっとたどり着いた頃にはもう夕暮れ時。
真っ赤な夕日が空を染めている。その赤が、天雨美姫の目の色や、あの地面を焼き尽くす炎の色と被り、俺は身震いした。




