隣人
アキトは暫くツッコミ道中に陥る予定です。
アキト『え、やだ……』
作者『つべこべ言わないの』
隣の席の奴にくらい挨拶しないと……と思った俺は思い切って声をかけようとした。それが社交辞令というものだろう。だが、しかし。
隣の席のそいつは机に突っ伏している。時折スーピースーピーという何とも気持ちよさそうな寝息が聞こえてくるほど。知らない奴ならもうそのまま放っておくのだが、しかし、俺はこいつを見たことがある。顔を合わせたことがある人物だ。
特徴的な髪の色。夕陽の色にもよく似た、杏色。そして、頭の変なリボン。彼女と直接喋ったことはないし、どんな人間なのか詳しくは知らないが、変な奴であることは確かである。
そう、こいつは……ッ!
「んぁ? 誰ぇーー?」
彼女はガバッと寝ぼけた顔で起き上がった。顔には服のシワがうつっている。可愛らしい顔をしているものの、その表情は、少しアホっぽい。いや、少しじゃない、だいぶだな。口からよだれが垂れており、目は半分くらいしか開いていない。
てか、こいつ、高校生だったのかよ。しかも同い歳か。
どーみても、中学生だろ。この前会った時の記憶が正しければ身長は俺よりも20センチくらい低くて、かなり華奢な感じがした。まぁ、体格は個人差があるため一概には言えないが……あの病室での珍事からすると、やはり高校生には見えないな。
まぁしかし、誰ぇー? と言われたからには返事をしなければいけない。そういえばあの時名前は名乗らなかったからな。
「あー、今日からこのクラスでお世話になる本城暁人だ。暫く隣の席だから、よろしく」
「ほんじょーあきとー? はじめましてぇー」
ヘラヘラと笑って、手を差し出してくる。握手に応じると、そいつはブンブンと力強く俺の腕を振り回した。
痛い痛い痛い!
痛すぎて深層意識も何も感じ無い。いや、阿呆だからなんも考えてないとか……? まぁ、いいや。初っ端から他人様の心を覗くなんていう趣味の悪い事態にならずに済んだんだからな。
「初めましてだねー。私、こだまって言うんだよー。わかんない事あったらなんでもきーてね」
「あ、え? う、うん。よろしく」
(こいつ、前会ったの覚えてないのか?)
こだまと言った少女は、俺の手を離し、ふらっと立ち上がった。足取りが覚束無い。くるりと俺に向き直ると、細い指をピシッと立てて口を開いた。
「一時間目は……古典かぁー。私、保健室行くね」
「体調でも悪いのか?」
朝っぱらからこんなに寝ていたということはかなり体調が悪いのだろうか。いや、ミュートロギアにいた時は周りのヤツにちょっかい出して遊んでたよな。空元気?
「うん。瞼がねこう、ピターってくっつく病気なの」
ピターって? くっつく?
なんだその病気、聞いたことないぞ。
すると突然、小さな身体の軸が不自然にぶれた。長いまつげをつけた瞼が下瞼へ急降下している。
(うぉおおおおい……ッ?)
そして、こだまが俺にもたれかかってきた。条件反射で受け止めてしまったが、熱などはない。まさかと思ったが、どうやら寝ているようだ。
スゥピィという寝息が首元にかかる。かなり擽ったい。ふわりと女子特有のいい香りが鼻腔に吸い込まれ……いかんいかん。そんなうふふあははなシチュエーションを俺は望んじゃいないっての。
「おい、起きろって」
無理やり元いた席にこだまを戻そうとした。
周りのヤツらはこだまと俺に対しさぞかし冷たい目線を送っているのではと焦ったが、特に誰も気にした様子はない。もしかして、これは日常茶飯事?
「ゆーひの匂い……それとぉ」
声がしたので見下ろすと、こだまが、まっすぐ俺の目を見ていた。
くりくりっとした黒い瞳。女子にこんな間近で見つめられることなど無い俺は、少しドキッとしてしまった。抗体はこういう時に必要なんだな。
「なぁ、その……どいてくれねぇか?」
軽くドギマギしながら言ってみた。その様子を誰かがクスクスと笑っている。悪かったなシャイボーイで。こだまは暫く何のことかわからなかったようだが、状況をやっとわかった時には、タコみたいに赤くなって……。
「バ……バ、ッ……バカっ! このッへんたぁああああい!」
──ベチーーーーーーーーン………ッ!
何かが炸裂する音。いや、何かじゃない。俺の頬と奴の手のコンマ数ミリの隙間で圧縮された空気が弾け飛んだ。
痛……ッ! 理 不 尽 ッ
「ってーなーッ!」
大きく振りかぶったちっこい手が亜音速で飛んできたのだ。この至近距離、かつ、想定以上の勢い。避けられるはずが無い。
左頬に盛大なビンタを喰らった。倒れてきたのお前だろーが。てかマジで痛いんすけど。ぶたれた直後から熱を帯びてる。ヒリヒリする。
こだまは悪びれる様子もないどころか、頭から湯気を出しながら、ツカツカと教室を後にした。なんだよアイツ!
この学校は珍しく始業式の日から丸一日普通に授業を行うようだ。姉貴……もとい本城先生が用意をしていてくれたため特に不具合はないが、強いて言うなれば、午前の授業の間、左頬が痛いのなんの。ずっと熱を帯びていた。
ついでに言うと、あのウサギ女は三時間目、姉……夕妃先生の現代文の授業になると戻ってきたが、それでも、机に突っ伏して寝ていた。一度は先生も起こしに来たが、ふにゃふにゃとよく分からないことを口走った挙句また突っ伏す。それを見て、周りはクスッと笑うものの、こだまを起こそうとする者も嫌味を言ったりする者もいない。平和なクラスだねほんと。いろんな意味で。
昼、姉貴……じゃなくて、夕妃先生が特別に食券をくれて、一緒に食事をすることになった。食堂もレトロな感じで、雰囲気はとても良い。カウンターで料理を頼むやり方は大学の学食と酷似している。
その食堂の隅で、俺は異様な光景を見た。
プリンの、山がある。 プリントじゃないぞ、プリンだ。
そのプリン山の頂上、そこから、ぴょこぴょことうさぎの耳みたいなのが見え隠れする。何となく、いや、確信を持って半歩後ずさった。
「あ……っ、ゆーひーーっ! 一緒に食べよ! ここ、空いてるよ!」
やはり奴だ。おい、さっきまで授業爆睡してたのになんだその変わり身の速さは。さぞかし姉貴は怒るに違いない。
「あら、こだま。いいの?」
え、怒らないのかよ。おい、スルーなのかよ!
こだまが指さしたところは確かに空席になっていた。こだまはタメ語でいいのかよ。なんか随分と好待遇なんだな。
昼時の食堂。随分と人が混雑していたが、こだまの周りには人がいない。
ま、誰だってあのプリン山見たら引くよな。人の波がそこだけを避けているのが分かる。クラスメイトは特にこだまのこういう変なところに対して寛容な様子だが、流石にほかのクラスの人間にとってはそうではないのだろう。
他に席は空いていないようだ。仕方なく、俺は夕妃先生とともにこだまの向かい側の席につく。
「じゃあ、適当になんか買ってくるわね。アキ……本城くんは何か食べたいのある?」
「な、なんでもいいです」
夕妃先生は、生徒や先生方でごった返す中に進撃していった。
俺の目の前には、巨大なプリン山と、ウサギ女。周りの奴らはやはり俺達の席には近寄ろうとしない。時折クラスの女子が数名いたが、特にこの光景に突っ込むこともなく通り過ぎていった。
「ねぇ、リヒトくん」
「それ、俺に言ってるか?」
「うん」
視線を感じたためまさかと思ったが……ったく。俺は、いつからリヒトくんになった?
そのこだまはひたすらプリンを食べている。カラメルソースを豪快にかきこんで軽く噎せた。
「アキトって言ったろ」
「げほっ、あれ? そうだっけ」
こいつは……頭大丈夫か?
1週間くらい前に会ったのに覚えてないし、つい四時間ほど前に言った名前を見事に間違えてくれた。最後の「ト」しか掠ってねぇし。
今気づいたが、こだまの横にはプリンのカップの塔が建設されていた。三十センチ程だろうか。もうこんなに食ったのかだろうか。いや、そもそもどんだけあったのだろう。この少女がある意味怖くなる。
「キミ、ゆーひの弟でしょ」
なん、だと? 俺、そんなバレるようなことしたかな。
プリンを頬張りながら、こだまは核心を突いてきた。半目で俺を見上げてくる。
てか、プリンはそんな浴びるように食べるデザートだっただろうか。さらに言えば、それ以外の食料が彼女の周りに見受けられないのだが。
「匂いがゆーひと同じだった」
そう言うこだまの目には一定の確信がある。俺の顔をじっと見つめる。プリンを掻き込みながら。って、匂いとか……犬か。ウサギじゃなくて、犬なのか?
ジト目を離す事無く、ねぇどうなの、と回答をせがんできた。新しいプリンを開封しながら。
ミュートロギアの人間だし言っても大丈夫かな、と腹を括った。
「そうだ。でも、ここではそれ内緒にしてくれよ。いいな?」
俺が姉キ……夕妃先生に殺されるからな。結構ガチで。顎が痛いとかそんなレベルじゃない。
「分かってるってぇ、アヒルくん」
ヘラヘラと笑いながらこだまは言った。プリンのカップがさらに一つ空になる。
にしても、さっきから俺の名前をことごとく間違えてるというか、間違える度合いが可笑しすぎる。わざとやってるのか、マジでやってるのか。前者だとしたら不愉快極まりない。
「お前はプリン一個食べるごとに人の名前を忘れる人種か?」
「私のプリンなんだからね! あげないからねッ……?」
……話が噛み合わない。これは後者である事を考慮せねばならないかもしれないな。
こいつと会話するの疲れた。はやく戻ってこないかなぁ、夕妃先生。ついでに、早く席替えしてください。
だが、非情にも時は待ってくれなかった。
キーーーンコーーンカンコーーーンという、間延びしたベルの音。食堂の喧騒に負けないような大音量。同じ空間にいた奴らの空気感が少し変化する。焦りのような、落胆のようなそんな空気感。
嘘だろ。夕妃先生帰ってきてないのに。昼飯食ってな……い。
「ごちそーさまっ!」
元気のいい声に振り返ると、目の前のプリン山が、なくなっていた。あんなにあったのに……。この少女の胃袋はどうなっているんだ。
「ほ、本城くんゴメンねぇ。あの筋肉野郎に捕まってたのよ」
戻ってきた姉貴……じゃなくて、夕妃先生が申し訳なさそうにコロッケパンを差し出した。顔の近くに差し出されたそれは、少し甘く酸っぱい香りで俺を煽る。
その後方には、今朝、校門に立っていたあの先生がやたら上機嫌で食堂を後にする姿が見えた。あいつ、俺の昼からの栄養の摂取を阻むとは。教師であっても許さねぇ。
「次の授業、体育だったわよね? 頑張ってね」
俺の空腹は絶頂だ。しかし、早く着替えないと授業に遅れる。そういう所は何故か真面目くんを発動してしまう。ま、内申点に響いたら大変だからな。まだ数名の生徒が食堂に残っていたものの、俺のクラスの人間はいなさそうだし。
残っている生徒は皆、聞こえてくる内容的に数学Ⅲについて語り合っている。チッ。三年かよ。
仕方ない。
「体育が終わったら食べる……ます。じゃ、俺行きますね」
空腹を押し殺し、食堂を後にした。申し訳なさそうに笑う姉貴を放置して。姉貴は悪くねぇ、悪いのはあの筋肉野郎だ。
新品の体操服に袖を通し、俺はグラウンドに出た。朝以上に日差しが眩しく、かなり暑い。ジリジリと肌が焼ける感覚がする。もう他のメンツはほとんどが白い土の上に集合している。
そして、俺たちを待ち受けていたのは……。
「ガッハッハッ! いい日だな! いやぁ! 実にいい日だ!」
案の定、あの先生は体育教師だった。何がそんなに面白いんだっての。俺にとっちゃ実に疲れる日だよまったく。不貞腐れる俺を待つ事などありえず、彼は大声を張り続けた。
「いつも言っているとおり、文系クラスで女子が多いが、容赦はしない! 健康な身体、磨きあげられた運動センス! この二つなしに青春を謳歌できると思うかッ! その答えは否ァ! さぁ諸君! 体育を始めようではないかぁーーーッ!」
腹が減ってテンションが低いのもあるが、このテンションについてけるわけない。周りのヤツらも同様だ。彼らはこの授業を今までもやってきたからか特に何食わぬ顔だが、テンションは明らかについていけてない。これについてける奴なんているのか?
「オオーーーーッ!」
いや。いた。
あのプリンしか食ってなかったバカだ。
今ではあまり見られなくなった、というか、絶滅危惧種のブルマーなんかを履いている。女子の体操服はみんなそのようだ。ここは文系クラスで男子は小数。なまっ白い足がたくさん並ぶその光景は圧巻だ。って、いかんいかん。煩悩に支配されるんじゃない。アキト……冷静になれ。ダメだな、やっぱ空腹じゃ思考回路がぶれて仕方が無い。
こだまが上に着ている半袖の胸元には、名字が……ん?
『アプリコット』?
「こだま=アプリコット! 相変わらずいい目をしているな! 気に入ったぞ! ガッハッハッハッハッ!」
こだま=アプリコット? 日本人じゃないのか。それにしても、かわった苗字だな。まるで髪の色とお揃いじゃねぇか。
それと、先程からそうだが、クラスの奴らは、こだまのこの変人ぶりを本当になんとも思っていないようだ。というより、
「いいぞこだま! そうこないとな!」
「さすがこだまだ」
と、軽く賞賛してる。
なるほど。このクラスのムードメーカーってことか。ってことで合点しておこう。俺もみんなに倣ってそういうものだと腹をくくろう。じゃないと、俺がひたすらに心の中でツッこみ続けることになる。
「今日から、新たな仲間がいるらしいな!」
「そうだよっ! ほんじょーアッピーくん!」
なんだよ。アッピーって。本城が分かるならそっちだけでいいだろ。なんで無理やり下の名前まで呼ぶ必要がある。
「本城暁人です。先刻はどうも」
「アキトか! 良い名前だなぁっ! がっハッハッハ!」
いや、朝、名乗ったでしょうが。もういい、ツッこむの疲れたからやめよう。それがいい。じゃないと、カロリーを摂取し損ねた俺の脳がパンクする。いや、もう既にパンク寸前だがな。
「はいはいっ! せんせー! こいつね! ゆーひ先生の弟なんだよっ!」
───嘘……だろ?
い、言いやがった。
クラスの空気が静止した。古い言葉で『四面楚歌』とかいうのがあるらしいが、転校一日目の俺にとっては完全アウェイ。対するあのバカはツッコミどころ満載の敵の総大将。分が悪すぎる。
「ち、ちがうって! 夕妃先生もいってただろ? 赤の他人だって」
必死に弁明する。だが、うまい言い方が出来ない。みんながこっちを見ている。取り乱しては不味いが、かと言って何も言わずに肯定と取られるのも困るし、どうしたものか。
まったく。やはり、こいつに言うのは間違いだった。
すると、クラスメイトの一人が助け舟を出してくれるという奇跡が起こる。この惨事を見かねた神様の贈り物か?
「こだま、SHR寝てるから話聞いてないじゃん。ほら、皆も真に受けちゃダメだって。ね?」
見ると、そのクラスメイトは朝、俺に話しかけてくれたあの爽やか少年だった。太陽を受ける彼の笑顔は後光がさしたように燦々と煌めいていた。すると、皆の空気も変わった。
「そうだよな」
「いや、逆にこだまが先生の話聞いてたら、槍の雨が降るよ」
と口々に喋りだし、ジョークを飛ばしたやつを中心に笑いが巻き起こる。彼は俺にウインクをよこした。な、何なんだよ。この絵に書いたようなイケメンクラスメイトは!
彼のフォローによって、どうにかこの場は切り抜けられたようだった。俺への興味も少しは収まったはず。胸を撫で下ろした。
こだまにバラしたって姉貴に知れたら……俺、殺されるよ。これ以上、このバカが誰かに言いふらさないことを願う俺だった。
体育の授業は、男女分かれて行うらしい。
クラスの大半、女子はグラウンドを使って陸上競技をしている。俺たち男子は、グラウンド横のテニスコートでテニスだ。
俺、実は前の学校ではテニス部だった。夏休み前に辞めたけど。俺以外にもテニス経験のある男子は数名いて、試合形式をして楽しんだ。新入りの俺に対して先程の爽やか少年をはじめ、皆とても親切で色々と話しかけてくれた。深層意識はどうだか知らないが、とりあえず今は純粋にこの好意を受け入れるべきであろう。そう思った俺は素直に雑談にも応じる。
ふと、グラウンドを見てみると、こだまが高飛びをするところだった。見た感じ、一.二メートルくらいか。あんだけプリン食ったあとだ。さぞかし動きづらいだろうな。
そんな俺の予想を他所に、こだまは、軽々と、というか、バーの上、一メートルくらい余裕をもって飛び越えた。
驚きのあまり言葉を失った。なんというジャンプ力だ。
俺でも二メートル飛べるか飛べないかだぞ。
グラウンドでは女子からの黄色い歓声が沸き起こっている。
なるほど。ほかの授業は寝てるのに体育だけ参加するってのはそういうことか。つまりは、運動バカ。ま、人間得手不得手ってもんがあるからな……。
俺としては、そうやってグラウンドを眺めていたのは、ほんの数秒だと思っていたのだが、気を抜いたのがとんでもない仇となった。
「アキトくん! あぶない……ッ!」
「え?」
呼びかけられた時にはもう遅かった。
硬いテニスの、ボールが俺のこめかみに命中した。痛いと感じる前に、俺の意識はブラックアウトした。