スラムの朝
「……ん」
窓から射す陽の光で目が覚める。二、三度、ゆっくりまばたきをしてから起き上がる。その拍子に掛けていた毛布が床に落ちたけれど、それを気にせずにぼんやりと虚空を見つめる。
「ふわ……ぁ…」
一度欠伸をしてから目を擦り、ようやく意識がハッキリしてくる。いつもの壁、いつもの天井、いつもの何もない部屋だ。
「……んぅ、お腹空いたな…」
昨晩は夕食を摂ったのが早かったせいか、空腹を感じる。とはいえ、今はまだ早朝だ。何処の店も開いていないだろう。自炊も出来ない環境だから、作る手段もない。…仮に設備が揃っていたところで、そもそも料理なんて出来ないけど。
「……仕方ない、水でも飲んで紛らわすかな」
粗末なベッドもどきから降りて、部屋の出口に向かう。鍵なんて高級なモノは付いていない扉を開けて外に出る。こちら側は日陰になっているから、薄暗い。と言っても、昼間でも薄暗いけど。
「……ん?…うわ」
ふと嫌な臭いがすると思ったら、薄暗い道の向こう側に泥酔したゴロツキが横たわっていた。傍らには数本の酒瓶が無造作に転がっている。
「…ったく、酔い潰れるぐらい呑むなら、住み処に戻ってから呑めよな」
顔をしかめながら呟くけど、ゴロツキは反応しない。とうやら盛大に眠りこけているようだ。
「…はぁ、朝から嫌なモン見た。…水飲んで流すか」
この嫌な気分ごと飲み下すためにも、さっさと水飲み場まで向かおう。げんなりしながら、薄暗い道を進む。
しばらく歩くと、簡素な小屋が見えてくる。あの今にも倒壊しそうな掘っ立て小屋が、この辺りで唯一の水飲み場だ。商業区へ行けばそこら中に井戸があるけど、それを使えるのは商業区の住人だけだ。もしもスラムの人間が使おうモノなら、たちまち騎士団の連中がやって来て取り押さえられる。奴らはスラム街の中には滅多に干渉しないけど、代わりにスラムの外ではちょっとした事でも出張ってきて、問答無用でスラムの住人を捕まえる。
つまり、スラムの奴は大人しくスラムに引っ込んでろって事だ。
「チッ、嫌な事考えちまった」
水で飲み下す事が増えちまったな。それはさておいて水飲み場に入る。ずいぶん前から補修されてないこの水飲み場の井戸はかなりガタがきていて、もういつ壊れてもおかしくないくらいだ。それに、水も商業区で汲める水に比べたら僅かに濁っている。
とはいえ、その程度に怯む様な奴はスラムでやっていける訳がない。いつもの事だし、その水を飲む。微妙にイガイガするけど、もう飲みなれているから、腹を下したりはしない。
「……おぅーイ! なんだぁ、先客かァ…? ヒック」
「………」
そうして水を飲んでいたら、酔っ払いが中に入ってきた。
「けへへ、オレっちにも汲んでくれよォー…」
「……知るか、自分で汲めよ」
赤ら顔でそんな事をほざく酔っ払いにそう告げて出ようとしたけど、酔っ払いは沸点が低いようで、喚いた。
「アァ? オレが汲めって言ってんだぁから大人しく汲めよこのクソガキィ!」
喚く酔っ払いを無視して外に出ようとしたけど、酔っ払いが肩を掴んできた。いや、肩を通り越して……。
「待てよオラァ! …あン?」
「ッ!!」
「今の…は…?」
「《腕昇》…! …くたばれ!!!」
「ゴブゥゥェエ!!?」
2つ覚えている魔法の内、よく使う魔法である腕力強化の《腕昇》を発動してゴミ野郎をぶん殴る。その拍子に掘っ立て小屋同然の水飲み場の屋根が吹っ飛んだけどそんなの知らない。
「……フン!」
開放的になった水飲み場に背を向けて歩き出す。もうこの辺りには居られないな。
「……あーぁ、段々と行ける場所が減ってきたなぁ…」
今みたいな事でのいざこざで、既に3つの地区から追い出されている。今いる地区の長は比較的話の分かる人物だけど、流石に水飲み場をぶっ壊したのは許してもらえないだろう。
「…ハァ、あと残っているのは何処だっけかな…」
スラムにも区分けがされていて、それぞれの地区には代表とも言うべき人物が居る。地区長と言われる彼らに逆らえば、それはスラム全体を敵に回すのと同義だ。だから無法者が集まっているスラムでも、ある程度の秩序が保たれている。
だけど、それも地区長によって結構異なる。今いる地区の地区長の様に比較的温和な奴も居れば、無秩序こそが秩序だ! とかのたまってる危ない奴もいる。
「…残ってるのはその危ない地区か、……あの地区だけか」
そんなスラムで、一際異質な地区がある。それは西部のスラムにある地区で、そこでは地区長が何もかもを掌握しているらしい。それは住人の動向から、ごく稀に来る騎士団の来襲まで、あらゆる事を把握しているらしい。
そこの住人はほとんどがその地区長の配下であり、それ以外の一部は地区長の怒りを買わない様にビクビクしながら過ごしているらしい。
「……でもまぁその分、他所の地区からちょっかいもかけられ難いだろうし、行くか」
そう決めて、ロットという人物が統治している地区へ歩き出した。今まで居た地区は王都の東側で、向かう先は王都の西側だ。間の商業区で変なトラブルに巻き込まれたくないし、急いで横断する。
そうして歩いてようやく西側のスラムに辿り着いた…のだけど。
「おぅちびっこ、待ちな!」
「誰の許可を得てここを通ろうとしてんだァ?」
「ケヒャハ! とりあえず有り金全部置いていけ!」
ガタイのいい男二人とヒョロイ男に道を塞がれた。
「…はぁ、新しい地区に向かう度にこの手の輩に絡まれるなぁ…」
「あぁ? 何言ってんだ?」
「そこ邪魔。どいてくんないか?」
「……おいおい、俺達をゴギゲ三人衆と知っての言葉か? いや、そんな訳はねぇよな。知ってたらそんなデカイ口を利ける訳がねぇもんなぁ!!」
「……うるさいなぁ」
ゴギゲ三人衆? 知らないよそんなの。まったく、厄介なのに捕まっちゃったなぁ…。
「はぁ、ロットのトコに行くのが遅れちまうなぁ」
と言った瞬間、三人組は身体をビクッとさせた後で、恐る恐る聞いてきた。
「……あの、地区長にご用なんで?」
「ん? うん。だから急いでるんだけど…」
「おおっとしまったそういえば旦那に用事があったんだったいやー迂闊だったなー早く行かないと怒られちまうなこんな奴に構ってる暇はないよな早く行かねぇと!!」
「ま、待てよゴリダン! おい行くぞゲンドウ!」
「お、おう!」
…何だアレ。ロットの名前を出したとたんにあの豹変振り。よほどロットに関わりたくないみたいだな。
「…ちょっと会うのが恐くなってきたな…」
若干行く気が無くなりかけたけど、どうにかこらえて進む。聞いた話によれば、ロットはなんたらとかいう宿屋を根城としているらしい。どんな名前かは忘れたけど、まぁ一件一件当たってみればどうにかなるかな?
「よし、気を取り直して行くか」
そうして再び歩き出す。改めて辺りを観察してみると、辺りの綺麗さが気になった。スラムとは思えないほどに整然とした道、残飯や汚物で汚れてない路地、極めつけは喧騒が聞こえてこない事だな。
他の地区では、ちょっと耳を澄ませば途端に誰かと誰かのいさかいの声が聞こえてくるものだけど、ここでは静かなモノだ。いくら朝だからって、これは凄い。…まぁ、さっき絡まれたのは例外って事で。ほら、俺様よそ者だし。
「………よ!」
「………たぁ!?」
「…前言撤回、結局聞こえてきたよ」
でも、この地区に来て初めて聞いたな。…ちょっとだけ、覗いていくかな。野次馬根性丸出しで、現場に近付く。
「……んー…、あ、あれか」
声のした方へ向かっていると、向こうの方に四人の男が居た。しかもその内の三人は、さっき俺様の邪魔をしてくれたあいつらだ。その三人が、一人の男に詰め寄って………
「…もう一度言うぞ? 俺の配下になったからには、しょうもない事は禁止だ。もし次似たような事を仕出かしたら………、分かるよな?」
「ももももちろんでございます旦那!! な、なのでどうか! どうかそのビリビリを止めてくれェェェェ!!?」
「アビバババババ!!??!」
「オゥフ……アファハ………」
違った。三人があの男に滅茶苦茶やられてた。……いや、
待てよ? 今の声何処かで…。
「………ん? まーた誰かが視てやがんな…。ったく、その面拝ませてもらうぞ!」
その言葉にハッとして顔を上げると、男が消えていた。
「ってあれ、ゼビュンか?」
「うおわっ!?」
唐突に後ろから声を掛けられて、変な声がでちゃった…じゃなくて! 今のは…! 目の前の人物を見る。黒い髪に、吊り気味の翠の瞳の青年がそこにいた。
「……兄ちゃん?」




