最初の一文は最後の一文
序
幸か不幸か未だにワナビなので、今のうちに一端のことを言っておけばデビュー後に「わたしはこれで成功した!」的なことを書くときに説得力が増すのではないかと思った。
そんなわけで『そんなの素人の頃から言ってますけど!?』の第一回は最初の一文について。
もう随分長いこと眼高手低の使徒をやっているのだけど、最近は極まってきたのか、冒頭の第一文目でだいたいその作品が(自分にとって)面白いのかどうかわかるようになってきた。作品の完成度と言い換えてもいい。
少なくとも本の形態を取っている作品についてはほぼ当たるようになってきた。
で、自分でもこの感覚がよくわからなかったんだけど、お師匠さんに解説してもらってなんとなくわかったような気になった。
ここから本題。
冒頭の最初の一文というのは、「読者にとって」最初の一文なのであって、「作者にとって」は最後の一文なのだ。
なぜなら、「作者にとっての最初の一文≒作者にとってもっとも書きたい(あるいは読ませたい)一文」とはもっと後ろのほうにあるからだ。
この「書きたい一文」「読ませたい一文」へ読者へ誘導するために作者は長い長い文章を綴るのである。
冒頭の一文とはその最後、すなわち誘導の取っ掛かりであるわけで、早い話、
ここから書き始めようとして行き詰まるのはある意味で自明の理なのだ。
なぜか。
喩え話で恐縮だが、書くという作業は道を歩くことに似ている。
書きたい一文/読ませたい一文を目的地とすると、この目的地は大抵の場合険しい山の上か、深い森の中にある。
とは言ってもその山や森に行くまで、少なくとも山裾や森の端くらいまでは大抵の場合、テンプレだとかそれまでの経験だとかで、程度の差はあれ舗装された道路が走っている。だからその道を走っている間はあんまり悩まなくても書ける(もちろん、その道行を歩くだけの体力がない人はそこからして苦労するわけだけど)。
ところが、山や森に入ると途端に道がなくなる。
書くという作業は「道を歩くこと」なので道がない以上その先へは歩いていけない。
だから大抵の人はここで手が止まる。
「大抵の人は」というのは、たまにTOKIOかよと思うような道を作りながら進むような人とか、道無き道をひょいひょい進む刃牙みたいな人がいるからだ。
基本的にはまず道を作り、それからそこを歩く。
道を作るのも、たまたま行き着いた山裾から森の端から作るのではなく、目的地から出発して読者が辿り着きやすい場所へと引くのがいい。
その辿り着きやすい場所こそが、冒頭の一文なのだ。
だから作者にとっては「最後の一文」なのである。
なお、目的地から出発する方法を偉大な先人たちはプロットと呼称している。