「離縁だ、出ていけ」と夫に言われたので実家へ帰る支度をしていたら、お義母様も旅行鞄を出していました
「離縁だ、出ていけ」と夫に言われた晩、わたしは泣きませんでした。泣くより先に、数えていたからです。
その晩の献立も、わたしが決めました。
湖の鱒を香草で焼いたもの。栗の裏ごしのスープ。客人の頭取が胃の弱い方だと聞いたので、ソースはバターを控えて、酢漬けの胡瓜を小皿で添えました。燭台の蝋燭は、去年の冬に買い置いた蜜蝋です。煤が出ないので、銀器が曇りません。
どれも、わたしの名で帳面に書きました。嫁いで三年、モルジエ伯爵家の帳場を預かってから、一ヘスペルの出入りも、わたしの名で書かなかったことはありません。そうしなさいと、お義母様に言われたからです。
お義母様は、晩餐のあいだ一度もわたしを見ませんでした。それも、いつものことでした。
客人はガイヤール頭取と、お嬢様のアデリーヌ様。大公都の新しい銀行の方です。
デザートの梨のコンポートが下げられたところで、夫のヴァレールが杯を置きました。
「フェナ」
晩餐の席で、夫がわたしに話しかけるのは久しぶりでした。
「離縁だ。出ていけ」
アデリーヌ様が、匙を落としました。銀が皿に当たる高い音が、食堂に一度だけ響きました。
お義父様は葡萄酒の杯を持ったまま、口もとへ運び、ひと口飲んで、卓に戻しました。お義母様は、ナプキンの角をそろえていました。
わたしは「かしこまりました」と言ったと思います。立ち上がって、頭取とお嬢様に礼をして、食堂を出ました。廊下の絨毯が、足の裏で妙に厚く感じられました。
部屋に戻ってから、数えました。
エーデルモン式の婚前契約には、去る日の条というものがあります。夫が証人二人の前で「出ていけ」と言えば、妻は七日のうちに生家に着き、その屋根の下で夜明けを迎えることで、持参金を持って去れる。着けなければ持参金を失い、夫は好きに婚姻を解ける。
わたしの生家は、七港同盟のヴェルデルダムです。父の海運商会の、運河に面した細長い家。
大公都から、馬車で十日。
七日では、着きません。
指が、膝の上で勝手に数を数えていました。十日引く七日。足りないのは三日。持参金は二万四千ヘスペル。うち一万八千は、もうこの家の屋根の修繕と、お義父様の借財の利払いに消えています。わたしが自分で帳面につけました。
夫は、計算して言ったのです。
証人は銀行家の親子。契約の国で、これほど確かな証人はいません。そして夫は来春、アデリーヌ様と結婚する。持参金を返す必要もなく。
よくできた話でした。帳場の人間として、感心するくらいに。
商家の娘は、損を数えたら、そこで終わりにするものです。父にそう育てられました。
衣装棚から、嫁いできたときの鞄を出しました。七港の革職人が縫った、角の擦れた茶色の鞄です。肌着、毛の靴下、冬の外套。母の手紙の束。帳面は置いていくことにしました。わたしの名で書いてあっても、あれはこの家のものです。
七日で着けなくても、帰る家はあります。父は怒るでしょう。母は泣くでしょう。三年前、伯爵家との縁を喜んで送り出してくれた人たちに、何と言えばいいのか。そこまで考えて、外套を畳む手が止まりました。
そのとき、廊下の向こうで音がしました。
留め金を外す、ぱちん、という音。続けて、二つ目。
わたしの鞄と、同じ音でした。
扉を開けると、廊下の突き当たりのお義母様の部屋に、灯りがついていました。扉が半分開いていて、お義母様が床に膝をついていました。
お義母様が床に膝をつくところを、わたしは三年で一度も見たことがありません。
お義母様の前には、古い旅行鞄がありました。黒ずんだ革に、真鍮の角金。蓋の内側に、色の褪せた刺繍で、峠の家の紋が縫ってあります。中には、紙に包まれた服が、きちんと詰められていました。いま詰めたものではありません。紙が、黄ばんでいました。
「お義母様」
お義母様は振り向かずに言いました。
「七港では、間に合いません」
低い、いつもの声でした。帳面の数字を間違えたわたしを叱るときと、同じ声。
「わたくしの家へ参ります。峠の向こうです。三日で着きます」
「どうして」
「夜明け前に出ますよ。外套は一番厚いものを。帳場の鍵は、置いていきなさい」
お義母様は鞄の蓋を閉め、留め金を一つずつ掛けました。ぱちん。ぱちん。
三十年前、この方はあの鞄を持って峠を越えて、この家に嫁いできたのだと、わたしはそのとき初めて思いました。
自分の部屋に戻って、鍵束を卓に置きました。帳場の鍵、食料庫の鍵、銀器の棚の鍵。三年分、腰に下げてきた重さが、手から抜けました。
お義母様は、わたしを早くこの家から追い出したいのだろうか。そう考えました。それなら、まだ分かります。分からないのは、なぜお義母様まで鞄を出したのか、でした。
窓の外で、湖が黒く光っていました。
*
馬車は、夜明けの二刻前に湖畔の屋敷を出ました。
お義母様が手配した辻馬車でした。御者は口数の少ない年寄りで、お義母様の顔を見ると帽子を取りました。屋敷の者は誰も起きてきませんでした。家令でさえ。お義母様がそうさせたのか、誰もわたしたちを見送る気がなかったのか、わたしには分かりません。
馬車の中でも、お義母様は背筋を伸ばしていました。膝の上で手袋をそろえ、わたしの帽子に目をやって、手を伸ばしました。
「留め針が斜めです」
直されました。三年間、毎朝そうされてきたのと同じように。
わたしは窓の外を見ました。暗い湖の向こうに、大公都の時計台の灯りが小さく残っていて、やがて丘の陰に消えました。
三年のあいだに、お義母様から教わったことは数えきれません。教わった、と言っていいのかどうか。叱られた、のほうが近い気がします。
嫁いだ最初の月、帳場の帳面を初めて見せられたときのこと。
「一ヘスペルの出入りも、あなたの名で書きなさい」
家の帳面に、嫁の名を書く。七港では聞いたことのないやり方でした。間違えれば、わたしの名で間違えたことになる。見張られているのだと思いました。
茶会の席でのこと。商会の年寄りたちに寄付を頼むとき、お義母様は扇の陰でわたしに囁きました。
「殿方は、できないと言われると、できると言うために何でも口にします。覚えておきなさい」
はしたない、と思いました。人の弱みを突くやり方だと。お義母様はその日、ご自分ではひと言も頼まずに、年寄りたちの口から三つの寄付の約束を引き出しました。
それから、天気のこと。
「雲が山肌を下りてくる日は、明日の朝に雪が来ます」
湖の向こうの白嶺を指して、お義母様は何度もそう言いました。大公都の屋敷で暮らす伯爵夫人に、山の天気がなぜ要るのか。わたしは聞きませんでした。聞けば、また叱られると思ったからです。
二日目の晩、麓の手前の宿で、わたしは鞄の底から書類の写しを出しました。
三年前の婚前契約です。署名の席で、契約の金庫の係が読み上げた条文の写し。わたしは嫁ぐ前の晩に一度読み、それきり鞄にしまっていました。読み返したくない一行があったからです。
宿の狭い部屋で、蝋燭を引き寄せて、その行を指で押さえました。
「妻の生家とは、妻の生まれた家、または夫の母の生まれた家をいう」
署名の席で、お義母様が係を呼んで、この一行を足させたのです。わたしの父は眉をひそめましたが、伯爵家との縁を前にして、何も言いませんでした。
「お義母様」
声が、自分で思ったよりも硬くなりました。
「去るときまで、わたしをお義母様の家に縛るおつもりでしたか」
三年、そう思ってきました。この家を出ていくことになっても、わたしは姑の実家にしか帰れない。そういう一行なのだと。
お義母様は、寝台の端に腰かけて、髪の留め針を外していました。手を止めずに言いました。
「あなたの生家は、遠すぎました」
一本、また一本と、留め針が小皿に落ちました。
「署名の席で、ヴァレールの顔を見ました。あの子の目は、父親と同じでした。いつか、あの子はあなたに同じことを言う。そのとき七港では、間に合わない」
わたしは、紙を押さえた指を離せませんでした。
「だから、三日で着ける家を、あなたの生家にしておきました」
蝋燭の芯が、小さく爆ぜました。
縛るための一行ではなかったのです。
逃がすための一行でした。三年前から。わたしが嫁いできた、その日から。
「どうして、教えてくださらなかったのですか」
「教えたら、あなたはあの子に気を遣ったでしょう。ああいう子です。妻に逃げ道があると知れば、意地になって手放さない」
お義母様は最後の留め針を外し、灰色の混じった髪を肩に下ろしました。髪を下ろしたお義母様を見るのも、初めてでした。
「では、お義母様は」
聞いていいことか分かりませんでした。それでも聞きました。
「お義母様の契約にも、去る日の条はあったのでしょう。三十年、どうして」
「あの人は、一度も言いませんでした」
お義母様は、窓のほうを見ました。夜の向こうに、白嶺があるはずでした。
「『出ていけ』と言えば、わたくしが峠へ帰れることを、あの人はよく知っていましたから。怒っても、怒鳴っても、その言葉だけは決して口にしなかった。妻の側からは、使えない条です」
三十年。鞄を、詰めたままにして。
「一度だけ、あの人の口まで出かかったことがあります」
お義母様は、少しだけ笑ったように見えました。見えただけかもしれません。
「ヴァレールが生まれた年です。客の前で、峠の配当の話をされたとき。この家の台所は、わたくしの持参金の、峠の通行料の配当で回っている。それを、ある方が冗談にしたのです。あの人は杯を握り割りました。それでも、言葉は呑み込みました」
わたしは帳面の数字を思い出していました。毎年秋に入ってくる、アルプリヒト家からの為替。「峠より」としか書かれていない、いちばん大きな入金。三年、わたしは自分の名で、それを帳面に書いてきたのです。
そこで、ようやく気づきました。気づくのが遅すぎました。
お義母様には、誰も「出ていけ」と言っていません。
去る日の条によらずに夫の家を出た妻は、契約を破ったことになる。夫は法廷の召還状を取って、妻を連れ戻させることができる。
「お義母様は」
「寝なさい。明日は早いですよ」
お義母様は蝋燭を吹き消しました。暗がりの中で、お義母様の鞄の留め金が、かすかに光っていました。
*
四日目の昼すぎ、馬車は白嶺の麓に着きました。
ここから先は、馬車では登れません。峠の通行門の小屋の前で、御者が荷を下ろしてくれました。門は太い樅の丸太を組んだもので、横木に、アルプリヒト家の紋が焼きつけてありました。お義母様の鞄の、刺繍と同じ紋です。
小屋から出てきたのは、背の高い男の人でした。
羊毛の上着に、鞣し革の脛当て。日に焼けた顔の、目のまわりだけが白い。雪の照り返しを避けて目を細める人の顔です。
「門守のニクラウス・ロートホルンです」
その人はお義母様に深く頭を下げました。お義母様の顔を知っているようでした。それから、わたしを見ました。値踏みをする目ではありませんでした。騾馬に載せる荷の重さを測るときの目でした。
わたしは、山肌を見上げました。
灰色の雲が、尾根の向こうから溢れて、斜面をゆっくり下りてきていました。
「明日の朝、雪が来ますね」
口から、そう出ていました。お義母様に三年、聞かされてきた言葉でした。
ニクラウスさんが、わたしを振り返りました。
「同じことを、言おうとしていました」
それから、雲を見て、短く言いました。
「今季最後の通行にします。明日の昼までに、峠の小屋を越えてください。それを過ぎたら、春まで門は開けません」
その晩は麓の小屋に泊まり、五日目の朝、ニクラウスさんは空を見て首を振りました。
「今日は越えません。風が強すぎる」
夜のうちに、尾根の上だけ雪が来ていました。その雪が、白い旗のように風に流れていました。たしかに強い風でした。
けれど、今日越えなければ、次の雪に捕まります。尾根の雪は、明日には麓まで下りてきます。雪に捕まれば、七日目の夜明けまでに峠の家には着けません。
わたしは、雲の流れを見ました。尾根の上の雲は速く、麓の雲は止まっている。山の上だけの風です。荷を数えました。わたしの鞄、お義母様の鞄、食料、毛布。騾馬が二頭。一頭あたりの荷を軽くして、休ませる刻を決めれば。
「昼までには、風が落ちます」
ニクラウスさんの眉が、少しだけ上がりました。
「上の雲だけが走っています。下が動いていない。朝の冷えが抜ければ、尾根の風は弱まるはずです。それに、今日でなければ、明日の雪に捕まります。荷は、わたしの鞄の中身を半分ここに置いていきます。騾馬は一刻ごとに休ませれば、峠の小屋まで持ちます」
自分でも、早口になっているのが分かりました。言い終えてから、口を閉じました。勝てない賭けはしない。七港の商家では、それがいちばんの決まりでした。わたしはいま、その決まりを破ろうとしていました。
ニクラウスさんは、しばらく黙って空を見ていました。
それから、騾馬の綱を取りました。
「出ます」
昼、風は落ちました。
尾根の雪煙が細くなり、やがて消えたとき、わたしは騾馬の首に手をついて、息を吐きました。膝が笑っていました。寒さのせいだと思うことにしました。
前を行くニクラウスさんが、振り向かずに言いました。
「あなたの目は、山の者の目です」
それだけでした。
三年で、わたしの目を褒めた人はいませんでした。わたしの帳面も、献立も、蜜蝋の買い置きも。後ろを歩くお義母様は、何も言いませんでした。ただ、杖の先が雪を突く音が、一度だけ止まりました。
夕方、峠の小屋に着きました。石を積んだ壁の、炉が一つきりの小屋です。
炉に火が入って、ようやく指先の感覚が戻ってきたころ、麓から男の子が一人、息を切らして登ってきました。麓の宿の下働きの子でした。ニクラウスさんが追い返さなかったのは、その子が手紙を握っていたからです。
「奥様あての手紙と、言伝です」
手紙は、夫の字でした。
言伝は、こうでした。大公都の伯爵様が、若様と、法廷の執達吏を連れて、麓の宿に着いた。伯爵様は召還状を持っている。奥様のお母様を、日の出とともに連れ帰るための召還状だ。法廷の命令を持った執達吏は、閉じた門でも通さなければならない。明日のうちに、峠を越えてくるだろう。
お義母様は、炉の火を見ていました。表情は変わりませんでした。
「分かっていましたよ」
とだけ、言いました。
夫の手紙は、短いものでした。
ガイヤール頭取が、縁談を断ってきた。頭取の言葉が、そのまま写してありました。
「契約の国で、条を妻を捨てるために使う方とは、契約いたしかねます」
わたしは、思わず手紙を持ち直しました。銀行家の親子を証人に立てた計算が、銀行家の目でそのまま見抜かれたのです。
手紙は、こう続いていました。
「取り消しを受け入れてくれ。戻ってきてくれれば、母上の代わりに、きみをこの家の女主人にする。帳場も茶会も、きみの思うとおりにしていい」
一度口にした「出ていけ」は、妻が受け入れない限り取り消せません。夫は、その受け入れを頼んでいるのでした。
三年、欲しかった言葉でした。
この家の女主人。わたしの思うとおりに。誰かに一度でいいから、そう言われたかった。その言葉が、いちばん欲しくない形で、わたしの手の中にありました。母上の代わりに。
炉の向こうで、お義母様が言いました。
「読み終えたら、火にくべなさい」
わたしは、くべませんでした。手紙を畳んで、鞄に入れました。お義母様は、それを見ていました。何も言いませんでした。
*
六日目は、雪の中を下りました。
細かい、乾いた雪でした。ニクラウスさんは一度も道を外さず、騾馬の綱を短く持って、わたしたちの前を歩きました。お義母様は杖をつき、一度も休みたいと言いませんでした。わたしが手を貸そうとすると、首を振りました。それでも三度目には、わたしの腕につかまりました。
夕暮れ、谷の底に灯りが見えました。
石造りの低い館に、峠の上の門と同じ、太い樅の門。門の横木にも、同じ紋がありました。アルプリヒト子爵家。お義母様の生まれた家です。
門の内側に、白髪まじりの男の人が立っていました。帳面を小脇に挟んだまま、お義母様を見て、口を開けて、閉じました。
「姉さん」
「三十年ぶりですね、オットマー」
オットマー様は、それ以上何も聞きませんでした。帳面を下ろし、わたしたちの鞄を、自分の手で持ちました。
館の炉の間は、天井の低い、煤けた部屋でした。壁に、峠を越えた荷の数を刻んだ板が何十枚も掛けてありました。
明日の夜明けを、この屋根の下で迎えれば、わたしは去れます。数えれば、七日目の夜明けです。
わたしは、窓の外の暗さを確かめました。まだ、夜は長い。
夜半すぎ、門を叩く音がしました。
松明の灯りが三つ。お義父様と、夫と、黒い外套の男の人でした。法廷の執達吏です。お義父様の外套の肩には、雪が積もっていました。峠を越えてくるのに、どれほど急いだのか、それで分かりました。
ニクラウスさんは門を開けました。召還状を持った執達吏は、通さなければなりません。三人が門の内側に入ると、ニクラウスさんはすぐに閂を下ろしました。
「日没に閉じた門は、日の出まで開けません。それが峠の決まりです」
お義父様が、門守を見ました。
「開けておけ。夜明けとともに妻を連れて下りる」
「日の出には開けます」
「開けておけと言っている。大公殿下に申し上げて、門守を替えさせるぞ」
ニクラウスさんは、閂から手を離しませんでした。
「替えるのは、春になってからにしてください。冬の峠で決まりを曲げた門守の後ろで、人が死にます」
お義父様は、しばらく門守の顔を見ていました。それから、外套の雪を払いもせずに、館に入ってきました。
三十年、思いどおりにならないことのなかった人が、山の決まり一つで足を止められたのです。お義父様の手袋の指が、外套の裾を何度も握り直していました。
炉の間に、全員がそろいました。
お義父様と夫。お義母様とわたし。オットマー様。ニクラウスさん。執達吏は炉の端の腰掛けに座り、召還状を膝の上に置きました。ツィンマーと名乗りました。
「わたしは、見聞きしたことを法廷で申し上げるだけです。どなたの味方もいたしません」
お義父様は、お義母様のほうを見ませんでした。わたしだけを見て、言いました。
「フェナ。取引をしよう」
炉の火が、お義父様の顔の片側だけを照らしていました。
「ヴァレールの取り消しを受け入れなさい。そうすれば、ヘドヴィヒはこの峠に置いてやる。別居の許しを書こう。この女は、もう大公都に戻らなくていい」
お義母様の肩が、わずかに動きました。
「受けなければ、日の出とともに、ヘドヴィヒを連れて帰る。召還状はここにある。おまえは好きに去ればいい。持参金も持っていけ。ただし、自分を逃がした女が引きずられて峠を下りるのを、ここから見送ることになる」
夫が、わたしを見ていました。口が、かすかに動いていました。取り消しの言葉を、口の中で用意しているのです。わたしが「はい」と言えば、すぐに言えるように。
「お断りします」
答えたのは、お義母様でした。
「わたくしの三十年を、この子にさせるために、鞄を開けたのではありません」
「おまえには聞いていない」
お義父様は、お義母様を見もしませんでした。三十年、そうしてきたのだろうと思いました。
窓の外の空が、黒から、鉛のような色に変わりはじめていました。
わたしは、膝の上で手を組みました。指が、また数を数えようとしていました。何を数えればいいのかは、分かりませんでした。
受ければ、お義母様は自由になる。三十年閉じたままだった鞄を、この峠の家で開けられる。わたしは大公都に戻って、あの家の女主人になる。帳場も茶会も、思うとおりに。欲しかったものが、全部手に入る。
そして、わたしは夫の隣で、お義母様の三十年を始める。
受けなければ、わたしは夜明けに自由になる。持参金を持って、七港へでも、どこへでも行ける。お義母様は、日の出とともに、執達吏に連れられて峠を下りる。わたしを逃がすために、すべてを賭けた人が。
どちらを選んでも、誰かが檻に入る。
炉の薪が崩れて、火の粉が上がりました。誰も動きませんでした。
夫が、小さく咳払いをしました。わたしの答えを、待っていました。
*
受けるとも、見捨てるとも、違う答えがあるはずでした。
わたしは、お義母様に三年間叱られてきたことを、一つずつ思い出していました。帳面。天気。それから、茶会の扇の陰で囁かれた言葉。
殿方は、できないと言われると、できると言うために何でも口にします。
顔を上げました。
「お断りします」
夫の口が、用意していた形のまま止まりました。
わたしは夫ではなく、お義父様を見ました。お義父様にだけ、話しかけました。
「お義父様。わたしは三年、モルジエ家の帳場を預かってまいりました。一ヘスペルの出入りも、わたしの名で書いております」
「それがどうした」
「この三年、家に入ったお金でいちばん大きいのは、毎年秋の為替です。『峠より』とだけ書かれた為替。一年に、四千二百ヘスペル」
オットマー様が、小脇の帳面に手を置きました。通行料の帳簿を毎晩自分でつける人だと、お義母様から聞いていました。
「屋敷の地代と、大公宮の儀典の手当を合わせても、二千九百ヘスペルです。お屋敷の修繕の借財の利払いが、一年に三千百ヘスペル。台所と使用人の給金が、二千六百ヘスペル」
ツィンマー様が、顔を上げました。わたしは、執達吏が聞いていることを確かめてから、続けました。
「お義母様の持参金がなければ、モルジエ家は、この冬を越せません」
お義父様の顎が、わずかに上がりました。
「三十年、そうでした。ですからお義父様は、三十年一度も、お義母様に『出ていけ』とおっしゃれなかったのです。おっしゃりたくなかったのではありません。おっしゃれなかった。お義母様がいなければ、何もおできにならないから」
背中に、手が置かれました。
お義母様の手でした。わたしの言いたいことが、お義母様には分かったのだと思います。お義母様は口を開きかけて、閉じました。そして、何も言わずに、手を置いたままにしていました。
三十年、あの家を仕切ってきた人が、わたしに任せたのです。
背中の手が、温かかった。
「黙れ」
お義父様の声は、低いままでした。まだ、崩れていませんでした。
「商家の娘が、帳面を盾に、伯爵家の何を知った気でいる」
「伯爵家のことは、存じません。存じているのは、帳面の数字だけです」
わたしは、お義父様の目から目を離しませんでした。
「執達吏様がお聞きです。法廷で申し上げることになるでしょう。モルジエ伯爵は、三十年、奥様の持参金で暮らしてこられた。奥様が峠に帰れば、一冬ももたない。だから召還状まで取って、雪の峠を追いかけてこられた」
炉の火が、ぱちりと鳴りました。
「お義父様には、お義母様を手放すことは、おできになりません」
お義父様の手が、炉の縁を叩きました。
「あれの金など、要らん」
立ち上がっていました。三十年、一度も上げなかった声でした。
「出ていけ、ヘドヴィヒ。どこへでも行け。二度と――」
そこで、お義父様の口が止まりました。
自分が何を言ったのか、言い終えるより先に、気づいたのです。
「お聞きになりましたね」
わたしは、炉の端と、戸口を順に見ました。
「ツィンマー様。ニクラウス様」
ツィンマー様は、膝の上の召還状に手を置いたまま、静かにうなずきました。
「聞きました」
戸口で、ニクラウスさんが言いました。
「聞きました」
夫が、「父上」と言いました。それきり、何も言いませんでした。
お義父様は、取り消そうとして、口を開きました。そして、取り消せないことを思い出したのでしょう。一度言った言葉は、妻が受け入れない限り取り消せない。お義父様ほど、それをよく知っている人はいませんでした。
お義母様は、わたしの背中から手を下ろしました。そして、夫の目をまっすぐに見て言いました。この方がお義父様の顔を正面から見るのを、わたしは三年で初めて見ました。
「承りました。参ります」
ここは、お義母様の生まれた家でした。
窓の外で、尾根の線が白く光りました。
日の出でした。七日目の夜明けでした。
炉の間に、横から薄い光が差しこんで、煤けた壁の板を一枚ずつ照らしていきました。お義母様とわたしは、並んで、その光が床を渡ってくるのを見ていました。わたしたちの足もとまで届いたとき、お義母様が、わたしの手を握りました。手袋をしていない手でした。
ツィンマー様が立ち上がり、召還状を外套の内に戻しました。
「執行の相手が、おりません。失礼いたします」
ニクラウスさんが門の閂を外しました。
「日の出です。お通りください」
門の外に、雪が降りはじめていました。昨日までの乾いた雪ではありません。大粒の、重たい雪でした。今日のうちに峠を越えなければ、春まで大公都には戻れない。
お義父様は、一度も振り返らずに、門を出ていきました。夫は門の前で一度だけわたしを見て、何か言いかけて、父親の後を追いました。
*
冬のあいだに、峠の家には、麓から何度か知らせが届きました。
モルジエ家は、持参金を二つ、返さなければならなくなりました。わたしの二万四千ヘスペルと、お義母様の峠の配当です。湖畔の屋敷は、春を待たずに人手に渡ったそうです。夫の縁談は、どこからも来ませんでした。契約の国で、契約の条を妻を捨てるために使った人と、契約を結ぶ家はありません。
峠の家で、お義母様は弟の帳簿を直していました。オットマー様の字が汚いと言って、毎晩、横から指でつつきました。オットマー様は、文句を言いながら、うれしそうでした。わたしは峠の宿の帳場を手伝いました。ここでも、一ヘスペルの出入りを、わたしの名で書いています。
お義母様が三十年閉じていた鞄を開けたのは、峠の家に着いて三日目の晩でした。
黄ばんだ紙の包みを一つずつほどくと、中から、若い娘の旅装が出てきました。濃い緑の毛織の上着に、山歩きの短い外套。二十四の春に、峠を越えて嫁いだときのものでした。
「こんなに細かったのですね、わたくし」
お義母様は上着を胸に当てて、少し笑いました。今度は、見間違いではありませんでした。
その隣で、わたしも自分の鞄をほどきました。夫の手紙は、炉にくべました。
空になった鞄が二つ、部屋の隅に並びました。
春、峠の門が開く日の朝。
門の前で雪を払っていたニクラウスさんが、わたしに言いました。
「春の峠を、案内させてください。冬の峠しか、見せていませんから」
わたしは、返事をする前に、振り返りました。
門の内側に、お義母様が立っていました。杖をつかずに、背筋を伸ばして。帽子の留め針が、少しだけ斜めでした。わたしが朝、直しそびれたのです。
お義母様は、わたしを見て言いました。
「よくできました」
三年で、初めての言葉でした。
わたしは、損を数えるより先に、泣いていました。




