↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空に海  作者: 真倉あたり
PR
1/15

プロローグ

 ポフィナという黄色い花のジャムを紅茶に溶かす。先日ある若い夫婦を観光地へと送り届けた際、お礼にともらった手作りのものだ。

 暖かな季節が近づいてきたとはいえ、この辺りはまだまだ冷え込む。朝はなおさらだ。ブランケットを肩にかけたまま、私はそのジャム入りの紅茶を一口飲んだ。溶け切らないジャムの小さな粒がゆっくりと喉を通り、柔らかな甘さと暖かさを染み渡らせてくれる。今度あの近くに寄ったら、何かお返しをしないといけないだろうか。そんなことを考えながら、窓から見える雲の多い空を眺めていると、背後からバンッという大きな音が聞こえた。

 その音に反応し、ドアの方を振り返ると、そこには右足を前に上げ、左足一本で立っている見慣れた男がいた。その姿から、おそらく先ほどの音は、彼がドアを蹴って開けたのだということが見てとれた。男というよりは少年と言った方が正確かもしれない。聞いたことはないが、出会ってからの二年間の会話からして、彼は今十五、六のはずだ。名前をロロという。


「前も言っただろ!ちゃんと鍵ぐらい閉めておけよ」


 彼は言う。


「出かける時はちゃんとしてるわよ。それより、足で開けないでよね、最近ボロが来てるの」


 私はそう言い返しつつ、自分の怒りが彼の急な来訪ではなく、その開け方にあることに少し驚いた。今の生活を始めてから、すぐに彼と出会った。その最初の出会い以来、たびたび彼はこうして急に訪れてくる。毎週のように来る時期もあれば、ふとしばらく来なくなり「よっ」と昨日も会ったかのような顔でやってくることもある。たいていは、各地を飛び回って聞いてきた噂話とともにである。


「で、今日は誰のゴシップを運んできたの?」


「やめろよ、人をコチ虫みたいに」


 コチ虫が何かはわからないが、おそらく噂好きの比喩のようなものなのだろう。彼はしょっちゅうことわざじみたことを言うが、そのほとんどが私の知らないものだった。初めは彼の生まれた場所でのものだと思っていたが、本当はそんなものはなくて、彼が私を揶揄っているだけかもしれないと最近疑いはじめている。

 ほんの一瞬目を離していた隙に、彼は壁際の棚に置いてある写真立てをベタベタと触っていた。私はそれを見て、反射的に少し大きな声を出す。


「それに触らないで!」


 何度も注意しているのに、彼は無意識に人の家の物を触る癖がある。注意するたびに彼は悪戯っぽい顔で一応の謝罪をするが、一向に改める気のないその様子から、本気で悪いことだとは思っていないのが透けて見える。

 彼は肩にかけていた荷物を床に下ろし、慣れた様子でそのまま床に座った。ここに椅子は一脚しかない。今は私が座っている。


「お前の母さんの病気、かなり悪いらしいな」


 大きく伸びをしながらの彼のその言葉にドキッとする。何度も興味がないと言っているにもかかわらず、私が本心では知りたがっていると思っているのか、彼は不定期に母の話を持ってくる。前回は、彼女が祭りの劇で少年少女を尻目に歌姫の役をつかみ取ったというものだった。目立ちたがりの彼女らしいと、その時は鼻で笑って一蹴できたが、今回はそうはいかない。実のところ、一昨日の夜に手に入れた弟の手紙にもそのことが認めてあったのだ。


「この冬帰らなかったんだろ?」


「帰る理由もないし。別にいいでしょ?」


「まあな」


 そう言いつつ、彼は少し寂しそうな顔をする。大家族で皆仲良く暮らしている彼には、こういう時私がひどく冷酷な人間に見えるらしい。私は彼のそんな顔を見るたびに、申し訳なさとともに苛立ちを覚える。きっと、この苦しみは彼には伝わらないのだろう。


「ところで、何か食べるもんない?お腹すいちゃって」


 重い雰囲気でずっといられない彼は、わざとらしく話を変える。


「コチ虫でも食べる?」


 せっかくの優雅な朝のお茶を母の話で台無しにされた腹いせを、真剣に質問を取り合わないことで表したのだが、どうやらそれは逆効果だったようだ。彼はコチ虫を食べるという言葉の組み合わせに目を丸くし、一呼吸の間を置いてから大声で笑い始めた。


「コ、コチ虫を……食べる……!」


 そんなつもりではなかったのに、息も絶え絶えに喋る彼を見ていると、どんどんと恥ずかしくなってくる。


「帰って……!」


 私はその恥ずかしさを怒りと力に変換し、彼の腕をむんずと引っ張り、力づくで立たせた。そして開けっぱなしになっていたドアの方へと連れて行く。

 彼はまだ笑いを堪えきれないながらも、押されている体から足を伸ばし、床に置いていたカバンにそれを器用に引っ掛ける。そして、ドアから上半身が出ると同時に、今日ここに来た価値があったとでも言いた気に、背中にある白い翼を目一杯に大きく広げた。


「いやあ、笑った笑った。また羽休めに遊びに来るよ」


「今度はもっとマシな話持ってきなさいよ」


 最後の「よ」と一緒に力を込めて私は彼を空へと蹴落とした。自分でやっておきながら寂しくなる。


「ウーモ!」


 一方で、ロロは地上に向かってまっ逆さまに落ちながら私の名前を元気に叫ぶ。


「なによ!?」


 私も負けじと叫び返した。


「今度さ!俺にも運転させてくれよ!」


 それだけ言って、彼は私の返事を待たず空中でクルリと体を捻ると、日の昇る方へと飛んでいった。その姿を見届けた私は、ドアをしっかりと閉め――もちろん鍵はかけずに――飲みかけの紅茶に手をやり、窓から外を眺める。

 空飛ぶ蒸気機関車の窓には微かに暖かな日が差し込んできた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。