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プロローグ 九百九十九の死体の上で

「起きろ」


 腹を蹴られて脳が覚醒する。容赦のない蹴りに胃液がせり上がってくるが、日々蹴られ慣れた僕はその胃液を押し返す。


「がっ、ゲホッ、はぁ、ゲホッ」


「早くしろ」


 男はそれだけ言ってこの家畜小屋を去る。藁の上で眠っていた僕はほどなくして立ち上がり、衣服についた藁を左手で払う。


 僕は夢を見ていた。それがどんな夢だったかはもうおぼろげだけれど、夢を見ていたという事実だけは記憶していた。夢っていうのは所詮そんなものだということも、また記憶していた。


 僕の毎朝のルーティーンはまず体の痣を確認するところから始まる。今日までに付けられた痣がいくつ直ったのか、今日はいくつ増えるのか、を考えるという毒にも薬にもならない行為だ。そうして、昨日と大した変化がないことを確認し、僕は仕事に移るのだ。


 僕の仕事は簡単で膨大。孤児だった僕はとある農家に引き取られ、どうとでも扱える労働源として雇われているのだ。しかし、僕に割り当てられている今の仕事は、家畜の餌や収穫物を運搬するだけである。本来なら家畜の面倒を見るだとか収穫物を加工するだとかの複雑な作業をやらされるものなのだが、僕の場合は右手が使えないので、飽き飽きするような運搬作業を延々とやらされることとなったのだ。


 右手。大概の人は右手が利き手だろう。主人もそうだし、主人の奥様、その子供たちに至るまで、皆利き手は右だった。


 そして、今の僕の右手は土埃で汚れた包帯で包まれ、首を支点として吊られている。骨折した人間を思い浮かべてもらえればそれで良い。こんな様なのにはもちろん理由がある。けれども、日記に書くのも赤面するほどに恥ずかしい理由なので、ここでの明記は控えさせてもらいたい。


 兎にも角にも、僕にはやらなねばならぬ奉公が山積みなのだ。習慣一つでいつまでものさばっているわけにはいかない。


 人生は限りある割には短いのだから。


 そうして僕は家畜小屋を出る。外はまだ夜と朝の分別がつかない、薄明かりの空だった。


 仕事を始めるにあたって、まず荷台が必要になる。車輪が三つの四人ほど乗れる大きさの荷台である。それを取りに行くために、僕の主人の家に向かわなければならない。幸い、主人の家族はまだ眠っているはずなので、鉢合わせて殴られたり、罵詈雑言を浴びせられる心配はない。とは言っても、庭に入ればそれはそれで罰があるのだけれど。


 そういえば、主人は一度家に帰ったのだろうか。鉢合わせたら嫌だな。主人は僕にすぐ暴力を振るう、最悪な人間だ。


 そうして僕は数分の非労働時間を経て、主人の家の前までやってきた。だけれど、そこにあったのは、()()()()()()()だった。端的に言えば()()()()()()()()()()()()


「え、あ、え?」


 もっとも、ただ瓦礫が積み重なっていたわけではない。その山の頂上に立つ人影が、ことの異様さを際立たせている。


 いや、訂正しよう。人影なんて言い方は似合わない。そこに立っているのは化け物だ。形容のしようが無い怪物だ。腕が四本だか八本だか十六本だか生えていて、二足で立っているがそこに大した意味はないのだということを威風堂々と示していて、何より顔と表される部分にはただ必要だからという無機質さを伴って口だけが存在している。


 手で掴み、貪っているのは肉だろうか。早朝で薄暗くとも、その鮮やかな赤と、血が滴り落ちていることがわかる。怪物はこちらに目もくれず、ただ肉を貪っている。あれはなんの肉だろう。家畜の肉だろうか? 倉庫から拾ってきたのか? いや、だとすれば血は抜いているはずだから、えっと、だから、要するに――――


「人を、食ってるのか」


 自分自身でもいいから人の存在を感じたかったのか、僕の口からそんな声が漏れた。しかし、誰を食っているのかはわからない。今朝方僕を蹴った主人だろうか? それともその妻? はたまた三人の子供のどれか一人だろうか。


 怪物は僕に構わず肉を食い続けている。そして、僕は何もできずにただ突っ立っている。本当は逃げるべきなんだろうけれど、しかし僕の足は動かない。単純に慄いて動けないのもあるが、もっと別に、僕の苦境が今終わったという事実に安堵して言いようのない解放感に浸っていたのだ。


 それから五分は経っただろうか。案外十分くらいはその場に留まっていたかも知れない。だが、まぁ、些細な問題だ。


 怪物は肉を食い尽くしたようで、ようやく僕の方に体を向けた。もしくは背を向けたのかも知れない。


「ねえ、君は一体何者なんだい?」


 僕は瓦礫の山の怪物に呼びかける。声は震えていた。怪物は声に反応せず、問いには答えない。だが、こちらを意識しているのはわかる。


「あぁ、そうか、じゃあそうだな」


「ありがとう」


 僕は怪物に感謝を告げた。




 ――――――――――――




 僕は夢を見ていた。それがどんな夢だったかというと言葉を濁すしかないが、あえて形容するなら適当な文字をランダムに並べたような……そんな夢だった。


 


 喉の渇きと、頭痛に苛まれて僕は瞼を開く。すぐに知らない天井が見え、僕が綿の詰まったベッドの上で寝ていることに気づいた。


「おはよう」


 低くよく響く声が空気を震わせる。体を起こすとそこはいくつものベッドが並んだ清潔そうな部屋であることがわかった。部屋の隅には白く格式高い服に身を包んだ女が一人。膝に両肘を置き、手を組んで座っている。女の位置は陽の光に満ちたこの室内の中で、唯一影が差している場所だった。


「えっと、ここは?」


「ここは病院だ。お前は田舎町に住んでいたケドケド夫妻宅の瓦礫の山で倒れていたのを私の同僚が拾ってきたんだ」


 病院? 病院ってあの、上流階級の人間が病気になったら行くというあの? いや、それ以前にケドケド夫妻宅の瓦礫の山? ケドケドっていうのが人の名前なのはわかるが、誰のことだ? 僕は知らない人の家の瓦礫の山で倒れていたのか?


「お前、何か知っていることはあるか」


 そこで僕は気づく。僕は以前どんな人間で、どういう経歴を経ていたのかを、全く覚えていないことに。


「何も、知らない。何も覚えていないんです」


 仕方なく僕はそう答える。自分の右腕が厳重に包帯で包まれており、指先は全く動かない。


 しかしまぁ、自分のことは忘れていても、言葉はしっかり覚えているものなんだな。


「そうか。大方予想通りだ」女は表情一つ変えず、平坦な口調で僕に言う。


「あの、僕は誰なんですか? その、何にも覚えてなくて」


「お前が誰かなんて私は知らん。何者かになりたいなら勝手になればいい」


 そんな手前勝手な。


「そういえば、あなたはどうしてここにいるんでしょう」


 僕は女に訊く。


「別に大した用があるわけじゃない。一言伝えたら私の役目は終わりだ」


「一言っていうのは?」


「お前がこの病院から出ることはない。これだけだ」


 女はあっさりと、僕の心情をまるっきり無視して聞き逃してしまいそうな危うさを伴って告げた。


「な、そ、それはどういう意味ですか?」


「言葉通り。額面通りに表記通り。それ以上の説明は不要だ」


「僕はここに、えっと、監禁されてるってことで良いんですか?」


 女は単調な同意を返す。


「理由がないと承服しかねるんですが」


「理由を教える権限は私にはない。それに、お前が理由を知ったところで状況が変わるわけでもない。承服できないなら、そのまま天寿を全うして貰うだけだ」


 そんな、なんだそれ。


 じゃあ僕は救われたわけではなく、より悪質な窮地に立たされたんじゃないか?


「ところで一つ頼み事を聞いてくれないだろうか」


 女は丁寧さも丁重さも欠いて僕に言った。


「そこのカーテンを閉めて欲しい」


 そこで初めて女は口以外の部位を動かす。首を光が差す窓の方へ捻り、目線は窓のそばにあるカーテンの方を向いている。


「自分で閉めれば良いじゃないですか。病人、いや、怪我人にやらせるってことないでしょう」


 僕はぶっきらぼうに彼女へ返答する。ぞんざいな扱いに、内心腹を煮立たせていたのだ。


「そうか。ならば仕方がない。では、私は残った仕事を片付けに行く。それと、性悪者に地獄を見せねばな」


 なんて言ったかと思うと、女はおもむろに立ち上がり、その一歩を踏み出す。


「えっ」


 途端、僕は仰天した。日差しに当てられた女の顔が、どんどん焼け焦げていったのだ。いや、顔だけじゃない。手や眼球、果てには髪の毛までも焦げていく。瞬時に部屋は肉の焼ける匂いで充満する。


「な、だ、大丈夫ですか?」


 僕は心配して声をかけるが、女は無視して部屋を出ていった。


 残ったのは、滞留している煙と、女から垂れた血液。


 僕は戦慄した。どうでもいい意地を張ったあの女の狂人具合もそうだが、何より、自分が置かれた状況のおかしさにも恐怖した。


「どうしよう」


 少しだけ考えて、とりあえず僕はベットから降りる。なんにせよ行動を起こすこととした。このままのさばっていても、体は腐っていく一方だ。立ち上がったことによって薄く肌触りの良い衣服が僕の体から少し浮いた。


 僕はまず窓を観察してみることにした。朝日を浴びたい気持ちや、この場所の正体を突き止めること、窓からの脱出を諮ってもいたからだ。


 木枠の窓を目前に据え、まずはガラスの先を眺めてみる。どうやらこの部屋は二階か三階ほどの高さがあり、ここら一帯を一望できる。外は樹海が広がっていて、集落や村がある様子はない。いわばこの病院は陸の孤島というわけだ。


 次に窓を開け放とうと画策したのだが、開け方がわからない。というより、そもそも開放することを想定した作りではないようだ。窓からの脱出は望めなさそうだ。


 その時、目下の森林で影が動いたのを視界の端で捉えた。


 その影の正体は人間だった。おそらく男だ。実用性の高そうな服を着ている。その男はこの建物を見つけるや否や、訝しげに見渡し始めた。その視線の動きからは、若干の戸惑いも見受けられる。


 と、そこで目が合った。


 男はこちらを見つめている。僕も見つめ返す。しかし、特になんの行動を起こすことなく、男はまた森の中へ引き返していった。


 なんだったのだろう。ただ迷っていただけなのか?


 男のことはさして気にならず、他の調度品はどうだろう、と僕は目を部屋中に渡らせた。しかし、ここはベッド以外何も置いていない部屋だった。


 とすれば、あと見るべきところは扉だけだ。鍵をかけたような様子はなかったし、そもそも鍵がついていない。僕はすぐさま扉に近づき、ノブを捻って手前に引いた。ドアは思いの外軽く、扉はいとも容易く開く。


「わぁ、びっくり」


「うわっ!」


 扉を開くとそこにはまたも女が立っていた。しかし先ほど肌を焼いていった女とは違い、陽気で力の抜けた笑顔を浮かべている。そしてこの女も白く格式高い服を身に纏っている。


「ふぅ、助かりました。どうやってドアを開けたものか迷ってたところだったんですよ」


「は、はぁ」


 ドアなんてノブを捻れば簡単に開くだろう。などと当たり前のことを考えて彼女の手を僕は見る。しかし、ドア云々の話を僕は否応なしに理解する。


 それは、僕が最初に目を向けた彼女の左手が、丸めた紙屑みたいに潰れていたからだ。骨も肉も分別なく、痛みの想像ができないほどその左手は原型を失っていた。


「な、え、手、大丈夫なんですか?」


「ん? あぁ、これですか。ひどいですよね? さっきオーティーちゃんに会ったときにさ、サラッとくしゃくしゃにされちゃったんですよね」


「いやそうじゃなくて! 痛くないんですか?!」


「えぇ痛くないですよ。痛覚なら取ってますし。精々日常生活に支障が出る程度ですよ」


 そう呑気に語る彼女の右手は健在だった。シンメトリーのよくとれた彼女の顔と、両手のアシンメトリーが驚くほどにアンマッチしている。


「まぁ私のことなんてどうでもいいんですよ。それよりケーちゃんからおおよそのことは聞いていますね?」


 彼女の左手については到底無視できるものではないと思う。が、しかし彼女自身が取り繕うわけでもなく平気な素振りで振る舞っているので、僕は彼女の左手から目を逸らすことにした。


「その、オーティーちゃんっていうのは?」


「あれ、もしかしてあの子自己紹介もしないで出て行ったんですか? うっそー! 信じらんない! 陰気っていうにも程があるでしょうに!」


 どうやら、『オーティーちゃん』というのは最初に僕が見たあの無愛想な女のようだ。この無惨な左手の女の口ぶりから察するに、何かしらの説明役を担っていたのだろう。


「あの子の名前はオーティー。長ったらしい正式名称があるんですけれど、覚えたってしょうがないのでただオーティーと呼んであげてください」


「オーティー、さんですか」


「ちなみに私はイーといいます。もう一人ピーという男の子がいるんですけれど、まぁよっぽどのことがない限り会うことはありませんね」


 イーさん、オーティーさん、そしてピーさん。頭の中で反芻してみたが、思い出せることは何もない。僕が思い出せる記憶は、日光で焼けたオーティさんと、その病室、そして左手がくしゃくしゃのイーさんだけだった。


「ところで、十分元気そうですね。どうです? 色々説明し損ねていることもあるようですし、私と散歩でもしませんか?」


「散歩ですか?」


 ここからは出れないと、オーティーさんからの唯一の説明があったというのに一体どこを散歩するというのだろう。


「あなたは原則ここから外出することは許されていません、が――――ってあれ? もしかしてこの話は聞きました?」


「まぁ、ええ、はい」


「ふむふむ。ということはあの子、私の話を最初の三行しか聞いていなかったわけだ。クールなキャラなのにおばかなんですから、救いようがありませんね」


 大丈夫なのか、この病院。


「ですので、ここから出すことはできませんが、院内でなら歩き回ってもいいということです。なので、私と散歩しましょう。ええ、ぜひ散歩しましょう」


 正直断りたい気持ちは十分にあるが、理由は思いつかない。左手のことを全く構わないところにやや不信感は覚えるが、しかし全くの悪人というわけでもなさそうだ。誘いに乗った方が確実に得だろう。


 僕は二つ返事で要求を受け入れた。


「良かった。じゃあ早速なんですけれど、ドア開けてくれません?」


 見ると、ドアはいつの間にか勝手に閉まっていた。


「はぁ、いや、右手を使えばいいじゃないですか」


 僕は再度彼女の右手を見る。一度確認した通り、右手は健在である。見かけ上の問題は何もない。


「そうしたいのは山々なんですが、私、左手以外で物に触れたくないんです」


「はぁ、どうして?」


「こだわり、というよりかは、縛りですかね。人生を豊かにするためのハンデとでも言いましょうか」


「そう、ですか」


 手はちゃんと使った方が人生は豊かだと思うけれど。


 ともかく僕は両手の不自由なイーさんのために、扉を開けた。


 この人、どうやって服着るんだろう。


「うんうん。ありがとうございます。じゃあ早速赴きましょう! 凱旋しましょう!」


 部屋を出てすぐ見えたのは、大理石の床が輝く廊下だった。壁面は無機質で取り立てて特徴がない、シンプルで清潔な印象を無理やり押し付けてくるようなデザインだ。


「さて、まずは一番重要なことを伝えておきましょうか」


「一番重要なこと?」


「あなたに人権はありません」


最後まで読んでいただたきありがとうございます! もしよろしければ評価や感想をいただけると嬉しいです! 次回に続きます!

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