第六話 桜の噂
最近、城の空気が少し変わった。
目に見える変化ではない。
風向きでも、魚の量でもない。
(声の高さが違う)
家臣たちの声が、どこか低い。
言葉を選んでいるような、含みを持った響き。
廊下の角で、まな姫は立ち止まる。
「……あの方が申すには」
「あの方?」
「桜殿だ」
(桜)
初めて聞く名ではない。
だが最近、やけに耳に入る。
「まだ若いのに、恐ろしいほど先を読む」
「戦をせずに勝つ、と」
「殿も一目置いておられる」
小声が、波のように広がる。
まな姫は柱の陰からそっと覗く。
(戦をせずに、勝つ?)
そんなこと、できるの?
庭へ出る。
梅の枝が風に揺れている。
(桜、か)
花の名だ。
柔らかくて、儚い。
なのに“恐ろしい”と噂される。
(どんな人だろう)
剣を振るう武将のような姿は想像できない。
でも、皆が口を揃えて言う。
「理の人だ」と。
理。
まな姫はその言葉が、少し苦手だ。
理は冷たい。
線を引く人の言葉だ。
城下へ降りる。
市場でも、噂は流れている。
「桜様のおかげで、北は動かぬらしい」
「兵糧の流れを変えたとか」
「若いのに、すごいお方だ」
(見たこともないのに)
まな姫は魚を眺めながら思う。
人は、見えないものをすぐに大きくする。
怖くもするし、
頼もしくもする。
(戦をせずに勝つ)
その言葉が、胸に残る。
父は線を引く。
守るために。
では桜は?
(線を、消す人?)
それとも。
(もっと細かく引く人?)
どちらにしても、
自分とは違う。
まな姫は自分の手を見る。
網を触り、魚を持ち、子どもを抱き上げる手。
理を操る手ではない。
夕暮れ。
城の石垣の上。
遠くの空が、薄紅に染まる。
(桜色)
ふと笑ってしまう。
花の色と、同じ名。
でも、噂は花より鋭い。
(もし、その人が本当に戦を止められるなら)
それは、いいことだ。
市場の声が消えないなら。
港が静かなままなら。
(でも)
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
(私は、何になるの?)
守るのは父。
理を操るのは桜。
では自分は?
ただ、今を走るだけの姫?
波が寄せる。
(比べるの、嫌い)
でも、比べてしまう。
まだ会っていない人に、
心が少しざわつく。
怖いのではない。
(置いていかれるのが、怖いのかも)
知らないところで、国が変わっていく。
理で。
線で。
自分の知らない言葉で。
「姫様」
振り返ると、侍女が頭を下げる。
「桜様がお見えになります」
心臓が、ひとつ大きく鳴る。
(来る)
噂の人。
理の人。
戦をせずに勝つ人。
まな姫は立ち上がる。
(私は、逃げない)
問いからも、未来からも。
そして――
まだ見ぬ桜からも。
夕空は、薄く桜色に染まっていた。




