第五話 まな姫、今を選ぶ
朝の光は、昨日と変わらない。
けれど、まな姫の目には少し違って映った。
(守られている)
父の言葉が、胸の奥で静かに響いている。
守るための線。
奪われぬための境。
城の高台から見える海は、相変わらず広い。
線は見えない。
(見えないけど、ある)
それを知ってしまった。
城下へ降りると、市場がいつもより静かだった。
野菜が少ない。
魚も小ぶり。
「風向きが悪くてなあ」
商人が肩をすくめる。
(風のせい?)
それだけではない気がする。
声の張りが弱い。
まな姫は立ち止まり、人の顔を見る。
(疲れてる)
昨日より、少しだけ。
ほんの少し。
けれど、その“少し”が胸に引っかかる。
(私は、何ができる?)
剣は持てない。
兵も動かせない。
でも。
(今を守る)
父は線を引く。
ならば自分は、線の内側を明るくすればいい。
まな姫は、ふいに顔を上げた。
「ねえ」
商人が顔を向ける。
「今日は、魚を並べ替えよう」
「並べ替え?」
「小さいのを奥に。大きいのを手前に。
声をもっと出して」
「姫様、それで――」
「元気に見えれば、元気になる」
商人は一瞬ぽかんとし、やがて笑った。
「相変わらず、うつけだなあ」
(うん、知ってる)
でも、笑った。
その笑いが、何より大事だ。
子どもたちを呼ぶ。
「今日は浜で走り回っていいよ」
「ほんと!?」
「大きな声で笑って」
意味はない。
策でもない。
でも。
(静かになるのが、一番怖い)
声があれば、国は生きている。
まな姫はそう信じている。
夕方、城へ戻る。
父――里見義堯が廊下に立っていた。
「今日は、港が賑やかだったな」
「うん」
「何をした」
まな姫は少し考え、答える。
「元気にした」
義堯の眉がわずかに動く。
「……そうか」
それ以上は何も言わない。
だが、その目はどこか柔らいでいた。
夜。
石垣に座り、海を見る。
今日も線は見えない。
けれど、城の中ではきっと引かれている。
(私は、線を引けない)
でも。
(線の中を、空っぽにしないことはできる)
それが自分の役目かもしれない。
未来は、まだ怖い。
戦の話も、赤い印も、胸がざわつく。
けれど。
(今日を守ることは、未来を守ることかもしれない)
初めて、そう思えた。
波が静かに寄せる。
まな姫は目を閉じる。
うつけでいい。
今を走り回る姫でいい。
でも。
(逃げない)
問いからも、未来からも。
少しずつでいい。
目を逸らさずに、見ていく。
海の向こうで、何かが動いているかもしれない。
まだ見えない。
けれど確実に、里見領はゆっくりと変わり始めている。
その変化の中で。
まな姫は、初めて自分の立つ場所を選んだ。
「今」を選ぶ、と。




