第二話 線を引く人、線のない海
今日は朝から城が騒がしい。
父――里見義堯の声が、いつもより低い。
「北条が動いた」
家臣の一人が告げる。
(また、その名前)
北条氏。
まな姫にとっては、地図の上の印でしかない。
赤い線の向こう側にいる、遠い誰か。
けれど大人たちの顔は違う。
固い。
重い。
(そんな顔をしても、お腹は空くのに)
まな姫はそっとその場を離れた。
城下は、いつも通りだ。
干した魚が風に揺れ、
子どもたちが裸足で走り回る。
「姫様!」
小さな男の子が、泥だらけの手で振る。
(あ、また転んだな)
まな姫は袖で彼の頬を拭いた。
「痛くない?」
「全然!」
嘘だ。
少し涙目だ。
(でも、笑ってる)
それで十分だと思う。
港へ出ると、漁師たちが網を繕っていた。
「今日は沖に出ないの?」
「様子見だ。北の海が荒れてる」
海もまた、動いている。
(みんな“様子見”ばかり)
城でも、海でも。
動く前に、測る。
考える。
比べる。
(私は、測らない)
面白いか。
楽しいか。
やりたいか。
それだけだ。
だから「うつけ」と言われる。
昼過ぎ、城へ戻ると父が廊下に立っていた。
珍しいことだ。
「どこへ行っていた」
「港」
「……そうか」
怒られない。
それが少し物足りない。
「北条が、安房をどう見ると思う」
突然の問い。
まな姫は首をかしげた。
「海の向こう?」
義堯は一瞬だけ目を細める。
「そうだ。向こうから見れば、ここは海を抱いた国だ」
(抱いてるのは、海の方じゃないの?)
海に抱かれているのは、私たちだ。
「怖いの?」
まな姫は正直に聞いた。
「怖れを知らぬ者は、国を失う」
静かな声。
(怖がりながら守るの?)
まな姫には、よくわからない。
でも父の背は、海より大きく見えた。
夕方、石垣の上。
今日も海は広い。
線はどこにもない。
(どうして大人は線を引くのかな)
国境。
同盟。
敵味方。
海には、そんなものはないのに。
ふと、胸の奥がざわつく。
(もし、線が増えたら?)
城の地図の赤い印が、増え続けたら。
市場の魚が減り、
笑い声が消えたら。
(……嫌だ)
その想像だけで、息が詰まる。
まな姫は石を拾い、海へ投げた。
ぽちゃん、と音がして、すぐ消える。
(線なんて、消えればいい)
だが現実の線は、石のようには沈まない。
夜。
侍女たちが囁く。
「姫様は将来をお考えにならない」
「うつけ、と家中でも――」
(聞こえてる)
でも怒らない。
未来を考えないのではない。
今を、考えているだけだ。
今を取りこぼした者に、未来は来ない。
そう、なんとなく思っている。
(でも……)
今日、父の背は少しだけ疲れて見えた。
あの背を軽くするには、どうしたらいいのだろう。
未来の話は嫌いだ。
けれど。
(今を守るために、未来を見ることもあるのかな)
潮の匂いが夜風に混じる。
まだ何も起きていない。
均衡は保たれている。
だが。
見えないところで、線は引かれつつある。
まな姫は知らない。
やがてその線の上に、自分が立つことを。
そして。
海の向こうから、
まだ見ぬ大きな船が現れる日が来ることを。
今はまだ、
静かな里見領。
けれど静けさは、永遠ではない。
まな姫は目を閉じ、潮の音を数えた。
(明日は、もっと面白くなるといい)
そう願いながら。




