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まな姫の胸にひそむ潮騒―成長そして責任  作者: れんれん


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第一話 潮の匂いのする国

朝の里見は、潮の匂いで目を覚ます。

城の高台から見える海は、今日も静かだった。

凪いだ水面に、小さな漁船が点々と浮かぶ。

まな姫は、そっと障子を開ける。

(いい匂い)

海の匂い。

湿った土の匂い。

炊き始めた米の湯気の匂い。

それが、この国の匂いだった。

「姫様、まだ朝餉の支度が――」

背後から侍女の声がする。

「あとで行く!」

まな姫は裾を持ち上げ、廊下を走った。

「姫様っ」

小言が背中に刺さるが、気にしない。

(朝の風は、今しか吹かないんだから)

城下へ降りる坂道は、少し急だ。

草の露で足が滑りそうになる。

(危ない?)

(ううん、楽しい)

城の中では「姫らしく」と言われる。

背筋を伸ばせ、歩幅を揃えろ、声を抑えろ。

でも、ここでは違う。

港へ近づくにつれて、声が増える。

「おう、姫様!」

「今日は早いなあ!」

漁師たちは、笑って手を振る。

(ほら、みんなちゃんと笑ってる)

それだけで、胸があたたかくなる。

網を引くのを手伝おうとして、すぐ止められる。

「姫様の手が荒れる!」

「荒れたらどうなるの?」

「……困ります」

(困るって、誰が?)

まな姫は首をかしげる。

国の未来がどうとか、

政の行く末がどうとか。

そんな話は、まだよくわからない。

でも。

魚が獲れなければ困る。

塩が足りなければ困る。

雨が降らなければ困る。

それは、わかる。

(未来って、今日のことじゃないの?)

今日がちゃんと回れば、

明日もたぶん回る。

そんな単純な理屈が、まな姫の中では真実だった。

市場へ向かう。

野菜は少し小さい。

魚も昨日より少ない。

「最近、獲れが悪くてなあ」

商人が苦笑いする。

まな姫はじっと魚を見る。

(足りないって顔してる)

人の顔と同じだ。

元気な日は、声が大きい。

困っている日は、目が下がる。

「今日は少し、祭りみたいに並べてみたら?」

「祭り?」

「うん。元気に見えるように」

商人は笑った。

「姫様は、変わってるなあ」

(また“うつけ”って言う?)

でも、嫌ではない。

うつけと言われても、

笑っている顔を見る方がずっといい。

城へ戻ると、父の声が遠くから聞こえた。

家臣と、何やら難しい話をしている。

「北条が――」

「武田が――」

地図が広げられ、

指が動いている。

(また未来の話)

まな姫は、少しだけ覗き込む。

線が引かれ、

丸が付けられ、

赤い印が増えていく。

(あんなに印があったら、窮屈じゃないのかな)

国は、まるで囲われた庭のように語られる。

でも、海には線がない。

風にも、ない。

(私は、海の方が好き)

夕暮れ。

城の石垣に座り、海を見つめる。

今日は特別なことはなかった。

魚は少なかったし、

野菜も小さかった。

でも、皆は笑っていた。

(それで、いいよね)

未来を背負えと言われるたびに、

胸が少し重くなる。

でも、今この瞬間は軽い。

(今をちゃんとやればいい)

(明日のことは、明日考えればいい)

それが、まな姫の真実だった。

遠くで、太鼓が鳴る。

城が閉じる合図。

まな姫は立ち上がる。

(明日は、何が面白いかな)

国の未来よりも、

今日の風。

今日の笑い声。

今日の匂い。

それを全力で抱きしめる少女。

まだ誰も知らない。

この「今に夢中な姫」が、

やがて国の行方に立つことを。

そして――

彼女の隣に、

理で世界を見る者が現れることを。

潮の匂いのする国で、

物語は、静かに始まった。

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