8話:甘えたい気持ちー①
夕暮れ時、寮の廊下を歩く足音が響く。
ピクルは少し気まずそうに、ミラの部屋の前で立ち止まった。
――ルシアンに「優しくしてあげなよ」と言われ、ミラに会いに来たのだ。
(ったく……別に俺、悪いことなんてしてねぇぞ。
なんでこんな気まずい思いしなきゃなんねぇんだ)
そう思いつつ、軽くノックをする。
「ぴーちゃん! 来てくれたんだ!」
扉が開いた瞬間、ミラがぱっと笑顔を見せた。
飛びついてくる勢いに、ピクルは思わずたじろぐ。
「あぁ、まあ……やっと落ち着いたからな。
ずっと慌ただしくて、ゆっくり話す暇もなかったし」
ピクルは照れくさそうに後頭部を掻いた。
久しぶりにじっくりとミラと顔を合わせる。
「一人でよく頑張ったな」
「うん……!」
その一言で、ミラの顔がふわっと明るくなった。
褒められたのが、嬉しくてたまらないようだ。
「じゃあね、一緒にお菓子食べよう! リリちゃんにもらったんだよ!」
ミラはピクルの手を引いて部屋に入り、箱を開けて小さな焼き菓子を皿に移して並べる。
ピクルが腰を下ろすと、まるで待っていたかのようにミラも隣に座った。
「なぁ、ミラ」
ピクルが、少し真面目な声で口を開く。
「……あんまルシアンに嫌な態度とんなよ。 世話になってんだからさ」
その言葉に、ミラの表情が曇った。
「……分かってるけど」
ミラは俯き、ぽつりと呟く。
「どうしたんだよ」
「でも、寂しいんだもん。 ルシアンくんとばっかり一緒にいるし」
「それは……テストもあるし、仕方ねぇだろ」
「それに、私といる時よりずっと楽しそうだし……」
「そうか?」
「そうだよ! それに、ルシアンくんにはベタベタ触ってるし!」
ミラは顔を上げ、ピクルを見る。
「はぁ!? どこがだよ!? 気持ち悪りぃ言い方すんな!」
「してるよ!」
「……だって、私には全然触んないのに!」
ミラの手は震え、目には怒りと不安が入り混じっていた。
ピクルは、思わず目を逸らした。
(……気づいてたのかよ)
胸の奥がきゅっと痛み、ピクルは拳を握りしめた。
何も分かってないと思ってた。
ミラにとって自分は、家族で、友達で――小鳥だった頃と全く変わらない。
まるでペットみたいに扱われながら――もう、そうじゃないと思いたくなる自分がいる。
無邪気に抱きしめられるたび、こっちはどうしようもなく意識してしまう。
自分がミラに向けている感情が、
ミラから向けられるそれとは違うと――もう、分かってしまっているから。
だから、自分から触れるなんてできるわけがなかった。
一度でも、触れてしまったら――
もう、元の場所には戻れない気がして。
(あの頃は言葉も喋れねぇし、スキンシップでしか気持ちを伝えられなかったけど……)
今は、それ以外でもミラを支える方法はいくらでもある。
使い魔として、保護者として――その立場を守ると決めた。
だからこそ、距離を取ってきた。
(何にも気づいてねぇと思ってたのに……意外と見てんだな)
ピクルは気を取り直し、ミラを諭すように言う。
「……男同士と距離感が違うだけだって。 普通そういうもんだし」
「普通とか分かんないよ! 部屋も別だし、全然一緒にいられないし……」
ミラの声が少し震えている。
「せめて、会ってる時くらい優しくしてほしいのに!」
そう言って、ミラは勢いよくピクルに抱きついた。
「お、おい……!」
ピクルは呆れたように息をついたが、振りほどけなかった。
――ミラは何も悪くない。ただ変わってないだけ。
(俺が勝手に、変わってくれるんじゃないかって期待してただけで……)
ミラはピクルの胸に顔を埋めたまま、動こうとしない。
「……たまにはぴーちゃんも、ぎゅってしてよ……」
消え入りそうな声で呟く。
「……つーか、ルシアンにはそんなことしてねぇだろ?」
「でもずるいよ……」
完全に拗ねていて、話にならない。
ピクルは大きく息をつき、観念してそっとミラの背中に手を回した。
「……これでいいか?」
「うん!」
ミラは満面の笑みを浮かべ、顔を上げてピクルを見つめる。
「じゃあ、このままチューもしてよ!」
「はぁ!? この状態でか!? ありえねぇだろ!!」
ピクルは思わずのけぞる。
幼体の小鳥の頃、嘴でつついて慰めていた仕草を、ミラは今でも同じように求めてくる。
ミラにとっては“元気の出るおまじない”――ただ、それだけ。
でも、今のピクルには、もうそれだけじゃない。
ピクルが戸惑っていると、ミラの瞳が潤む。
「……“頑張った”って言ってくれたのに……」
言葉はか細く、今にも消えそうだった。
ピクルは一瞬たじろぐがすぐに思い直す。
「……また嘘泣きかよ……? 毎回騙されると思うなよ?」
平静を装い軽口を返す。
「違うよ!」
ミラの目には涙があふれる。
「だって……私が一番仲良いって思ってたのに……違うのかなって思ったら……」
言葉と共に涙がポロポロとこぼれる。
声にならない嗚咽が喉で震え、ただ泣きじゃくるだけ。
「……分かった、分かったから泣くなって……」
観念したように、ピクルは答える。
(無だ……無心になれ、俺……)
できるだけ、何も考えないようにしようと決めた。
余計な感情を入れたら、ややこしくなるだけだ。
ピクルは深く息を吐き、動作だけに意識を向ける。
そっと手を伸ばす。
距離を測り、呼吸を合わせ、ほんの一瞬――。
そして、ミラの頬に口づけた。
できる限り軽く、形だけのように。
「ふふっ。嬉しい〜」
ミラは笑顔でいっぱいになり、さらにぎゅっと抱きつく。
しばらく、ピクルの胸に顔を埋めたまま動かなかった。
その温もりを確かめるように、ゆっくりと息を吸い込む。
そして、顔を上げる。
まっすぐにピクルを見つめながら、口を開いた。
「大好き」
小さな声でそう言って、ミラは自分からピクルの頬にキスをした。
「……え」
ピクルは固まる。
まさか、ミラから返ってくるとは思っていなかった。
顔が熱くなり、心臓が痛いほど鳴っている。
胸の奥で、張りつめていた何かが一瞬でほどけていく感覚がした。
――まずい。
(これは流石にまずい……!)
ピクルは急に立ち上がった。
「……俺、帰るわ」
「え? どうしたの?」
「あー……テストのことでやること思い出した」
半ば逃げるようにドアへ向かう。
「そっか。……また来てね」
ミラはにっこりと笑って手を振った。
扉が閉まり、静かな廊下に出た瞬間。
ピクルは壁にもたれ、天井を仰ぐ。
(……やべぇ……)
鼓動がまだ速い。
頭の中で、ミラの笑顔と唇の感触が離れなかった。




