009 少女たちとの契約
視界が暗闇から浮かび上がったとき、蒼侍は店の奥の小さなソファに横になっていた。
額には冷たい布。古びた振り子時計が、規則正しく時を刻んでいる。
「……気がついたか」
低い声に顔を向けると、マスターが椅子に腰掛けていた。眼鏡の奥の瞳は心配を隠しきれない。
「……頭痛が」
「顔色が死人みてぇだ。今日はもう上がれ。無理しても碌なことにならん」
ぶっきらぼうだが、促す手は父親のように温かかった。
「……すみません」
「謝ることじゃねえ。人間には波がある」
マスターの言葉に小さく頭を下げ、蒼侍は冷や汗の残るシャツを整えて店を出た。
外は宵の色に沈み始めていた。常磐坂を抜ける風が、夕焼けの余韻を抱えた雲を押し流す。大学帰りの学生たちが笑い声を立てながら歩き、街灯がぽつぽつと灯りはじめていた。
胸の奥はまだざわついていた。
結月の落ち着いた声、そして突然入れ替わった天真爛漫な少女の声。人格が切り替わる瞬間を目の当たりにし、頭痛とともに浮かんだ断片的な記憶。
あれは幻覚ではない。確かに“別の誰か”が存在していた。
そのとき、背後から弾む声が飛んだ。
「蒼ちゃーん!」
振り返ると、ポニーテールを高く結った少女が駆け寄ってきた。
白いTシャツにデニム、首元には小さなネックレス。息を切らしながらも笑顔を絶やさず、まるで夏の夕暮れを駆け抜ける太陽のように眩しかった。
「……図書館のときの子じゃないな」
「ぶっぶー。正解だけど不正解!」
彼女は指で丸を作り、ぱちんとウインクする。
「私は結月の中の“もうひとり”。名前は燈! 覚えてね、蒼ちゃん!」
唐突な名乗りに、蒼侍は言葉を失った。だがその声色は、あの喫茶店でクリームソーダを頼んだ少女と同じだ。
あのときの無邪気さと同じ笑み。
「……燈」
「うんっ! あかりって呼んでね!」
彼女は嬉しそうに飛び跳ねるように一歩前へ出る。
「信じられないって顔してるけど、見たでしょ? 結月とわたし、全然違うでしょ?」
「……ああ」
凛と本を読む結月。冷たく拒絶した少女。そして目の前の燈。どれも同じ顔でありながら、まるで別人。
燈は少しだけ真面目な声に変えた。
「秘密にしてたのはね、怖かったから。誰にも言えないし、理解されるわけないって思ってた。でも――」
真っ直ぐな眼差しが、蒼侍を射抜く。
「蒼ちゃんなら、聞いてくれるって思ったんだ」
胸の奥にひっかかっていた言葉が、堰を切ったように溢れた。
「……なら、俺も話そう。信じてもらえないと思うが」
「なに?」
燈は期待に満ちた目で首を傾げる。
「俺は記憶を失っている。十二歳以前の記憶が、事故で消えた」
燈の瞳が大きく揺れた。だがすぐに眉が下がり、柔らかな笑みへと変わる。
「……そっか」
「親と過ごした日々も、友達と遊んだ記憶も、何一つ残っていない。ただ、頭痛とともに断片だけが浮かぶ。赤い鳥居、誰かの声……それが現実か夢かも分からない」
吐き出すように言葉を並べる。これほど素直に過去を語ったことはなかった。
燈は一度強く頷き、腰に手を当てて宣言した。
「じゃあ、決まりだね!」
「……何がだ」
「蒼ちゃんの記憶、わたしたちで取り戻してあげる!」
あまりにも明快で、根拠のない言葉。だがその声は不思議と胸を揺さぶった。
「七人いるんだ、わたしたち。ひとりひとりが違う性格で、違う世界を見てる。蒼ちゃんがわたしたちと出会っていけば、きっと記憶のカギに触れられる。そんな気がするの!」
「……根拠は?」
「ない!」
即答して、燈はけらけらと笑った。
「でもね、記憶をなくした蒼ちゃんと、一人じゃ抱えきれない秘密を持った結月。出会ったのは偶然じゃないよ。運命だって!」
その笑顔は夜の街灯よりも明るかった。
蒼侍は黙って歩き出す。隣に並ぶ燈の足音が、軽やかに響く。
「まずは、わたしから! これからは蒼ちゃんにいっぱい付き合ってもらうからね!」
「……強引だな」
「でしょ? でも、悪くないでしょ?」
夜風が二人を包む。常磐坂を下る街路樹の影が重なり、揺れていた。
蒼侍は表情を変えないまま、心の奥にわずかな熱を感じていた。
忘れた記憶を取り戻す旅。その始まりを告げたのは、燈――彼女のまぶしい笑顔だった。
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