008 確かな違和感
約束の日、蒼侍は喫茶あかつき坂の開店前からそわそわと落ち着かなかった。
窓を開けると、常磐坂の上を渡る風が、夏の粉塵と青い匂いを連れてくる。
普段なら単調な作業を機械のようにこなすだけで心が揺らぐことはない。だが今日だけは違った。ポケットの中にある銀の栞が、不意に熱を持ったかのように存在感を主張している。
マスターはその様子を見て、カウンター越しに小さく笑った。
「蒼侍、今日はずいぶん落ち着かねぇな。恋でもしたか?」
「……そんなことはありません」
淡々と否定する。だが自分でもその声音に張りがないことに気づいた。
昼過ぎ。店は常連の老人や学生たちで程よく埋まり、ジャズの旋律が低く流れている。カップの触れ合う音、ページをめくる音、遠くで子どもが笑う声。人々の営みの音が、今日もいつも通りの背景を作っていた。
人々の仕草に宿る温度を、指先でなぞるように心に置いていく。自分に欠けているものの輪郭を、他者の中に見つけて写し取る。その繰り返しが、ここでの働き方になっていた。
そこに――彼女は現れた。
カラン、とベルが鳴る。
長い黒髪。白いブラウスに紺のカーディガン。歩幅は小さく、しかし迷いはない。足元はヒールではないのに、立ち姿はどこか凛としている。あの図書館で見た背中を思い出す。背筋が真っ直ぐに通っていて、ページをめくる音ですら姿勢に影響しなかったあの気配。
昨日モールで出会った冷たい視線でも、天真爛漫な笑顔でもない。
凛とした背筋、落ち着いた歩み。窓際に座るその姿は、図書館で本を読んでいた時の印象に近かった。
蒼侍の胸が、不意に締め付けられる。
「えっと、落とし物を取りにくると約束した者です」
蒼侍はポケットから銀の栞を取り出した。光がひとしずく跳ねて、彼女の黒目の中に小さな星を作る。机の上に静かに置くと、彼女の指が伸びて、表面をなぞった。触れた瞬間、空気が変わる。
「これは常盤坂大の図書館に続く道で落ちていたものです。あなたの物ですよね」
少女の瞳が大きく見開かれた。次の瞬間、彼女の両手が震えながら栞を掴む。
息を吸う。吐く。もう一度吸う。そのたびに喉の奥の緊張がほどけ、肩の線が柔らいでいく。唇がわずかに開いて、そこから押し出されるように声が出た。
「……本当に。ありがとうございます」
涙はない。だが、安堵が全身から溢れているのが分かる。呼吸の深さ、手の震え、その震えを押しとどめるために指先に余計な力が入る様子。グラスの水滴が机に落ち、輪を描いた。
「大切なもの、なんですね」
「母の……形見なんです。どこにも見つからなくて……もう二度と戻らないと思っていました。本当に……ありがとうございます」
結月は深く頭を下げた。
その仕草は作り物ではなく、魂の奥から溢れ出す真実の感謝だった。
「……白神結月といいます。お返しできる言葉がうまく見つからないのですが、心から感謝しています」
「黒無蒼侍です。いえ、偶然です。図書館の通路で見つけただけで」
名前を交換する。その二音と三音が、思った以上に重かった。結月――そう呼ぶことでしか触れられない距離が、目の前に横たわっている。
蒼侍はその反応を冷静に観察しながらも、心の奥で何かが揺れ動くのを感じていた。
母の形見。つまりこれは、彼女にとって失うことが許されない宝物なのだ。
それを自分が届けた。彼女の涙に揺れる瞳が、それを証明していた。
(……やはり、同じ顔でも、これは図書館の少女だ。一昨日の天真爛漫さでも、昨日の冷たさでもない。ならば、あの違和感は何だ?)
気づけば蒼侍は、胸に燻る疑問をそのまま口にしていた。
「……どうして、昨日は俺を無視した?」
結月の動きが止まった。
驚きの色が一瞬だけ浮かび、それから何かを悟ったように瞳を伏せる。
「……昨日?」
「ああ。ショッピングモールで声をかけた。だが君は、『新手のナンパ』だと――」
「……」
結月は言葉を失い、唇をきゅっと結ぶ。
その手が栞を強く握りしめ、小さく震えていた。
沈黙の後、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、迷いと覚悟が入り混じっている。
「……ごめんなさい。私じゃ、ありません」
その声は、今までの彼女の声と同じ響きでありながら、まるで別の意味を持っていた。
次の瞬間、彼女の瞳がふっと揺れ、息を吸う仕草が変わった。
姿勢が僅かに崩れ、口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「お待たせー! あ、栞戻ってきたんだ! やっぱ蒼ちゃんって頼りになる~」
あの声だった。
天真爛漫な笑顔、軽やかな身振り。図書館の結月ではなく、一昨日喫茶店で出会った少女が、そこにいた。
蒼侍の胸に、冷たい稲妻のような違和感が走る。
同じ顔、同じ体。だが瞬きの間に人格が入れ替わった。
「……っ」
頭を掴むように手が動いた。
鋭い痛みがこめかみを突き抜け、視界が歪む。
音が遠ざかり、店内のざわめきが水の底に沈んでいく。
老人の咳払いも、学生の笑い声も、恋人たちの囁きも、すべてが溶けていった。
代わりに頭の奥に響くのは――記憶の断片。
誰かの悲鳴。夜の神社。赤く染まる鳥居。
小さな少女が首を傾げる姿。
そして、自分を呼ぶ声――。
『……そうじ……』
「――っ!」
蒼侍は息を荒げ、机に片手をついた。
視界が揺れ、額から汗が流れる。
「大丈夫、大丈夫!? 蒼ちゃん!」
天真爛漫な少女の声が焦りを帯びて響く。
さっきまで結月の落ち着いた声だったのに、今は必死に彼を覗き込んでいる。
蒼侍は苦しげに目を閉じたまま、心の中で呟いた。
(……やはり俺は、間違っていない。彼女の中には……複数の“誰か”がいる)
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