005 とある牛丼屋にて友人と
「なあ、運命って信じるか?」
蒼侍は、唐突にそんな言葉を落とした。
ここは全国展開している牛丼チェーンの一角。時刻は午後九時を回っている。
夜の街にしてはやけに静かなその店内には、数組の客しかいない。
肉を煮込む甘辛い匂いと、味噌汁の湯気が漂い、厨房奥の換気扇が唸りを上げている。
蒼侍の言葉に店員が一瞬こちらを見た。
蒼侍と向かい合って座る友人、橘一真は、紅ショウガの容器を手に取ったまま動きを止めた。
彼の視線が「は?」と言わんばかりにこちらを刺す。
「急にどうした?」
一真は軽口を叩くように言いながらも、姿勢は自然と蒼侍に向いていた。
彼は蒼侍とは対照的に、いかにも今どきの大学生だった。
流行りの色合いに染めた髪を無造作に整え、ジャケットと細身のパンツをさらりと着こなす。
誰の目にも“イケてる大学生”で、女子からの視線を集めるのは当たり前のこと。実際に告白された話は何度も聞く。
――だが、彼には不思議な噂があった。どれほどモテても、彼女を作ろうとしないのだ。
「今日、大学の図書館で本を読んでる子を見かけてな」
「ほうほう。で、その子に一目惚れしたと?」
一真はニヤリと口元を歪め、箸で紅ショウガを摘んで蒼侍の丼に向かって振りかけようとする。
「違う。恋愛感情はまったくない」
蒼侍の言い切りに、一真は大げさに額を押さえた。
「お前さぁ……そこは“気になる”とか“可愛かった”とか言えよ。夢も希望もねえな」
「人間の第一印象が視覚に左右されるのは確かだ。だが、一度見ただけで恋愛に発展するなど非現実的だろう」
「……はいはい出ました講釈。牛丼食いながら説教される俺の身にもなれ」
長い前髪がかかる眼鏡の位置を直しながら力説しようとする蒼侍を、一真が軽く手を挙げて制止させる。
一真は苦笑しながらも、紅ショウガを盛った牛丼をかきこみ、すぐに水で流し込む。
対照的に蒼侍は姿勢を崩さず、水の入ったコップを持ち上げて口を湿らせただけだった。
「それで? その子がどうしたんだよ」
一真はようやく真面目な声を出す。
「……思い出したんだ」
「なんだ、前世の記憶か? 実は魔王の生まれ変わりで――」
「すまない一真、言葉の意味が分からない」
「冗談だよ。ほんとお前は昔からノリ悪いな……」
笑いながらも、一真の声にはどこか苦味が滲んでいた。
蒼侍は淡々と、昼間図書館で体験した奇妙な出来事――頭痛と共に流れ込んだ記憶の断片を語り始める。
神社の鳥居。誰かの悲鳴。首を傾げる小さな少女の姿。
淡々とした語り口なのに、一真は次第に真顔になっていく。
「……以上だ」
話し終えた蒼侍は水を飲み干し、静かにコップを置いた。
一真はしばし黙り込み、それから大きく息を吐き出した。
「……なあ、それだけ聞くとよ。美人の前で頭痛くなって、ビビって逃げただけに聞こえるんだが」
「違う。一真、あの瞬間――俺は懐かしさを覚えた。失ったはずの記憶が、確かに脳裏に蘇ったんだ」
「……それが、お前の“空白の十二年”につながってるってわけか」
「分からない。ただ、東京に来て初めての経験だった。偶然では済ませられない」
一真は紅ショウガまみれの牛丼をひと口食べ、しばらく咀嚼してから視線を伏せる。
「事故で親を失って、小学生の頃の記憶もほとんどねえ。そんなお前が……図書館で謎の頭痛と美人。……確かに何かの縁かもな」
「……ある意味運命、かもしれない」
「はっ。お前の口からそんな言葉が出るとはな」
一真は笑ってごまかそうとしたが、その瞳には妙な真剣さが宿っていた。
「ああ。上京して三ヶ月、ようやく見つけた過去への手がかりなんだ。どんなに低い可能性でも俺はそれに手を伸ばしたい」
「そうか。だけどよ蒼侍、どうしてそこまで過去に固執するんだ? 俺が小学生の頃なんて思い出したくないことばっかだったぜ? 親や先生から叱られまくった記憶しかねえよ」
どこか遠い昔の記憶を思い出したのか一真は苦笑した。それは蒼侍にとって羨ましい限りである。
蒼侍には十二歳以前のほとんどの記憶がない。交通事故により過去の記憶は蒼侍の両親とともに消えてなくなった。
長い前髪に隠れた額の傷。それは交通事故により付けられた消えない傷跡。
「一真、俺は親と過ごした記憶、小学生の時に遊んだ記憶というものがないんだ。それは他人と比べて俺が劣っているところだ。幼い頃の記憶がないことは想像以上に辛いんだよ」
「……悪かったな。俺にできることはないか? そのために俺に今日あったことを話したんだろ?」
一真は真剣な表情で謝罪し、すぐに開き直った。
蒼侍は迷いなく告げる。
「今日、図書館で会った女子ともう一度会う。そして記憶を取り戻す。そのために協力してくれ、一真」
「協力って……。大学に女子が何人いると思ってんだよ。手がかりもなしにピンポイントで探せるわけ――」
「手がかりならある」
蒼侍はそう言うと、鞄からひとつの栞を取り出した。
それは銀色に光を返し、星を模したような繊細な意匠が施されている。
「これ……まさかお前、盗んだのか!?」
一真の声がわずかに掠れた。
「違う。図書館へ向かう途中で落ちていた。材質も形も珍しい。おそらく彼女のものだ」
一真は栞を見つめたまま固まる。
指先がかすかに震え、箸を持つ手に力がこもる。
「……どこかで、見たことがある気がする」
「知っているのか?」
「いや……気のせいだろ」
一真はわざと軽い調子で肩をすくめた。だが、視線は栞から離れなかった。
店内のBGMが、やけに大きく耳に響いた。
紅ショウガの赤、肉の匂い、夜の牛丼屋の静けさ――。
その中で、二人の会話だけが、何か取り返しのつかないことへ向かっている気配を帯びていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!




