第八話 静寂とざわめき
小さな集落に足を踏み入れた俺たち。
道端には干した穀物、洗濯物が並び風に揺れている。町とも違う、柔らかな人の気配が漂っていた。
集落の入口のすぐそばに人影が見えた。
「こんにちは」
そこで畑仕事をしていた男に声をかける。
「旅の人かい、こんなとこまで珍しいねえ」
男は額の汗をぬぐい、土に汚れた手で鍬を支えた。
「すまないが、少しここで休ませてほしい」
「なんにもないとこだが、ゆっくりしていくといい」
「ありがとうございます」
促されるまま手製の椅子に腰を下ろすと、風に乗って土と草の匂いが鼻をくすぐった。町で嗅いだ血や煙の匂いとは違い、懐かしい香りだった。
リディアはそっと笑みを浮かべる。
「穏やかですね……」
「ここには魔物の襲撃は来ないのか?」
ふと疑問に思い、問いかける。
「時々、小さいのが来ないことはないが……」
男は言葉を切り、ちらりと背後を振り返った。
「ここには“あの森”があるからねぇ」
「……森? もしかして賢者の森か?」
「あぁ、そういう呼び方をする人もいるがな」
男は鍬を地面に突き立て、声を落とした。
「なんというか、不気味な森でね。一度入ったら戻って来れないだの、気が触れるだの——余所者を拒むって噂もある。魔物ですら近づかねぇんだ」
風が吹き抜け、森の方向から木々がざわめく。まるで噂を肯定するように。
「俺が知ってる限りじゃ……あそこに入って戻ってきたのは、勇者一行くらいかね」
「勇者が来たのか!いつ頃だ!」
思わず前のめりになる。
「いや、俺が見たわけじゃねえんだ」
男はその勢いに驚きながらも答える。
「そうか……すまない、驚かせた」
肩を落とした俺に、男は少し考えるように顎を掻いた。
「……だが、うちの爺さんなら知ってるかもな。ちょっと待ってろ」
男は畑道を抜け、奥の家へと駆けていった。
リディアがそっと俺を見やる。
「カイルさん……!」
「……兄さんは本当にここを通ったのかもしれない」
胸の奥がざわつき、落ち着いていられなかった。
やがて、男は腰の曲がった老人を伴って戻ってきた。
老人は杖を突きながらこちらを見据え、皺だらけの顔に複雑な色を浮かべている。
「……勇者様の話を聞きたいと?」
低く掠れた声が、やけに重く響いた。
「俺たちは勇者の痕跡を辿っている。もし、覚えていることがあるなら頼む」
俺が身を乗り出すと、老人はしばし目を閉じ、遠い記憶を手繰るように呟いた。
「そうじゃな……あまり詳しくは覚えてないんじゃが……」
老人の声は、まるで古い記憶の底から掘り起こすようにゆっくりと響いた。
「何年も前のことじゃ……勇者一行はこの集落を訪れての。その後、あの森へ入っていったのを、わしはこの目で見たんじゃ」
俺とリディアは息を呑む。
「勇者らが森に入ってからというもの、時折、木々が大きくざわめき、鳥や獣が騒ぐ声が響いてきてのう。嵐でもないのに……まるで森そのものが怒っているようじゃった」
老人の声に、背筋を冷たいものが這い上がる。
「だが、それもしばらくすると収まっての……その後は長いこと音沙汰がなかった。それから……数ヶ月は経ったかのう。忘れかけた頃になって、勇者一行は森から帰ってきたんじゃ」
「数ヶ月も……?」
リディアが目を見開く。
「驚いたのはそこじゃ。長い野営だったはずなのに……彼らは皆、身なりがきれいでな。衣も顔も、泥一つついておらなんだ。まるで森の中で過ごしたのではないようじゃった……」
老人はそこで言葉を切り、深いため息をついた。
「わしには、それがどうにも気味悪く思えての」
「森には賢者が住まうと聞いたが、それについては何か知っているか?」
俺が問いかけると、老人は眉を寄せ、しばし考え込んだ。
「……賢者、か。わしは昔からここに住んでおるが、そのような話は聞いたことがないのう。賢者どころか人が住んでいると聞いたこともないわい」
老人はゆっくりと首を振った。
「そうなのか……町では“大賢者の森”と呼ばれていたが……」
俺が言葉を継ぐと、老人は小さく笑った。
「大賢者の森、か……ふむ、洒落た呼び方になったもんじゃ。わしが子どもの頃は“迷いの森”と呼んでおったよ」
「迷いの森……?」
リディアが息を呑む。
「そうじゃ。入れば方角を見失い、同じ場所をぐるぐる彷徨う。出られぬまま衰弱して命を落とす――そんな噂が絶えなくての。だから誰も近づかなんだ。勇者一行が戻ってこれたのは……あの者らが特別だったからじゃろうな」
老人の目が細くなり、じっと俺とリディアを見据えた。
「お前さんらも行くつもりか?……ならば、覚悟しておくことじゃ」
老人の言葉を受け、背中にゾッと冷たいものが走った。
あの森に一体何があるのか……。
しかし、ここで歩みを止めるわけにはいかない。俺は強く拳を握りしめた。
「行こう……兄さんがここを通ったのなら」
隣でリディアが祈るように目を閉じ、静かに頷いた。
俺たちは出発を明日に決め、一日をその集落で過ごさせてもらうことにした。
せめてもの礼として、俺は畑仕事を、リディアは女たちと料理を手伝った。
平和な村で過ごした昔を思い出し、感傷的な気持ちになる。
――この平和を守り抜くために、俺たちは歩き続けなければならない。
夜には皆の好意で、久々に湯を使わせてもらった。
疲れきった体に温かい湯が染み渡り、思わず目を閉じる。
隣の家では、リディアも湯に浸かっているだろう。
ここ数日の旅で、彼女もきっと疲れているに違いない。
そうして一時の休息を経て、俺たちは賢者の森へと向かう決意を固めた。
――そして翌朝。
久々によく眠れたせいか、目覚めは驚くほど清々しかった。
隣ではリディアがまだ安らかな寝息をたてている。
俺は彼女を起こさぬよう、そっと寝台を抜け出し、外へ出た。
東の空が朱に染まり、ゆっくりと日が昇っていく。
朝の光が集落を金色に包み込み、冷えた空気を少しずつ暖めていく。
俺は大きく伸びをしながら、南――目的地である森の方向へ目を向けた。
(入れば方角を見失い、同じ場所をぐるぐる彷徨う。出られぬまま衰弱して命を落とす――“迷いの森”……)
昨日の老人の言葉が脳裏に蘇る。
朝の肌寒さと重なり、背筋を冷たいものが這い上がった。
その時、不意に背後から声がした。
「……森に入るのか?」
振り返ると、杖を手にした昨日の老人が、こちらをじっと見つめていた。
「はい……もう少ししたら出発します」
俺がそう答えると、老人は深く頷いた。
「そうか……なら、一つだけ忠告しておこう」
老人の声はかすれていたが、その響きは妙に重かった。
「もし――森の中で“声”を聞いても、決して気にしてはならんぞ」
「……声?」
思わず聞き返す。
老人は目を細め、遠く森の方角をじっと睨む。
「わしも詳しくは知らん。だが昔から“声に惑わされれば森から出られぬ”と伝えられておる」
朝の冷気がいっそう鋭く肌を刺すように感じられた。
「覚えておきます……」
俺は老人に頭を下げ、その場をあとにする。
聞けば聞くほど不気味な森に思えて仕方がない。
その後、目覚めたリディアと合流し、集落の皆に別れを告げ、南の森へと向かう。
そうして程なくして、俺たちは噂の森にたどり着いた。
「よし……入るぞ……」
「はい……」
森の入口に足を踏み入れた瞬間、冷たい風が肌を撫でた。
(——兄さんは戻ってこれた……俺にもできるはず……)
不安に心を支配されそうになりながら、自分に言い聞かすように拳を強く握りながら森へと進んだ。
——そうして数時間後。
「カイルさん……」
リディアが不安げにこちらを見る。
「あぁ……」
俺たちは——森の中で、完全に迷っていた。




