表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

第八話 静寂とざわめき

 小さな集落に足を踏み入れた俺たち。

 道端には干した穀物、洗濯物が並び風に揺れている。町とも違う、柔らかな人の気配が漂っていた。


 集落の入口のすぐそばに人影が見えた。


「こんにちは」

 そこで畑仕事をしていた男に声をかける。


「旅の人かい、こんなとこまで珍しいねえ」

 男は額の汗をぬぐい、土に汚れた手で鍬を支えた。


「すまないが、少しここで休ませてほしい」

「なんにもないとこだが、ゆっくりしていくといい」


「ありがとうございます」

 促されるまま手製の椅子に腰を下ろすと、風に乗って土と草の匂いが鼻をくすぐった。町で嗅いだ血や煙の匂いとは違い、懐かしい香りだった。


 リディアはそっと笑みを浮かべる。

「穏やかですね……」

「ここには魔物の襲撃は来ないのか?」

 ふと疑問に思い、問いかける。

「時々、小さいのが来ないことはないが……」

 男は言葉を切り、ちらりと背後を振り返った。


「ここには“あの森”があるからねぇ」

「……森? もしかして賢者の森か?」

「あぁ、そういう呼び方をする人もいるがな」

 男は鍬を地面に突き立て、声を落とした。


「なんというか、不気味な森でね。一度入ったら戻って来れないだの、気が触れるだの——余所者を拒むって噂もある。魔物ですら近づかねぇんだ」

 風が吹き抜け、森の方向から木々がざわめく。まるで噂を肯定するように。


「俺が知ってる限りじゃ……あそこに入って戻ってきたのは、勇者一行くらいかね」

「勇者が来たのか!いつ頃だ!」

 思わず前のめりになる。


「いや、俺が見たわけじゃねえんだ」

 男はその勢いに驚きながらも答える。

「そうか……すまない、驚かせた」

 肩を落とした俺に、男は少し考えるように顎を掻いた。


「……だが、うちの爺さんなら知ってるかもな。ちょっと待ってろ」

 男は畑道を抜け、奥の家へと駆けていった。


 リディアがそっと俺を見やる。

「カイルさん……!」

「……兄さんは本当にここを通ったのかもしれない」

 胸の奥がざわつき、落ち着いていられなかった。


 やがて、男は腰の曲がった老人を伴って戻ってきた。

 老人は杖を突きながらこちらを見据え、皺だらけの顔に複雑な色を浮かべている。


「……勇者様の話を聞きたいと?」


 低く掠れた声が、やけに重く響いた。


「俺たちは勇者の痕跡を辿っている。もし、覚えていることがあるなら頼む」

 俺が身を乗り出すと、老人はしばし目を閉じ、遠い記憶を手繰るように呟いた。


「そうじゃな……あまり詳しくは覚えてないんじゃが……」


 老人の声は、まるで古い記憶の底から掘り起こすようにゆっくりと響いた。


「何年も前のことじゃ……勇者一行はこの集落を訪れての。その後、あの森へ入っていったのを、わしはこの目で見たんじゃ」

 俺とリディアは息を呑む。


「勇者らが森に入ってからというもの、時折、木々が大きくざわめき、鳥や獣が騒ぐ声が響いてきてのう。嵐でもないのに……まるで森そのものが怒っているようじゃった」

 老人の声に、背筋を冷たいものが這い上がる。

「だが、それもしばらくすると収まっての……その後は長いこと音沙汰がなかった。それから……数ヶ月は経ったかのう。忘れかけた頃になって、勇者一行は森から帰ってきたんじゃ」


「数ヶ月も……?」

 リディアが目を見開く。


「驚いたのはそこじゃ。長い野営だったはずなのに……彼らは皆、身なりがきれいでな。衣も顔も、泥一つついておらなんだ。まるで森の中で過ごしたのではないようじゃった……」

 老人はそこで言葉を切り、深いため息をついた。

「わしには、それがどうにも気味悪く思えての」


「森には賢者が住まうと聞いたが、それについては何か知っているか?」

 俺が問いかけると、老人は眉を寄せ、しばし考え込んだ。

「……賢者、か。わしは昔からここに住んでおるが、そのような話は聞いたことがないのう。賢者どころか人が住んでいると聞いたこともないわい」

 老人はゆっくりと首を振った。


「そうなのか……町では“大賢者の森”と呼ばれていたが……」

 俺が言葉を継ぐと、老人は小さく笑った。

「大賢者の森、か……ふむ、洒落た呼び方になったもんじゃ。わしが子どもの頃は“迷いの森”と呼んでおったよ」


「迷いの森……?」

 リディアが息を呑む。


「そうじゃ。入れば方角を見失い、同じ場所をぐるぐる彷徨う。出られぬまま衰弱して命を落とす――そんな噂が絶えなくての。だから誰も近づかなんだ。勇者一行が戻ってこれたのは……あの者らが特別だったからじゃろうな」

 老人の目が細くなり、じっと俺とリディアを見据えた。


「お前さんらも行くつもりか?……ならば、覚悟しておくことじゃ」


 老人の言葉を受け、背中にゾッと冷たいものが走った。

 あの森に一体何があるのか……。

 しかし、ここで歩みを止めるわけにはいかない。俺は強く拳を握りしめた。


「行こう……兄さんがここを通ったのなら」


 隣でリディアが祈るように目を閉じ、静かに頷いた。


 俺たちは出発を明日に決め、一日をその集落で過ごさせてもらうことにした。

 せめてもの礼として、俺は畑仕事を、リディアは女たちと料理を手伝った。

 平和な村で過ごした昔を思い出し、感傷的な気持ちになる。


 ――この平和を守り抜くために、俺たちは歩き続けなければならない。


 夜には皆の好意で、久々に湯を使わせてもらった。

 疲れきった体に温かい湯が染み渡り、思わず目を閉じる。

 隣の家では、リディアも湯に浸かっているだろう。

 ここ数日の旅で、彼女もきっと疲れているに違いない。

 そうして一時の休息を経て、俺たちは賢者の森へと向かう決意を固めた。


 ――そして翌朝。


 久々によく眠れたせいか、目覚めは驚くほど清々しかった。

 隣ではリディアがまだ安らかな寝息をたてている。

 俺は彼女を起こさぬよう、そっと寝台を抜け出し、外へ出た。


 東の空が朱に染まり、ゆっくりと日が昇っていく。

 朝の光が集落を金色に包み込み、冷えた空気を少しずつ暖めていく。

 俺は大きく伸びをしながら、南――目的地である森の方向へ目を向けた。


(入れば方角を見失い、同じ場所をぐるぐる彷徨う。出られぬまま衰弱して命を落とす――“迷いの森”……)


 昨日の老人の言葉が脳裏に蘇る。

 朝の肌寒さと重なり、背筋を冷たいものが這い上がった。

 その時、不意に背後から声がした。


「……森に入るのか?」


 振り返ると、杖を手にした昨日の老人が、こちらをじっと見つめていた。

「はい……もう少ししたら出発します」

 俺がそう答えると、老人は深く頷いた。

「そうか……なら、一つだけ忠告しておこう」

 老人の声はかすれていたが、その響きは妙に重かった。


「もし――森の中で“声”を聞いても、決して気にしてはならんぞ」


「……声?」

 思わず聞き返す。


 老人は目を細め、遠く森の方角をじっと睨む。

「わしも詳しくは知らん。だが昔から“声に惑わされれば森から出られぬ”と伝えられておる」

 朝の冷気がいっそう鋭く肌を刺すように感じられた。


「覚えておきます……」


 俺は老人に頭を下げ、その場をあとにする。

 聞けば聞くほど不気味な森に思えて仕方がない。


 その後、目覚めたリディアと合流し、集落の皆に別れを告げ、南の森へと向かう。

 そうして程なくして、俺たちは噂の森にたどり着いた。


「よし……入るぞ……」

「はい……」


 森の入口に足を踏み入れた瞬間、冷たい風が肌を撫でた。


(——兄さんは戻ってこれた……俺にもできるはず……)


 不安に心を支配されそうになりながら、自分に言い聞かすように拳を強く握りながら森へと進んだ。


 ——そうして数時間後。


「カイルさん……」

 リディアが不安げにこちらを見る。


「あぁ……」


 俺たちは——森の中で、完全に迷っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ