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第七話 勇者の軌跡を追って

 ――そして翌朝。


 朝靄に包まれた町の外れ。

 リディアは白い衣の裾を揺らしながら、墓所に静かに佇んでいた。

 母の名が刻まれた石碑の前に跪き、両手を胸の前で組む。

「……行ってきます、お母様」

 その声は震えていなかった。

 迷いは消え、ただ真っ直ぐな決意だけがそこにあった。


 しばらくの間、俺は少し離れてその姿を見つめていた。

 祈りに込められた彼女の思いが、背中からでも伝わってくるようだった。


「お待たせしました」


 祈りを終えたリディアが立ち上がり、こちらを見つめる。

「本当にいいのか……?」

 俺は思わず問いかけた。

 一度旅立てば、しばらくは戻れない。それどころか、危険は増す一方だ。


「えぇ……もう決めたことです」


 リディアは迷いのない声で答えた。


「……余計なことを言ったかな?」

 苦笑交じりに呟くと、リディアは小さく首を振る。

「いえ……ありがとうございます」

 柔らかく微笑んだその表情には、不思議と力強さが宿っていた。

「よし……それじゃあ出発しよう」

 俺が町の入口へ歩みを進めようとした、その時だった。


「この後は、どちらへ向かうんですか?」

 ふとリディアが問いかける。


 足が止まった。


 そこでようやく気づいた。

 俺は兄を追うと決めて、ただ焦るように村を飛び出した。

 けれど――どこを目指せばいいのか、具体的な当てもない。

 ほとんど故郷の村から出たことのなかった俺は、大陸全土の地理を把握しているわけでもない。

 この町に辿り着けたのだって、偶然にすぎなかった。


「……すまん。何も決まっていないんだ……」


 自分でも情けない答えに、声がかすれた。


「カイルさん……」


 リディアは半眼でじっと俺を見つめ、わずかに肩をすくめる。


「それなら……当てもなく歩き回るより、勇者様が辿ったであろう道を巡るのはどうでしょうか」

「兄さんが……通った道を?」

「はい。その軌跡を追えば、真実に近づけるかもしれません」

 俺はその提案に頷いた。

 確かに、それならば闇雲に進むよりよほど道理がある。

 少しでも情報を得るため、俺たちは町へ戻り、人々から話を聞いて回った。

 行商人、農夫、そして酒場に集まる者たち。

 勇者の名を口にすれば、皆一様に複雑そうな表情を浮かべたが、それでもいくつかの噂や伝聞が集まった。


 しばらく聞き込みを続けていると、一人の老人が興味深い話を口にした。


「勇者が訪れたかは分からんが……ここからずっと南へ行けば大きな森がある。そこに“大賢者”が住んでいると聞いたことがあるぞ」


 大賢者――その名に、俺もリディアも顔を見合わせた。

 ただの噂かもしれない。けれど、その響きは胸を大きく揺さぶる。


「もし本当に賢者様がいるのなら……」


 リディアが小さく息を呑む。


「兄さんの行方についても、何か知っているかもしれない!」

 思わず声が熱を帯びた。

 南の森――そこが、俺たちの次なる目的地となった。

 そうして俺たちは改めて準備を整え、町を後にした。


 道中しばらくは、戦場の跡が続いていた。

 折れた槍や矢が道端に転がり、所々焦げ付いた地面には血の跡が黒く残っている。

 風が吹けば、乾いた土と鉄錆のような匂いが鼻を刺した。

 リディアはその光景に足を止め、倒れ伏した者の名もなき墓標に軽く手を合わせる。

 その仕草は慎ましく、それでいて凛としていた。


 道中、魔物に出くわすこともあったが、あの巨獣に比べればいずれも容易に退けられた。

「ふぅ……戦いにも慣れてきたな……」

 息を吐くと、リディアが鋭い視線を向ける。

「カイルさん、油断は禁物ですよ」

「わ、分かってるさ」

 思わず頭をかいた。彼女の真剣さが、少し可笑しくも心強かった。


 しかし――町を出てから数時間は歩いているのに、戦場の跡にしては魔物の数があまりに少ないように感じた。

 昨日までの激闘を思えば、拍子抜けするほどだ。

(……魔物が出現しやすい条件でもあるのか? それとも、群れを成してどこかに……)

 ふと疑問が浮かび、背筋を冷たい風が撫でた。


 その時、隣からリディアの声がした。

「カイルさん、そろそろ……少し休憩しませんか?」

「そうだな、そろそろお昼時か……どこかで休もうか?」

 歩きながら、俺は辺りをキョロキョロと見回す。戦場の跡が続くこの道では、うかつに腰を下ろすのも危うい。


「あそこの木陰なんてどうですか?」

 リディアが指差した先には、道端から少し離れた場所に一本だけ大きな木が立っていた。

 広く枝を広げ、根元には岩があり、背を預けるにはちょうど良さそうだ。

「いいな。日差しも遮れるし、見通しも悪くない」

 俺は頷き、リディアと一緒に木陰へ向かった。


 足を止めると、張り詰めていた気持ちがふっと緩む。

 鳥の鳴き声はないが、風が葉を揺らす音が心地よく響いていた。

 俺たちは木陰に腰掛け、町で分けてもらった携帯食料と水を分け合った。

 固いパンを噛みしめ、水を流し込む。喉を通った瞬間、乾いた体にじわりと染み渡るのを感じる。


「……はぁ、生き返るな」

 思わず漏れた言葉に、リディアがくすりと笑った。

「やっぱり人は、水と糧があってこそですね」

 彼女もまた、小さくパンをかじり、口元を押さえて咀嚼していた。

 その仕草は控えめで、どこか品を感じさせる。

 戦場を歩いてきたとは思えないほど、穏やかな時間が流れていた。 


 木陰で水を飲みながら、ふと尋ねた。

「……リディアは、ずっとあの町にいたのか?」

「えぇ。魔物の襲撃が増えてからは、ほとんど出たことがありませんでした。外の景色をこうして歩いて眺めるのは、実は久しぶりなんです」

「そうだったのか」

 俺も村を出て間もない身だから、その言葉が妙に胸に沁みた。

 リディアは小さく笑みを浮かべる。

「町の外は怖いことばかりかと思っていたけれど……こうして風に吹かれていると、不思議と心が軽くなりますね」

 俺は頷き、目を細めて空を仰ぐ。

 戦いと荒廃の跡が続く道のりの中でも、穏やかな瞬間はある。


「それにしても、祈りの力ってのはすごいな」

 水を飲み終えた俺は、ぽつりと呟いた。

「急にどうしたんです?」

 リディアが首をかしげる。

「いや、ふと思い出して……あの守りの力に、何度助けられたかって」

 俺は苦笑しながら腹部に手を当てる。あの巨獣の攻撃を思えば、今ここに座っているのが不思議なくらいだ。

 リディアは目を瞬かせ、それから小さく俯いた。

「……大したことではありません。祈りが届いただけですから」

「いや、大したことだ」

 思わず声が強くなる。

「もしあの時リディアがいなかったら、俺は間違いなくここにはいない。あれは……命を救う力だ」

「……そう言っていただけるなら、少しは報われます」

 リディアはしばし沈黙したあと、かすかに頬を赤らめ、視線を逸らした。

「よし、そろそろ向かうか! 暗くなる前にできるだけ進んでおこう」

「はい」

 リディアが頷き、俺たちは再び歩き出した。


 しばらく進むうちに、太陽は西へ傾き、空は茜色から徐々に鈍い闇に染まり始める。

 日が陰ると、周囲は急に心細くなる。

 崩れた石壁や焼け焦げた大地が続いていた道も、次第に様子を変えていった。

 折れ曲がった木々が増え、道端には茂みが広がり始める。

 荒れ果てていた風景の中に、少しずつ「森の気配」が混じり始めていた。

 枝葉の影が道に覆いかぶさり、あたりの死角は増え、奥まで見通せなくなる。

 それだけで、潜んでいるかもしれない何かの気配を錯覚させ、胸の奥に妙な緊張を走らせた。


「……だんだん見えなくなってきましたね」

 リディアが不安げに辺りを見回した。

 風が吹き抜けると、草葉の影で何かが動いたように錯覚する。耳に届くのは草のざわめきと自分たちの足音だけ。

 昼間は耐えられた沈黙も、夜の気配を帯びると重苦しく圧し掛かってくる。

 俺は剣の柄を握り直しながら、空を見上げた。

「……野営できそうな場所を探そう」

 俺たちは辺りを見回す。


 少し進んだ先に、大木があった。その根元は岩に囲まれた浅い窪地になっている。

 崩れた岩が風を防ぎ、焚き火をすれば光も外に漏れにくいだろう。

 まさに野営にうってつけの場所に見えた。

「ここなら……良さそうだな」

 岩場に荷を下ろし、腰を下ろす。

 張り詰めていた緊張が少し解け、ようやく一息つけると思ったその時――。

 頭上から「カサカサ」と乾いた音が響いた。

 見上げると、岩の裂け目や木の枝の隙間に、無数の黒い塊が逆さにぶら下がっている。


「……蝙蝠?」

 そう気づいた瞬間、群れが一斉に羽ばたいた。


 闇を切り裂く羽音が轟き、数十匹もの蝙蝠が乱舞する。

 耳元をかすめる鋭い翼、髪に絡みつく黒い影。

 思わず剣を抜くが、魔物ほどの敵意はなく、群れは混乱したように空を埋め尽くして旋回するだけだった。

「ひっ……!」

 リディアが小さく声を上げ、思わず俺の腕にしがみつく。

「落ち着け、魔物じゃない……普通の蝙蝠だ!」


 しかし、頭上を蠢く蝙蝠の大群に、リディアは完全にパニックに陥っていた。

 必死に腕を振り回し、追い払おうとするが、それがかえって群れを刺激し、羽音と影がさらに濃さを増していく。

「リディア! 落ち着いて!」

「いやあああ――!」


 その刹那。


 リディアの胸元から、夜を裂くように強烈な光がほとばしった。


 闇に潜む蝙蝠の群れが悲鳴を上げ、羽音が乱れる。

 視界は真っ白に染まり、地面が揺れる錯覚さえ覚えるほど。

「うわっ……!」

 思わず目を覆った俺の耳に、ボタボタと何かが落ちるような音が次々と届く。


 しばらくして白く塗り潰されていた視界が、徐々に輪郭を取り戻す。

 地面に散らばる無数の蝙蝠。

 あれほど蠢いていた蝙蝠の群れが、地に落ち、痙攣しながら動きを止めていた。

 そして、その中心で肩を震わせながら立つリディアの姿。


「リディア……今のは……?」

 問いかける俺に、彼女は震える声で答える。

「わ、私にも……分かりません。ただ——」

 彼女は驚きを隠せない表情のまま、胸元から淡く光輝く小さな蒼い石を取り出した。

 暗がりの中でも僅かな光を捉えて輝くそれはまるで夜空に輝く月のようだった。

「それは……ペンダント……?」


「……お母様から譲り受けた物なんです。御守りとしてずっと持ち歩いていて……」


 どうやら先程、視界を奪うほどの閃光を放ったのがそのペンダントらしい。

(ただの御守りにしては……彼女の感情に呼応して力を放ったように見えた。……これは一体?)

「不思議なペンダントだな……まぁいずれにしても助かった……」

 息を呑みながら呟いた。

「いえ……」

 リディアはペンダントを見つめたまま小さく首を振った。


 やがて、地面でばたついていた蝙蝠の群れは、不規則に羽ばたきを取り戻し、夜の闇へ散っていった。

 俺たちは枯れ木を集め、火を起こし、この場で一夜を明かすことにした。


 炎がぱちぱちと音を立てる。


 焚き火の炎が夜の闇を追い払い、ようやく張り詰めていた心が緩む。

 リディアは光を見つめながら、終始何かを考え込むように口を閉ざしていた。

 その横顔は、焚き火の赤に照らされてより儚げに見えた。

 俺たちは交代で見張りをしながら夜を過ごす。

 魔物の気配もなく、静かに朝日が昇り、俺たちは再び南へと歩を進めた。


 それから二日――野営を重ね、幾度か小さな魔物と遭遇したが、大きな被害もなくやり過ごすことができた。

 歩き疲れ、俺が思わずため息をつくと、リディアが水袋を差し出してくれた。

 その気遣いが胸に沁み、再び歩を進める力になる。

 また、草むらに足を取られて転びそうになったリディアを支えたこともあった。

 照れくさそうに礼を言う彼女に、俺は思わず苦笑する。

 しかし、先の見えない長い旅路に足は重くなり、疲労も確実に蓄積していた。

 それでもリディアと二人、互いに支え合いながら前へ進んだ。


 ――そして、三日目の朝。


 歩き続けた先にようやく人の営みの気配が見えた。

 小さな畑と木造の家々。

 そこは十数軒ばかりの、ひっそりとした集落だった。

「……人が住んでる……」

 リディアが胸に手を当て、ほっと息をつく。

 俺も同じ思いだった。

 見慣れぬ土地をさまよい続けた末に見つけた、久しぶりの“人の生活”。

 俺はリディアと顔を見合わせ、その集落へと足を踏み入れた。

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