第四話 祈る者と信じる者
俺は酒場を出て、辺りを見渡す。
まだ遠くには行ってはいないはずだ。
迷うようにしばらく駆け回ると、町の外れにひっそりと墓所が広がっているのが見えた。
苔むした石碑が並び、風に揺れる草の音だけが静かに響いている。
その奥に、朽ちかけた屋根を載せた小さな祠がぽつりと佇んでいた。
祠の前に辿り着くと、僧侶は膝をつき、静かに祈りを捧げていた。
月明かりが石敷きを照らし、白い衣の裾が風に揺れる。
その姿は神聖でありながら、どこか儚げでもあった。
その神聖な雰囲気に圧倒され、俺はしばし迷った末、思わず声を張り上げた。
「あ、あの!」
僧侶が振り返る。
驚きに揺れる瞳が、静かな光を帯びて俺を見つめた。
「さっき……その、酒場で聞いたんだけど……勇者のこと」
僧侶ははっとしたように目を伏せ、すぐに頭を下げた。
「すみません……気分を害しましたか?軽々しく口にすべきことではなかったのかもしれません」
「違うんだ!」
慌てて声を上げる。
胸が熱くなり、喉が詰まる。
「俺は……嬉しかったんだ。勇者を……兄を信じてくれる人が、まだいるって……」
言葉を絞り出すうちに、目頭が熱くなる。
何年も浴びせられた罵声、石を投げられた日々、裏切り者の弟として過ごした孤独が一気に押し寄せた。
「……っ」
声にならない嗚咽を押し殺す俺を見て、僧侶は目を見開いた。
「大丈夫ですか!?」
驚きと心配が入り混じった声。
彼女は慌てて立ち上がり、こちらへと駆け寄った。
僧侶は俺の肩にそっと手を置き、目を閉じて祈りの言葉を紡いだ。
その掌から微かな光が溢れ、体の奥までじんわりと温もりが広がっていく。
胸の奥に溜まっていた疲労や重さが、少しずつ薄らいでいくのを感じた。
「これは……癒やしの奇跡というものか」
思わず息を呑む。
「ありがとう、少し……楽になった」
「いえ、礼には及びません」
僧侶は軽く会釈し、そっとこちらを見上げた。
「あの……聞き間違いでなければ、先ほど“お兄さん”とおっしゃいましたか?」
「あぁ」
俺は短く頷いた。
「勇者は……勇者エルディンは俺の実の兄なんだ」
その言葉に、僧侶は驚いたように目を見開き、口元を手で押さえた。
僧侶はしばし言葉を失い、唇が震える。
「……そんな……まさか……」
その声からは驚愕と戸惑いが感じ取れた。
「勇者様が……あなたのお兄様……?」
「そうだ。だから……俺は、この目で真実を確かめたい」
自分でも気づかぬうちに、握った拳に力がこもる。
長年の孤独と苦悩を経て口にした言葉は、祈りのようでもあった。
僧侶は目を伏せ、小さく震える声で応える。
「私も……信じていたいのです。ですが……」
言葉を濁す彼女の横顔には、確かな迷いが浮かんでいた。
「そう思われるのも仕方ない……」
俺はゆっくりと言葉を継いだ。
「勇者同行の討伐隊がそう告げたのだから。だが――俺は兄さんを信じてる」
静寂の中で、僧侶はただじっとこちらを見ていた。
やがて、気まずさを振り払うように俺は口を開いた。
「そういえば……まだ名乗っていなかったな」
少し照れながらも、胸を張る。
「俺の名はカイル。君は?」
僧侶は小さく瞬きをし、僅かに驚いたように目を丸くした。
けれどすぐに柔らかな笑みを浮かべ、静かに答える。
「……私はリディア。僧職にある者です」
「リディアか。いい名前だね」
俺は息を整えながら微笑む。
「いつもここで祈りを?」
リディアは小さく頷き、視線を祠へと戻した。
「……ええ。ですが……」
そこで言葉を切り、わずかに俯く。
「皆の支えになれるのか、私には分からなくなっているのです。祈りを捧げ続ける意味があるのか……時々、怖くなるんです」
かすかな声。
その瞳には、不安と恐怖が影を落としていた。
「……さっきの癒やしも、本来ならもっと力を取り戻せるはずでした。
けれど、きっと……迷いがあるせいで……以前より祈りが弱くなっているんです」
リディアは自嘲気味に微笑み、肩を落とした。
俺は首を横に振った。
「俺は確かに楽になったんだ。リディアの祈りに救われた。
弱いなんて言わせない。人のために祈れること、それだけで十分立派だよ」
思わず熱を帯びた声になる。
リディアは驚いたように目を瞬かせ、俺を見つめる。
夜風が吹き抜け、祠の灯火が揺れる。
リディアはしばし沈黙したまま、視線を伏せていた。
けれどやがて、かすかな笑みがその表情に浮かぶ。
「……ありがとうございます。そう言っていただけると……救われる気がします」
その声音にはまだ迷いが残っていたが、先ほどよりもわずかに温かさがあった。
俺は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「救われたのは俺の方だよ。兄を信じてくれる人が、この世界にまだいるんだから」
その言葉に、リディアははっとしたようにこちらを見た。
けれどすぐに目を伏せ、祠の前で再び小さく手を組む。
「……私も、信じたいのです。
勇者様が裏切るはずがないと。けれど、どうしてでしょう……祈る心が揺れてしまうのです……」
かすかな声。
その震えには、人としての弱さと、それでも折れずに祈り続けてきた強さが入り混じっていた。
俺はその背を見つめ、拳を固く握った。
「大丈夫だ、リディア。祈りが弱まったなんて、そんなことはない。
俺はリディアの力を、この身で感じたんだ。……あれは間違いなく、本物だ」
言葉を吐き出すたび、胸の奥が熱を帯びていく。
リディアは小さく震える唇を結び、やがて深く頷いた。
「……あなたは不思議な方ですね、カイル」
夜空には、厚い雲の切れ間からわずかに星が瞬いていた。
二人の間に漂っていた重苦しい空気が、少しだけ和らいだように感じられた。
不意に、夜を裂くような悲鳴が町の外れから響いた。
「魔物だ! 魔物が来たぞ!」
俺とリディアは顔を見合わせた。
その直後、瓦礫を蹴散らしながら、鼠の魔物が一斉に押し寄せてくるのが見えた。
赤い目が無数に光り、地面を這うように迫ってくる。
「リディア! 町の人たちを避難させろ!」
「カイルさんは……?」
「俺は自警団と一緒に戦う。急げ!」
リディアが頷き、人々の元へ駆け出すのを見届けると、俺は剣を抜き放ち、町の中心へ走った。
すでに自警団の男たちが武器を手に奮闘していた。
「すまん!助かる!」
「囲まれるな、数を減らせ!」
怒号と悲鳴が入り混じり、鉄と肉のぶつかる音が夜空に響く。
俺も列に加わり、盾で爪を受け、剣で牙を払った。
黒い血が飛び散り、鼠の魔物たちが次々と地に伏していく。
「くそっ!数が多いな!」
「向こうで一人やられた!」
「牙に注意しろ!毒があるぞ!」
かなり数は多い。だが、互いに声を掛け合い、盾を並べて戦えば、致命的な被害は防げた。
「押せ! 今だ!」
「負けるな!」
必死の戦いの中、少ない犠牲で討伐は進んでいった。
——その時だった。
一斉に、鼠たちの動きが止まった。
爪や牙で攻撃の体制をとっていた魔物も飛び退くように後ずさりする。
「な、なんだ……?」
「なぜ止まった……?」
「今がチャンスだ!やれ!」
原因は分からないが今が好機と思われた瞬間、地鳴りのような唸り声が夜を震わせた。
戸惑いが広がる中、ざわりと空気が揺れた。
黒煙の向こうから、巨大な影が歩み出てくる。
現れたのは――以前、俺が命を賭して剣を振るった、あの巨大な獣の魔物。
赤黒い舌を垂らし、濁った瞳でこちらを睨む。
頭部には矢の破片が刺さったままだ。
同じ個体のようだ。
その魔物は鼠たちを蹴散らしながらこちらに近づいてくる。
自警団の男たちが一斉に息を呑んだ。
「な、なんだ……あの化け物は……」
「馬鹿な……まだこんな奴が……!」
「……また、お前か」
喉が焼けるほど乾く。
自警団の男たちは青ざめ、じりじりと後退していく。
盾を構えていた手が震え、刃を握る指先から力が抜けていくのが見えた。
誰もが恐怖に縫いつけられ、動けなくなっていた。
……分かる。俺だって同じだ。
膝は笑い、汗は止まらない。
喉は渇き、今すぐ背を向けて逃げ出したい。
だが――逃げるわけにはいかない。
兄を信じると口にしたばかりだ。
なら、ここで怯えて退くことは、それを裏切ることになる。
俺は大きく息を吸い込み、盾を正面に構えた。
「下がるな! 俺が前に出る!」
自警団の男たちが驚いたように俺を見た。
だが視線を返す余裕もなく、ただ一歩、巨獣へと踏み出した。
巨獣は濁った唸りを上げながら地を蹴った。
重い衝撃が地面を震わせ、次の瞬間には爪が俺の眼前に迫る。
盾を突き出す――衝撃。
「ぐっ……!」
骨まで響く重さに膝が砕けそうになるが、踏みとどまる。
返す刃で横薙ぎに斬りつけるも、分厚い毛皮と筋肉に阻まれ、浅い傷しか与えられない。
「まだ足りないか……!」
巨獣は吠え、口から生臭い熱風を吐き出した。
牙が閃き、盾を噛み砕かんと食らいついてくる。
腕が痺れ、全身から汗が噴き出す。
弾くように勢いよく盾を押し返し、後ろに飛び退いて体勢を整える。
このままでは以前と同じだ。
何か対抗策を見つけなければならない。
だが考える暇もなく、巨獣の攻撃は絶え間なく続く。
守りに徹するのが精一杯で、盾もいつまで持つか分からない。
俺の体力にも、すでに限界が近づいていた。
その時、自警団の一人――中年の男が横に躍り出て、剣を構えた。
「若造がかっこつけやがって……ここは俺たちの町だ。俺たちが守らなくてどうする!」
それは仲間に向けてというより、自らを奮い立たせる叫びだった。
手足は震え、顔色も蒼白だ。
それでも、その目には確かな覚悟が宿っていた。
「おおおおっ!」
中年の男が叫び声を上げ、剣を振りかざして巨獣に斬りかかる。
刃は肩口を浅く裂き、黒い血が飛び散った。
だが次の瞬間、巨獣の前足が横薙ぎに振るわれた。
「ぐあっ――!」
男の体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。呻き声が響く。
「おい! 大丈夫か!」
仲間たちが駆け寄ろうとするが、巨獣はさらに唸り声を上げて迫る。
――俺が止めなければ、全員がやられる。
胸の奥で鐘を打ち鳴らすような音が響く。
「……ここだ!」
狙うは頭部。矢の破片が残る古傷。
俺は踏み込み、全身の力を剣に込めて振り下ろそうとした。
だが――。
背中の突起がぶるりと震え、次の刹那、無数の棘が空へと弾け飛んだ。
「――っ!?」
「嘘だろ!まさか……こんな攻撃まで!」
剣を咄嗟に防御へと切り替えるが、受けられるのはほんの数発。
残りは避けられない――。
一瞬の出来事が永遠のように引き延ばされる。
さすがにここまでか、と胸の奥で冷たい声が囁いた、その時――。
「――守護の聖壁……!」




