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勇者の消えた世界で  作者: 紫京アイラ


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第二十九話 湯煙の中の影

 俺たちはエルノアの後ろに並ぶように、広い屋敷の中を歩いた。

 どうやら来た道を戻るように歩いたみたいで、屋敷の入口を経由して最初に案内された部屋の前を通った。

 そしてそこから扉を二つほど挟んだ廊下の角の部屋の前で、エルノアは足を止めた。


「この二部屋は自由に使ってくれて構わないよ」

 エルノアは目の前の部屋と一つ奥の部屋を順番に指さした。

 俺たちは特に話し合いもないまま自然と、手前の部屋を俺が、奥の部屋はリディアとセラが使うことに決まった。

 続けてエルノアは廊下の奥を指さし、指先で道筋を描くように空をなぞった。

「その角を曲がってまっすぐ行った先の左手に風呂もあるからね」

 笑顔が隠せない二人の様子を見て、彼はふふっと小さく笑った。

「それじゃあ、私はこれで。また朝会おう」

 彼はそう言うと、来た道をゆっくり戻って行った。

「あぁ、ありがとう。おやすみ」

 背中に送った俺の言葉にエルノアは、こちらを振り向かぬまま手を振った。

 

 エルノアの姿を見送ったあと、俺たちはそれぞれ部屋に入った。

 部屋は以前入った部屋と同じくらいの広さだった。

 隅には一人で使うには大きすぎるくらいの寝台と収納、姿見や小さな机など、寝泊まりするには十分なほどの設備が揃えられていた。

 寝台の傍に剣を立てかけ、寝台に被せられた布団に手を触れてみる。

 手が吸い込まれるような柔らかさに驚くと同時に、こんな柔らかい布団に包まれて寝るのはどんなに心地よいものかと期待に胸が弾んだ。

 胴当てや手甲を外すと、ふっと肩の荷が降りたかのように体が軽く感じられた。

 ぐっと体を伸ばし、大きく息を吸い込む。温かい部屋の空気が心を優しく撫でるようだった。

 

 しばらくして俺は部屋の外へ。エルノアが指さした奥へ足を向かわせる。

 隣の部屋の前へ差し掛かると、扉の向こうから二人の楽しげな声が響いていた。

 俺はその声を背に受けながら、角を曲がった。

 

 エルノアの案内通りに進むと、通路に風呂と思わしき模様のあしらわれた布が掛けられていた。

 布をかき分けると、その先には扉が二つ並んでいた。

 扉の文字を確認し、そのまま押し開けると、奥には小さな部屋があった。

 そこにはいくつかの棚や籠と、体を拭くための布が用意されていた。

 そして更に、その奥にはもう一つ扉が見えた。

 なるほど。ここで衣服を脱いで風呂に入るようだ。

 慣れない空間に戸惑いながらも、準備を整え奥の扉へ手をかけた。

 

 扉を開けるとむわっとした熱気が全身を襲った。

 正面には大きな浴槽。

 その端ではまるでお湯が小さい滝のように、絶えず注ぎ込まれていた。

 

 湯気の立ち上る浴槽に恐る恐る足先をつける。

 熱すぎず、かといってぬるくもない。

 足先が感じるその心地よい温度に流されるように、全身を湯に浸した。

 

 思わず大きく息を吐いた。

 息を吸い込むと熱気が鼻から体内に侵入し、内へと暖かさを届ける。

 温かなお湯が全身に染み渡り、身体を芯から温めていく。

 身体の疲れと共に心まで軽くなるような安心感がそこにはあった。

 

 手足を大きく広げても有り余るほどの立派な風呂だ。

 まったく、この屋敷に来てからは驚かされてばっかりだ。

 ふと今日の出来事を頭の中で思い返した。

 

 まさかエルノアが街の権力者だったなんてな……

 道中で出会ったときにはただの優しい青年だった。

 ベルナルトさんを従えるエルノアの瞳は強い力を帯びていた。

 人は見かけによらないな……

 

 街も広くて楽しかった。

 まだまだ見たことのないものがありそうで心が踊る。

 また、明日三人で巡ってみよう。

 ふふっと頬が緩んだ。

 

 しかし、街の様子を頭に浮かべた時、思い出したくないものまで記憶から呼び戻してしまった。

 街の外れで手入れもされず、朽ち果てる寸前の兄の痕跡。

 ボロっと崩れた瞬間の光景が頭をよぎる。

 

 あぁ、なんで今思い出すかな……

 せっかく心地よい時間だったのに……

 

 もやついた感情が心の中に充満し始める。

 熱くなった頭を湯に沈める。

 しばらく息を殺していると、呼吸が苦しくなり慌てて飛び出した。

 荒くなった呼吸を落ち着けるように、深く空気を吸うたび、ざわついていた心も少しずつ平穏を取り戻した気がした。

 

 そんな時、不意に壁の向こうから何か声が聞こえた気がした。

 やがて声は大きくなり、はっきりと聞こえるようになった。

 

「すごーい! おっきいお風呂だねぇ」

「セラさん、走ると危ないですよ!」

 リディアとセラの声。

 どうやら二人も遅れてやってきたようだ。

 

「うわぁ!」

「落ち着いてください……」

 きっとセラが転びそうになったんだろう。

 見えなくても容易に想像できた。

 

「セラ、気をつけろよ!」

 壁越しに声を張り上げる。

 その声は、自分でも驚くほど大きく響き渡った。

 

「はぁい!」

 俺の声だと気づくまで少し間を置いたように、壁越しに間の抜けた声が返ってきた。

 ほんとにわかってるのか……

 

 その後も壁越しに聞こえる楽しげな声を聞きながら、ゆっくりとした時間が過ぎていった。

 

 しばらく湯を堪能したあと、壁の向こうに声をかけ風呂をあとにした。

 風呂の手前の小部屋で体を拭き、服を着る。

 濡れた布をどうすべきかしばらく考えたあと、近くの籠に入れておくことにした。

 風呂を出たにもかかわらず身体の奥まで暖かく、部屋に戻る足取りは行きよりも遥かに軽く感じた。

 

 部屋につき寝台に座り込むと、寝具が優しく身体を包み込んだ。

 まるで雲の上にいるかのような浮き上がる心地に、俺はいつの間にか身体を預けていた。

 視界が遠のいていく。

 あっという間に意識は深く沈み込んでいった。


              ◇

 

 気がつくと、俺は故郷の村にいた。

 慣れ親しんだ村で以前と変わらず過ごしていた。

 そこには兄さんの姿もあった。

 それは幼い頃の姿ではなく、成長した大人の姿。

 しばらく会っていないはずなのに、すぐ兄さんだと分かった。

 

 兄さんは昔のように、笑顔で村の皆と会話を交わしていた。

 ありふれた日常が戻って来たみたいで嬉しくなる。

 俺は成長した自分を兄さんに見て欲しくて、駆け足で近づこうとする。

 しかし、どれだけ足を動かしても、兄さんには少しも届かない。

 肺がひしゃげそうになるほど必死に走り、手を伸ばす。

 けれども、近づくどころか、その距離はどんどん遠く離れていく。

 

 息が切れ、苦しくて俯いた時——

 頭上で雷雲が轟いた。

 みるみるうちに暗雲が立ち込め辺りを闇が覆う。

 

 闇が兄さんの姿を呑み込み、視界から消えようとした、その瞬間——

 大きな雷が一瞬闇を払った。

 光に照らされる兄さんは、闇を象徴するかのような漆黒の鎧を身に纏い、粘ついた笑みをこぼした。

 不自然な光景に背筋が震える。

 そして、次に光が闇を裂いたとき、俺の視界に入ったのは——

 

 地面に広がる、かろうじて人の姿を留めた、血に塗れた村の皆の悲惨な姿だった。

 

「うわぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 叫び声と共に世界は移り変わり、柔らかな寝具の上で意識が切り替わる。

 辺りには皆の姿はなく、故郷の村でもない。

 静かな部屋の中で自分の荒い呼吸と鼓動が、やけに大きく響いていた。

 

「夢、か……」

 

 大きく息を吐く。

 汗に塗れた身体が冷たくて肩が震えた。

 嫌に現実的で不快な夢だった……

 

 しばらくは夢の内容が気になり、寝付くことができなかった。

 闇を纏う兄さんの姿。

 噂が本当だとしたら……どうしていいか分からなかった。

 思考から目を背けるように寝具の中に潜り込むと、心地の良い暖かさが再び意識を遠くへと追いやっていった。


              ◇

 

 ゴンゴンと何かを叩くような音がする。

 その耳障りな音を無視するように耳を塞いだ。

 しかしその音はだんだん激しく大きくなっていく。

 なんだよ、うるさいな……


 しつこく繰り返される音に、さすがに無視できなくなった。

 音へ向かって対抗するように声を張り上げようとした途端——

 意識が現実に引き戻された。

 どうやら寝ぼけていたらしい……

 

 音の正体は、誰かが扉を叩く音のようだった。

 俺は乱れた髪を手で押さえながら、ゆっくり扉を開いた。

 

 扉の向こうにはエルノアの姿があった。

「おはよう、よく眠れたかい?」

 朝食の準備ができているようで、わざわざ起こしに来てくれたようだ。

 リディアとセラは一足先に向かったとのことだった。

 俺は軽く身なりを整えて二人の待つ場所まで向かった。

 

 そして朝食を済ませ、いったん部屋に戻り装備を整えたあと屋敷の外へ。

 程なくして、同じく装備を整えた二人も合流した。今日は改めて街の探索と、兄の痕跡を探す。 そう朝食の際に話し合った。

 あの“石碑”の話は二人にはまだ伏せたままだ。

 他に何か——この街にはきっと何かある。

 真実を確かめるため、目を背けるわけにはいかなかった。

 

「でもなかなかに大変だよねぇ……」

 声の方へ目をやると、セラが首を傾げていた。

「どうした?」

「いや、だってねぇ……勇者の話が禁忌の街で、どうやって情報を集めるの?」

「確かに、そうですよね。聞き込みするわけにもいかないですし……」

 確かにその通りだ。

 あんな石碑のように物理的な痕跡がある方が珍しい。

「俺が勇者の弟だと知れたら大変なことになりそうだな……」

 そんな皮肉交じりの笑いが漏れた時だった——

 

「勇者の弟だと……」

 背後から声が聞こえ、慌てて振り向く。

 すると通りの影に、昨日アーネスト家で騒ぎを起こした、ガルドと呼ばれていた男が立っていた。

 

「その話、詳しく聞かせてもらおうか」

 彼の鋭い眼光がこちらを捉えて離さなかった。

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