第二話 初陣
村を出た俺は、とにかく前に進んだ。
しばらくは平坦な野原が続き、風に揺れる草の音だけが耳に届く。
少し歩けば、なだらかな丘がゆるやかに連なり、その向こうに大きな山脈の影がぼんやりと見える。
世の中は魔物に溢れていると聞いていた。けれどここまで、動物の一匹すら見かけない。
あれほど覚悟して旅立ったというのに、拍子抜けした自分がいた。
「なんだ、案外大したことないんじゃないか……」
そんな安堵に似た気持ちさえ胸をよぎった。
――だが、丘のてっぺんに辿り着いたとき。
目の前に広がる光景に、俺は息を呑んだ。
草木は焼け焦げ、土は黒ずみ、あたりには煙のような臭いが漂っている。
そして点々と転がるのは、人間や動物だったはずのもの。
皮膚は焼け爛れ、衣服は裂け、動かぬまま大地に投げ出されていた。
村で見た穏やかな日常とはあまりにかけ離れた光景。
俺はこのとき、ようやく気づいた。
――今までの考えは、甘かったのだと。
風向きが変わると、とたんに鼻を突くような匂いが広がった。
血と腐敗が混じり合った、死臭――思わず顔を歪め、吐き気がこみ上げる。
「……っ」
慌てて口と鼻を押さえたそのとき、耳の奥にかすかな声が届いた気がした。
風に流されるようにして消えかける、助けを求めるような微かな響き。
俺は息を呑み、あたりを見渡した。
少し遠いが、黒煙の向こうに人影のようなものが揺れて見えた。生きている人間か、それとも……。
恐怖心や畏れは確かにあった。足は震え、胸は早鐘のように打ち鳴らす。
だが、不思議と体は止まらなかった。
自然と、足は前へ。
次の瞬間にはもう、声のした方へと駆け出していた。
必死に丘を駆け下りていく。
近づくにつれ、その人影がはっきりと見えた。――生きている。
衣服は裂け、体は傷だらけだったが、確かに人間の声を発している。
だが、その前方に立ちはだかるものを見て、俺は足を止めた。
……生物。
いや、俺の知るどんな動物とも違っていた。
四足でありながら、背中には無数の突起が生えている。
一見すれば狼や獅子を思わせる輪郭だが、まとわりつく禍々しい気配がその連想を嘲笑うように否定する。
赤黒い舌を垂らし、濁った瞳は目の前の人影に釘付けになっていた。
唸るたび、獣とも人ともつかぬ声が低く響き、血の臭いが鼻を突く。
これが――魔物。
噂や絵巻でしか知らなかった存在が、今まさに目の前にいる。
手にした剣を握り直す。だが汗で柄は滑り、震えが止まらない。呼吸は浅く、喉が焼けるように渇く。
足は前へ進めと訴えるのに、心は全力で逃げろと叫んでいた。
「……たすけ……」
倒れ伏す人影がかすかに声を漏らす。
その一言が胸を突き刺した。
助けたい――頭では分かっているのに、足は地面に縫いつけられたように動かない。
目の前にいるのは魔物。噂でしか知らなかったものが、牙を剥き、涎を垂らしている。
怖い。全身が震え、視界が揺れる。
逃げたい。
心臓が耳を打ち、息が乱れて喉が焼ける。
――でも。
もし俺がここで目を逸らせば、この人は確実に死ぬ。
そして俺は、一生、自分を許せなくなる。
「……行くしかない」
かすれた声で呟く。
それは誰に向けたものでもない。ただ、自分自身に叩きつける言葉だった。
次の瞬間、足は勝手に前へ踏み出していた。
「大丈夫か!」
俺は声を張り上げ、倒れ伏す男に駆け寄った。胸元は深く抉られ、腕は幾筋もの切り傷で血に染まっている。
息は浅く、意識はもうろうとしているが、俺の声に男は一瞬だけ目を見開いた。
安堵のような表情がふっと浮かび、そのまま力尽きるように顔を伏せた。
――その瞬間、魔物がこちらを振り返った。
さっきまで男に向いていた殺気が、刹那に一直線に俺に向けられる。
濁った瞳がぎらつき、喉の奥で低い唸りがさらに深く響いた。血と腐敗の臭いが鼻を突き、胃がひっくり返りそうになる。
やらなければ、やられる。
咄嗟に剣を構え、足を踏み固める。心臓は耳を打ち、全身の震えを抑え込むように息を整えた。
魔物が地を蹴った瞬間、視界がぶれるほど速い。
唸り声とともに爪が振り下ろされ、俺は咄嗟に盾を前へ突き出した。
「ぐっ――!」
衝撃は凄まじかった。骨まで響く重圧が盾越しに腕を砕こうとし、思わず後ろへと飛び退く。
それでも速さは俺の想像を超えていて、盾の縁から肩口まで衝撃が貫き、身体がよろめいた。
だが、倒れてなるものか――!
地面を蹴りしめ、よろけを踏ん張りに変える。
その勢いを逆に利用し、振り払うように剣を横薙ぎに振りかざした。
金属の擦れるような音と共に、刃先が確かに魔物の体毛を裂いた感触が伝わる。
黒い血が飛沫のように散り、獣とも人ともつかぬ声が喉から噴き出した。
しかし――手応えは確かにあったはずなのに、傷は浅かった。
黒い血を散らした魔物は怯むどころか、さらに獰猛な光を瞳に宿してこちらを睨みつける。
「嘘だろ……」
喉から声が漏れる。
わずかな反撃で勝てると錯覚しかけた心を、冷たい現実が踏みにじった。
魔物は唸りを高め、地を蹴ってこちらに向き直る。裂けた皮膚から黒い液が滴り落ちても、その巨体は揺るぎない。
むしろ怒りを燃料にしたかのように筋肉が膨張し、背中の突起がぶるりと震えた。
盾を構えるのが一瞬遅れた。
視界いっぱいに広がるのは、振り下ろされる爪。
鋭い閃きが目の前に迫り、胸の奥で「終わった」と冷たい声が響いた。
――まずい、このままでは。
その瞬間。
「ッ……!?」
眩い閃光が空を裂き、魔物の頭部を正確に貫いた。衝撃に巨体が横へ弾かれ、地面に深い爪痕を刻む。
耳に届いたのは乾いた破裂音。頭部には矢が突き立っている。
魔物は怒り狂ったように唸り声を上げ、矢の飛んできた方向へ濁った瞳を向けた。
次の瞬間、警戒するように身を翻し、黒煙の向こうへと後退していく。
残されたのは、俺と、倒れ伏した男だけ。
胸を締め付けていた恐怖が一気にほどけ、膝が勝手に震えた。
「……助かった、のか……?」
「――間に合ったな」
低く落ち着いた声が背後から響いた。振り返ると、矢を放ったであろう男がこちらに歩み寄ってくる。
肩に背負った弓、無駄のない動き、そして血の臭いにも動じない眼差し。場数を踏んだ者の雰囲気が漂っていた。
どうやら、この場に倒れていた男は彼の仲間だったらしい。助けを呼ぶ声に気づき、駆けつけたのだろう。
「しっかりしろ、もう大丈夫だ」
弓の男は仲間に駆け寄り、手際よく止血の布を巻いていく。倒れていた男の呼吸は荒いが、かすかに安堵の色が浮かんだ。
俺は、その様子をただ見ていることしかできなかった。
剣を握って立ってはいたが、結局何もできなかった――救えたのは、この男が来てくれたからだ。
無事に男は救助され、そして俺も生き残れた。
「……兄さんは、ずっと……こんなのと戦っていたのか」
魔物の残した黒い血の匂いが鼻を刺す。その異様な姿と、迫りくる殺気を思い返すだけで、膝が震えた。
さっきの一瞬でさえ死を覚悟したのに、兄はこれを相手に何度も、何度も立ち向かっていたのか。
胸の奥に熱いものと、冷たいものが同時に広がる。
尊敬と誇り、そして痛いほどの劣等感。
「……俺なんかが、本当に追いつけるのか」
不安で仕方がなかった。
胸の奥はまだ早鐘のように打ち、握っていた手は汗でじっとりと濡れている。盾越しに受けた衝撃で腕はじんじんと痺れ、指先に力が入らない。
――それでも、立ち止まってはいられない。
俺はその痺れる腕を抱え込み、ひとつ息を吐いて前を向いた。
足取りは重く、膝はまだ震えている。震える足でも、前に進むしかない。
兄が歩んできた道を、俺も確かめるために。




