第二十七話 一時の安らぎ
「エルノア様、客人がおられるなら一言おっしゃってください」
ベルナルトと名乗った老人は片眼鏡に手を添え、小さく息を吐いた。
「部屋につくなり、すぐ眠ってしまったみたいでね、悪かったよ……」
「それより、お戻りになられたら一言お声掛けください。途中ではぐれたと聞かされて、大変心配したのですよ」
「だから、悪かったって……」
先程まで威厳に満ちていたエルノアの瞳が、まるで粗相を咎められている少年のような色に変わる。
ベルナルトさんの圧力にジリジリと追い詰められ、すっかり背筋が丸くなってしまっていた。
「あ、あの……」
二人の空気に圧倒され、言葉が詰まった。
控えめに手を上げ、エルノアに目配せする。
俺に気づいたエルノアは目を大きく見開き、満面の笑みを見せた。
「こんなところで立ち話もなんだし、とりあえず中へ、さあ!」
彼は未だに小言を続けるベルナルトを押しのけ、視線を避けるかのように俺たちの後ろへ回り込んだ。
「お、おい……」
「さあ、遠慮せず! ほら君たちも!」
ぐっと俺の背を押し、入口まで押しやる。
「エルノア様! まだ話は終わっていませんよ!」
ベルナルトさんの声を置き去りに、その勢いのまま門をくぐると、屋敷の入口に続く庭園が顔を見せた。
「広いお庭ですね……」
「あっちには池もあるよ!」
後ろから二人の楽しげな声が聞こえてきたが、俺は周りを見る余裕もないまま屋敷の中へ押し込まれた。
後ろでバタンと扉が閉まる音がする。
「すまない……彼がああなると長くてね」
エルノアはふうと息を吐き、額の汗を拭った。
「いや、かまわないが……リディアとセラは?」
「ベルナルトが付いているはずだから心配ないよ。彼は優秀だからね」
扉の奥を見つめる彼の瞳は温かな光を帯びていた。
「それにしても驚いた……。ここ、本当にエルノアの家なのか?」
エルノアの歩みに続き、広い廊下を歩く。
屋敷の中は無駄を削ぎ落としたかのように洗練され、所々に施された装飾を際立たせていた。
思わずキョロキョロと辺りを見回してしまう。
「驚かそうとしたわけじゃないんだ。ただ本当のことを話すと、きっと君たちが遠慮するんじゃないか、と思ってね。みんな普通に接してくれればいいのにね……」
彼はそう言って小さく笑った。
確かに彼の言う通りかもしれない。もし最初に身分を明かされていたら、図々しく街まで送ってもらうなんてしていない。
ましてや、その途中で爆睡するなんて……あり得ない。
エルノアを前にした街の人々の様子を思い出し、改めて自分の行いを後悔した。
けれど、エルノアの笑顔を見ていると、今まで通り接することが正解だと無意識に感じる自分がいた。
やがて、廊下の中ほどでエルノアの足が止まる。
「しばらくここでゆっくりしていってくれ」
彼はそう言って、扉のノブに手を掛ける。
押し開かれた扉の奥にはいくつかの椅子と大きな机。
壁際の棚には数々の調度品が飾られ、天井には煌びやかな照明がぶら下がっている。鼻先をくすぐる香りは品が良く、空気そのものまで整えられているようだ。屋敷の大きさから考えると、決して大きい部屋ではなかったが、十分すぎる空間だった。
エルノアに促されるままに奥の椅子に腰掛ける。
「うおぉ……」
布地が大きく沈み込み俺の体を包み込む。
俺の反応を見て、エルノアは優しい目で微笑んだ。
「今、飲み物でも持ってこさせるよ」
彼はそう言って部屋の外へ出ていった。
扉が閉まると、急に広い空間に取り残されたような気がして落ち着かない。思わず視線があちこちへ泳ぐ。
視界に映るものはどれも、田舎育ちの俺にとっては見覚えのないものばかりだった。
物の価値はまったく分からないが、どれも高価そうだ……
万が一があってはいけない、できるだけ触れないようにと心に刻んだ。
そうしてしばらく座っていると、部屋の扉が開いた。
「すみません、遅くなりました」
「おまたせ~」
扉の向こうには、小さく頭を下げるリディアとひらひらと手を振るセラ。
その隣にはベルナルトさんの姿も見えた。
彼は二人に「ここでお待ち下さい」と一言告げると扉の奥へ姿を消した。
「どこ行ってたんだ?」
「ちょっと庭の散歩にね」
「お花がいっぱいで綺麗でしたよ!」
俺の問いに答えながら、二人は椅子に腰を下ろす。その瞬間、二人とも小さく目を見開いた。
どうやら俺と同じ様に、この椅子の柔らかさに驚いたらしい。
思わず、あの時のエルノアのように、俺もくすっと笑ってしまった。
笑い声も消えぬうちに、再び扉が音を立てた。
「……失礼いたします」
声の主は若い女性。白と黒を基調とした清潔感のある服装だが、胸元やスカートの裾にあしらわれたフリルが可憐さを演出している。
カートを押し歩く彼女の歩みに合わせて、後ろに束ねた髪がリズムよく揺れた。
彼女は俺たちの前で足を止めると、カートに乗せられたカップを手際よく机に並べる。そして、透き通った淡い茶色の液体を、ポットからゆっくり注いだ。
「お口に合うといいですけど……」
三人分の用意が終わると、彼女は囁くようにそう告げた。
カップに手を伸ばし取手に指をかけると、微かに手が震えた。
扱い慣れていないということもあるが、力加減が分からず、思わず持つ手を左に持ち替えた。
口元まで運ぶと、ふわっと華やかな香りが鼻を抜け、口に含むと温かな優しさが口内を満たした。
俺たちは自然に顔を見合わせ、思わず笑みがこぼれた。
「よかったぁ……」
カートの傍で佇んでいた女性が独り言のように呟く。そして、カートの下から皿を取り出した。
「このあと、お食事がありますので、あまりたくさんはお出しできませんが……」
彼女が差し出した皿の上には小さな菓子が乗っかっている。表面は焼目が付き、しっかりとしている。
手に取り、口に運ぶと中はしっとりとしていて、バターの風味が口中に広がった。
その風味を残すまま、飲み物を口にするとまた味わいが変わる。
今まで味わったことのない味覚に心が弾む。
「美味しいですね」
「ほんとね……」
二人も静かにその焼き菓子を堪能しているようだった。
穏やかな時間が過ぎていく。
時間の感覚も遠ざかり始めた――その時。
部屋の外で言い争うような声が響いた。
その声はだんだん大きくなり、いくつもの足音が屋敷中に響き渡る。
屋敷に似つかぬ異様な雰囲気を感じ、俺は椅子を蹴るように立ち上がった。
勢いよく扉を開け、廊下へ飛び出す。
すぐ後ろで、リディアとセラの足音と声が重なる。
屋敷の使用人たちをかき分けるように声のする方へ駆ける。
たどり着いた先は、屋敷の入口。
そこにはベルナルトさんと、もう一人——
人の丈ほどある大剣を背負った男が、大声で怒鳴り散らしていた。




