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勇者の消えた世界で  作者: 紫京アイラ


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第二十三話 迫りくる闇

「いやぁ、快適だねぇ」

 小刻みに揺れる荷台の床に寝そべるセラ。

 まったく……お前は遠慮というものを知らないのか。

 しかし、思ったほど大きく揺れることもなく、セラの言う通り快適だ。

 ブランは軽快に地を蹴り、車輪が転がる、小さく軋む荷台から香る木の匂いが不思議と心を落ち着かせる。

 

「……エルノアさん、だったな。街はここから遠いのか?」

「エルノアでいいよ。そうだね……早ければ丸一日くらいかな」

 彼は慣れた様子で手綱を握る。


 彼の言葉を聞いて、胸の奥で小さく息を吐いた。

 ……本当に助かった。

 馬に引かれても丸一日かかる距離を徒歩だったなら、どれだけかかったか……

 そう考えると、エルノアとブランには感謝しかなかった。

 

「エルノアさんは、商人さんなんですか?」

 セラと異なり、隅のほうで小さく座り込んだリディアが問いかけた。

「私は、街の物資の出入りを管理する仕事をしていてね。まぁ、安全な往来ってやつを守るのが私の役目なんだ」

 隣街へ買付けに出た帰りに、今回の“事故”が起きたとのことだった。

 それにしても酷い話だ。荷物だけ持って置き去りだなんて。

「物資がちゃんと届くことが大事だからね」

 軽い口調で話す彼の笑みには、どこか諦めのような色が見えた気がした。

 それがまるで、いつも同じ扱いを受けているようで……胸がじわりと傷んだ。

 

 少しの沈黙が気まずく、俺は焦るように目的地である“街”について尋ねた。

 エルノアは落ち着いた表情で、街の様子を語ってくれた。

 街には周辺から人が移り住み、賑わいを見せている反面、些細な争いが増えるなど、苦労することも多くなったとのことだ。

 そこに拍車をかけるように、魔物の襲撃が相次ぎ、街の戦士たちもひっきりなしに戦いに明け暮れているようだった。

 

「ちなみに、勇者について聞きたいんだが……」

 そう俺が呟くと、エルノアの笑みがすっと消えた。

 

「街では勇者の話はしないほうがいい」

 

 今までとは違う彼の雰囲気に、言葉が喉に詰まる。

「街では勇者のことを良く思わない人たちが多いからね」

 彼の言葉が胸に刺さり、呼吸が浅くなる。

 記憶の底で眠っていた感情が目を覚まし、早くなった鼓動が胸を叩きつける。

「分かった。気をつけるよ……」

 落ち着かない気持ちの中で、そう告げることしかできなかった。

 

 静かな空気が辺りを包んだ。

 しかし突如として、その空気を切り裂くように、馬車がガタンと大きく揺れた。

 さっきまで落ち着いた足取りだったブランの歩幅が、少しずつ大きく、早くなっていく。

「くっ……どうした、ブラン!」

 エルノアは必死に手綱を引くが、ブランは激しく地を蹴り、暴れるように走る。

 あんなに大人しかったブランがどうして……?

 

「ねぇ見て! 空の様子が変だよ!」

 いつの間にか起き上がったセラが、荷台の後方に開けられた小さな開口から外を覗いている。

 慌てて外を見やると、背後の空が徐々に光を失っていた。

 

 正面の快晴とは正反対の暗雲。

 その闇は、冷たく淀んだ風が吹き付けながら、こちらへ迫ってきていた。

 音もなく迫る闇から逃れるように、ブランは更に速度を上げた。

 地面の凹凸に車輪が取られ、体が大きく左右に揺さぶられる。

 

「エルノア! 何がどうなっている!?」

「分からない! こんなの初めてだ!」

 言うことを効かないブランの様子に、彼は焦りの表情を見せた。

 手綱を握る彼の手は、真っ赤になっていた。

 

 ブランの健闘も虚しく、やがて闇は俺たちに追いつき、全身に絡みついた。

 闇は質量を持ったかのように重たく、思わず背筋が震える。

 そして次の瞬間には、視界は漆黒に包まれた。

 

 何か“良くないもの”がそこらじゅうを蠢くような、ぞわぞわとした感触が体中を駆け巡った。

 まるで絶望のような冷ややかな空気に、悪寒が走る。

 すすり泣くセラの声、落ち着きをなくしたブランと、それをなだめるエルノアの声だけが耳に届いた。

 

 静寂に響く騒がしさの隅で、凛と澄んだ声が響く。

 慌てふためく俺たちの中で、リディアだけは冷静だった。

 

 祈りの声は少し震えていたが、闇の中でも優しく届いた。

 温かな光が辺りを照らし始める。

 ざわついた感触も、その光から退くように、徐々に遠ざかっていくのを感じた。

 時折、闇が光を叩くように境界を歪ませ、内側に入り込もうとする。

 しかし、彼女の光はそれを許さなかった。

 強く輝く蒼石の光に、闇の奥で何かが怯む気配がした。

 

 しばらくすると、闇は俺たちを追い越し、道の先へ消えていった。

 何事もなかったような穏やかな空が、再び俺たちの前に姿を現した。


「今のは、何だったの……」

 震えた声で涙を拭いながら、セラが荷台から降り、空を見上げる。

「怖かったですね……」

 リディアは、ふうっと息を吐き、髪を整えた。

 いつの間にか傾いた日の光が、辺りを覆っている。

 

 エルノアは、まだ少し震えるブランを撫でながら、遠い空を見つめていた。

 ブランの揺れる瞳が、遠くに消えた闇の面影を残していた。

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