第二十話 セラ
私には、両親がいない。
幼少のときの記憶が、ぽっかりと頭から抜け落ちている。
朧げな記憶の片隅にあるのは、ただ暗く冷たい感覚。
それと——“寂しい”という感情だけ。
物心がついたときには、私の側には一人の老人がいた。
彼の名はルーベンと言う。
“セラ”という名前も彼から貰った。
『風のように気まぐれで、自由に育ってほしいから』だそうだ。
ルーベンは変わり者だった。
探究心の塊のような性格で、新しいものに飛びついては、うんうん唸りながら、考え事をしている姿が印象的だった。
あとで聞いた話だが、私は街の片隅の路地裏に、木箱に押し込められ、捨てられていたそうだ。
別に、恨みなどない。特にこれという感情もない。
ただ、私を見つけて、男手一つで育ててくれたルーベンには、何か恩を返したいと思った。
けれど、ルーベンが喜ぶことなんて、私にはひとつも分からなかった。
花を摘んでも、食事を作っても、彼はただ「そうか」とだけ言う。
でも、魔導の話をしているときだけは違っていた。
目を輝かせ、まるで少年のように語る。
その姿が、私はなんだか好きだった。
だから、気づいたときには私も、魔導の真似事を始めていた。
見よう見まねで、杖を振り、呪文を口にした。
幸い、私は魔導の素養があったようで、ルーベンの仕事を手伝えるようになった。
暇なときには彼の蔵書をあさり、勉強もした。
知らないことを知る快感と、知識を活かせる達成感が心地よかった。
ルーベンは“魔導”を学問だと言った。
でも、実際に“魔術”を使うのは、もっとずっと難しい。
そして、いつからか私はルーベンのことを“師匠”と呼ぶようになった。
あるとき、師匠の書斎奥に派手な装飾の魔導書を見つけた。
その中身は、過去に見たどの魔導書よりも刺激的で、私はその魅力に囚われた。
——この魔法があれば、私ももっと師匠の役に立てる。
そう信じて疑わなかった。
その後、仕事の手伝いで師匠と街を出た時、魔物に襲われている人を見かけた。
師匠にいいところを見せたい。
その想いで、私は迷いもなく、魔物の前に飛び出した。
多少の恐怖はあった、けれど、それ以上に——試したかった。
私は魔導書のページを思い出し、呪文を唱えた。
空気が震え、光が弾ける。
初めて感じる強い力の奔流。
杖の先から突風が吹き出し、魔物を吹き飛ばした。
——成功した。
そう思ったのも束の間。
風は止まらなかった。
まるで私の感情そのものに反発するように荒れ狂い、周囲を破壊していく。
自分の声すら、風の轟音にかき消された。
次に見た光景は、師匠が杖を構え、私の前に立つ姿だった。
彼の口から放たれた呪文の響きと同時に、世界が真っ白に弾けた。
気がついたとき、私は寝台の上だった。
髪は乱れ、全身は痺れていた。
ぼやける視界の中に、師匠の姿が見えた。
師匠は何も言わずただ、頭を撫でてくれた。
怒りでも叱責でもないその行為が、私の胸を強く締め付けた。
それから、私は今まで以上に魔術と向き合うことを覚えた。
強くなくていい。自由に、気まぐれに。
決して“暴れさせない”ように。
その後、私たちは拠点を移すことになった。
魔導の基礎を司る“精霊”が住まう森へ。
森の中ではいつも以上に魔術を扱うことができ、師匠の研究も捗っているようだった。
しばらくすると、師匠の工房に大勢の兵士が訪ねてきた。
彼らは魔王を討伐すべく集められた精鋭たちのようだった。
金属の擦れる音と、革の匂いが工房を満たす。
魔導のことで師匠に話があるようで、しばらく滞在するとのことだった。
それから一ヶ月くらいたった頃だろうか。
私が食料と日用品の調達で森を離れていた、ほんの半日。
戻った時には、工房の扉は開け放たれ、乾いた薬草の匂いだけが、部屋の隅に取り残されていた。
机の上には、書きかけの研究書。
けれど、師匠の姿も、兵士たちの気配もどこにもなかった。
すぐ帰って来るだろうと思ってた。
しかし、待てども待てども師匠が帰って来ることはなかった。
——また、一人になってしまった。
一人だった頃の記憶は無いはずなのに、自然と孤独が胸に押し寄せた。
静かな森の中で、風だけが優しく頬を撫でた。
それからというもの、工房が見える大木の上で師匠を待つのが日課になった。
「あのジジイが帰ってきたら、すぐ文句言ってやる……」
そんなことを呟きながら、今日も木の上で昼寝をして時間をやり過ごす。
穏やかな風が吹き抜け、鳥たちの声が遠くに響いていた。
その時——
「うるさい!」
突如、悲鳴が森に響き渡る。
声に驚き、思わず姿勢を崩す。
「うわああっ!」
枝をかすめ、葉を散らしながら、あっという間に地面が迫ってくる。
下には……人!?
詠唱も間に合わず、そのまま落下した。
「いったたた……気持ちよく寝てたのに、騒がしいね……何なのさ、いきなり……」
土埃を払い、体を起こす。
そこには若い青年とうずくまる少女。
「あんたら、もしかして……外から来たの?」
私の問いに青年は首を縦に振る。
こうして私は、カイルとリディアに出会った。
二人との出会いは、退屈だった私の生活に刺激を与えてくれた。
私は特に、リディアの胸元で揺れる“蒼石”に目を奪われた。
師匠が持つ杖と同じ輝きを放つ石の中に、私の知らない“色”が見えたのが気になった。
後に、それは彼女の母親の形見だと知った。
——道理で、私が知らないはずだ。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
けれど同時に、彼女の力になりたいと思った。
そして、“外”の世界に疎くなっていた私にとって、勇者の話はとても興味深かった。
勇者の弟と名乗る青年は、自分と他者との力の差に不安を感じているようだった。
必死に自分の“道”を探している様子が、昔の自分の姿と重なって見えた。
彼に“道”を尋ねられた時、普段は意識もしないのに、自然と祠のことが頭に浮かんだ。
私はあの場所が怖い。
狭くて暗い場所を潜在的に怖いと感じてしまう。
でもなぜか、彼には“あそこ”しかないと思った。
彼の背中に呼びかけ、腕輪を渡す。
私の指輪と共鳴する師匠譲りの腕輪だ。
もし、“何か”があっても、彼に呼びかけることができる。
カイルを見送り、引き続きリディアの様子を見守る。
彼女の成長には目を見張るものがあった。
彼女自身の潜在的な能力もあるのだろうけど、あの胸元の蒼石が彼女の力を最大限に増幅させているようだった。
あまりの成長の速さに、私はふと言葉を漏らした。
「その力は、守るだけじゃなく、使い方によっては攻撃に使うこともできるよ。例えば——」
突如として、彼女を纏う光が、炎のように不規則に揺れ動く。
光に呼応するように泉の表面が波打つ。
次の瞬間、彼女の周りに旋回する水の渦。
まずいと思ったときにはもう遅かった。
彼女の精神を喰らい、水の精が大きな力を得ようとしていた。
私は彼女を助けるため、杖を構えた。
私を救ってくれた、師匠と同じように——
しかし、体は動かなかった。
もし“暴走”してしまったら……
頭では分かってる。今の私は、あの頃の私とは違う。
それでも、体が動かない。
喉の奥が焼けるように熱くて、息ができなかった。
掌が汗で滑り、杖が急に重くなったように感じた。
——助けて。
気づけば私は、指輪に助けを求めていた。
***
カイルが泉に到着した頃には、リディアが纏う水泡の大きさは、当初の何倍にも膨れ上がっていた。
このままでは……
私の言葉を待たず、カイルはリディアの元へ向かう。
無茶だ。魔力を持たない彼が対抗できる力ではない。
でも——私の力があれば……?
考えるんだ。
彼を彼女の元へ届けるにはどうすればいい。
いつも私がしているように、風で浮かせる?
いや、彼の体が耐えられる保証がない。
ましてや、他人の体を浮かせ続けられるほど、私がもつか分からない。
却下。
周辺の水蒸気を凍らせて、一時的な足場にするのはどう?
これなら消費は最小限に減らせる。
しかし、座標を間違えれば——氷は彼の体を切断する凶器になりうる……
時間がない。
手が震え、思わず唇を噛む。
覚悟を決めろ——
私は“大魔導師ルーベン”の一番弟子だ!
逃げない。今度こそ、私の魔術で誰かを救うために!
——集中しろ。
魔導書を片手に、詠唱を続ける。
カイルの足を止めないように、彼の勇気を無駄にしないためにも。
——集……中。
「セラ!」
カイルの呼び声で顔を上げる。
「……っ」
危ない。急いで気付けの薬を口にする。
これで少しは耐えられるはず……
しかし、もう長くは持たない——
不規則に揺らめく魔導書の光を見てそう思った時だった。
風が止まった。
音も、呼吸も、世界が一瞬だけ静止した。
次の瞬間——
泉の上で、魔力が爆ぜた。
一瞬静止した風が、今では暴風のように泉の上に鎮座している。
まさか、カイルが?
魔力を持たない彼が、どうやって……?
そこからはあっという間だった。
カイルは瞬く間に水泡を切り裂き、リディアを解放した。
しかし、彼を包む風は、徐々に荒々しく、そして重たく、暗く——
彼の刃の行く先は、リディアへと向かっていた。
あの時の“暴走”が、脳裏をよぎった。
「やめてっ!」
光が視界を覆った。
暖かく、それでいて力強い光。
私は、その光の中、泉に落ちるカイルと、それを追いかけるリディアの姿を、ただ見ているしかなかった。
***
その後、息を吹き返したカイルを、リディアと一緒に工房まで運んだ。
治療はリディアに任せ、私は師匠の書斎へ向かった。
カイルのあの力。
虚の祠が関係しているに違いない。
暗く、重く、そして——恐ろしい力。
私の知らない力、師匠ならもしかして……
そう思い、書斎のありとあらゆる書物を漁ったが、何も成果は得られなかった。
ページをめくりながら、頬を涙が伝う。
“知らない”ということが、これほど恐ろしいなんて。
もし師匠がいたなら……そう思わずにはいられなかった。
夜更けに、私は工房の外へ出た。
冷たい風が、濡れた頬をそっと撫でる。
乾いた金属音が気になり、工房の裏手へと向かった。
そこにいたのは、カイル。
彼は力の反動で右腕の自由が効かなくなっているようだった。
あれほどまでに勇気を奮っていた彼が、子供のように涙を流している。
私にできるのは、慰めの言葉をかけることではない。
師匠がいないなら、私が確かめるしかない。
虚とは何か。カイルの力の正体を。
——もう、二度と“暴走”させない。
私は、この二人と一緒にいようと決めた。
いつかの旅立ちの日までは悟られないように、しばらくは隠しておこう。
なぜなら、……少し、恥ずかしいから。
そんなことを考えていたのに、こんな早く旅立つことになるとはね……
バタバタと工房内を引っ掻き回し、鞄に荷物を詰め込みながら、机の上を見た。
「……いってきます」
額縁の中の師匠は、いつもの難しい顔のまま。
扉を開けると、風が舞い、髪を揺らした。
「おまたせ!」
森を駆け抜ける風は、自由で、とても心地よかった。




