第十九話 虚を名に持つもの
セラは俺の話を静かに聞いていた。
時折、何か思い詰めたような表情でこちらを見ていたが、彼女は最後まで、俺の話を遮らなかった。
「あんた、無茶しすぎだよ……」
最後にそう言って、呆れたように笑う彼女の顔が、やけに印象的だった。
しばらくの沈黙の後、セラはふと祠のある方向を見つめ呟いた。
「それにしても、あの祠……ほんとに“いた”んだね……」
「ほんとに、というのは……?」
俺の問いに彼女はゆっくり顔を向ける。瞳の奥が一瞬だけ揺れた。
「師匠から聞いてはいたんだ……でも冗談だと思ってた」
少し間を置いて、セラは静かに言った。
「師匠はそれを——“ヴェイド”と呼んでた」
その名を口にした瞬間、セラの表情がわずかに曇る。
森の奥、祠の方角から冷たい風が吹き、木々がざわめく。
「ヴェイド……」
頭の奥で、あの低く重たい声を思い出す。
俺の心を読み、俺の“想像”を現実に変えた——あの存在。
胸がざわつく。
「そいつは……そのヴェイドってのは何者なんだ」
「私も詳しくは分からないけど……」
『精霊のようで精霊にあらず。決まった性質は持たず、その姿や性質さえも見る者によって自在に形を変える者』
「師匠は、そう教えてくれた」
セラはそう言いながら、静かに息を吐いた。
師匠——セラの師であるルーベンは、ヴェイドのことをどこまで知っているのか。
兄の動向とヴェイドの謎。
彼に尋ねなければいけないことが、また一つ増えた。
「それと、もう一つ」
「虚に呑まれれば、身を滅ぼすことになる——そう言ってた」
——身を滅ぼす。
その言葉が、胸に重たく響いた。
同時に、あのヴェイドの言葉が脳裏に蘇る。
力を得る代わりに降りかかる“代償”の話を。
思わず背筋が震える。
この右腕が……その代償なのか?
「ねぇ、その腕……大丈夫なの?」
無意識に強く抱え込んでいた腕に、セラが優しく触れる。
「あぁ、大丈……」
大丈夫、そう言い切ろうとしたが、なぜか言葉は喉の奥で止まる。
いつもの俺なら、笑ってやり過ごせたはずなのに。
なぜか今日は、セラにだけは、嘘を付けないと思った。
「……剣が、振れなくなった」
口から自然と出た言葉と同時に、涙が頬を伝っていた。
その後のことは、よく覚えていない。
記憶にあるのは——
優しく微笑むセラの姿と、柔らかく落ち着いた香りのする、温もりだけだった。
***
再び、工房の寝台で目を覚ます。
昨夜のことを思い出し、右手を握りしめる。
やはり、力は戻っていない。
一瞬、夢であってほしいと思ったが、現実は容赦なく重かった。
それでも、なぜか昨日より心は穏やかだった。
胸の奥に、ほんのわずかな光が灯っている気がした。
重たいまぶたをなんとかこじ開け、顔をあげる。
——よし。
身なりを整え、工房の外へ出る。
朝の空気が肌に触れ、少しひんやりとした。
それでも、不思議と心地よい。
きっと、二人に会えるはずだ。
そう思うだけで、足取りが少し軽くなった。
「カイルさん! 体は大丈夫ですか!?」
太陽のように眩しい笑顔で、リディアが駆け寄る。
一瞬、右腕のことがよぎったが、彼女の笑顔を壊したくなくて、口を噤んだ。
「あぁ、大丈夫だ。ありがとう」
奥に見えたセラは、少し不安げな表情でこちらを見ていた。
その瞳には、昨夜の静けさが映った気がした。
「リディア、それは?」
ふと、俺はリディアが手にするものに気づいた。
彼女が右手に持つそれは、少し古めかしさを感じるが、どこか温もりを帯びた“杖”だった。
「これ、セラさんがくれたんです!」
リディアは幼い子どものようにキラキラと瞳を輝かせる。
杖の先端には、彼女の胸元の蒼石と同じ輝きを放つ石がはめ込まれていた。
木を削り出して作られた“それ”からは生命の力強さのようなものを感じる。
「師匠のお下がりだけどね」
セラは「この子に似合いそうだったから」と、どこか照れくさそうに笑った。
その後、三人で簡単な食事を取った。
生死を彷徨った昨日とは違う、穏やかな日常が、やけに胸に染みる。
風がやさしく頬を撫で、朝の光が木々の隙間をすり抜ける。
まるで森全体が息をしているようだった。
「……そろそろ、ここを出ようと思う」
食事の片付けを終え、俺は二人にそう告げた。
魔物もいないこの森での生活も悪くない。
けれど、胸の奥で“何か”が、静かに呼んでいる。
俺にはまだ、やらなければならないことがある。
俺の言葉に、リディアは決意を固めたように杖を握りしめ、こちらを見た。
彼女の表情は、以前より自信に満ち溢れていた。
「そっか……」
一方のセラは瞳を伏せ、寂しそうに微笑んだ。
けれど、無理に引き止めようとはしなかった。
それが彼女らしい、優しさの形のように思えた。
リディアと顔を見合わせ、セラに別れを告げようとした瞬間——
「ちょっとだけ待てる!?」
セラはそう言い、勢いよく工房へと駆け出していった。
残される俺とリディアは、ぽかんとしたまま顔を見合わせる。
なんというか最後まで——
「セラらしいな」
「セラさんらしいですね」
二人の声がぴたりと重なり、自然と笑顔が溢れた。
森を渡る風が、その笑い声を運ぶように心地よく吹き抜けた。
セラが戻ってくるまで、久しぶりに二人で語り合った。
話題に上がるのは、この森のこと。
そして——セラのこと。
出会ってからの時間は、決して長くはない。
けれど、彼女と過ごした日々が、確かに俺たちの中に残っている。
そのことだけは、二人とも迷わずに信じられた。
穏やかな時間が流れていた、その時。
工房の扉が勢いよく開く。
「おまたせ!」
そこにはいつものローブを羽織り、杖を持つセラの姿。
腰には魔導書と小さな鞄。
その隙間からは、小瓶や乾燥した草花が顔をのぞかせている。
「それじゃあ、行きますか!」
セラは胸を張り、森の奥を指さした。
「行くって、セラ、お前まさか……」
木々の隙間から光が差し込んだ。
風に揺れる葉の一枚一枚に反射し、まるで祝福のように辺りを照らした。
「もちろん! 一緒に行くよ。私がいないと寂しいでしょ?」
とびっきりの笑顔。
その姿に、俺とリディアは思わず顔を見合わせ、声を出して大きく笑った。
そして、俺たちは森を後にした。
ふと振り向くと、工房は霧のように森に溶け込み、まるで最初から存在しなかったかのように静かに消えていった。
頬を撫でる風は、どこか名残惜しそうで――
それでも、確かに前へ。三人の新しい道へと背中を押していた。




