第十八話 虚の声と呼ぶ光
なんの抵抗もできぬまま泉の底へと沈んでいく。
もう、手も足も動かせない。
肺に水が入り込み、息ができなくなる。
意識が混沌へ沈む今、感じるのは疲労と痛みと後悔――
リディアとセラは無事だろうか……
俺がもっとちゃんとしていれば、二人を危険な目にあわせることもなかった。
結局、俺には、何一つ、誇れるものなど、無かったな……
意識の糸がほどけ、闇に溶けていく、その瞬間。
どこからともなく、誰かの声がした。
その声は、冷たい水の中でも感じられるほど“あたたかさ”を帯びた声だった。
どこか懐かしく、優しさを帯びたその声に包まれながら――
そのまま、落ちていった。
***
――闇。
一切の音も、光も、そこには無い。
深淵。
意識だけがそこに”在る”ようだった。
俺は……死んだのか。
ぼんやりとした記憶だけが残る。
「なんだ、もう終わりか。つまらんな」
不意に声が聞こえた。
その声はいつもの、あの低く重たい声。
しかし、今回はいつもと違う。
闇の奥――深淵の中に、輪郭の定まらぬ光がゆらめき、その中に“それ”は立っていた。
あの、声の主。
これまで決して姿を見せなかった“虚”が、初めて形を持っていた。
光と影が混ざり合い、ひとつの形を作り出す。
形はやがて人影のようにまとまりを見せる。
しかし、その姿には肉も血もなく、薄い靄と光の粒でできていた。
輪郭の内側では、水や風のように光がゆらめき、絶えず姿を変えている。
人ではない。
だが、確かに“人の意志”を宿していた。
そいつは静かに口を開いた。
「我の力は、どうだ――」
声を発するたび、空気が震える。
それは声というより、空間そのものが“共鳴”しているようだった。
「楽しかったか?」
その言葉とともに、輪郭が笑い声に合わせて水面のように波打つ。
一瞬、笑っているのか、嘲っているのかさえ判別できなかった。
「あの力は……なんだ!」
反射的に問いかけていた。
魔力の片鱗もないはず俺が、どうしてあんな力を……
「あれはお前が“想像”した力だ。ただ——」
低く、淡々とした声。だがその奥には、かすかな愉悦が滲んでいた。
「少し、手を加えてやったがな」
「ふざけるな! 俺はそんなこと望んじゃいない!」
怒鳴った声が闇に吸い込まれる。
もう少しで、俺が、リディアを……
思い返した瞬間、背筋が震える。
「責任転嫁か? 見苦しい……」
深いため息。
「お前の弱さが招いた失態だろう!」
声がまるで槍のように胸に突き刺さった。
図星だった。
我を忘れたのは、他でもない自分自身だ。
言葉を返そうとしたが、喉が詰まった。
「……まぁいい。せっかく“外”に出られたんだ。もう少し楽しませてくれ」
その言葉の意味を理解する間もなく、声の主は言葉を続ける。
「ほら、お迎えがきたぞ」
突如として、辺りを柔らかい光が包み込む。
「おい! どういうことだ!」
まだ聞きたいことが山ほどある。
光が、輪郭を曖昧にしていく。
「次なる“真”で――また会おう」
視界が完全に白に染まるなか、確かにそう聞こえた。
***
胸が苦しい。
呼吸ができない。
吐き気がする。
「ぐっ……」
反射的に喉が蠕動する。
「うぇぇっ……」
口から滝のように水を吐き出した。
肺が焼けるように痛む。
気道が開き、ようやく空気が流れ込む。
大きく息を吸い込んだ瞬間、胸の奥まで酸素が満ちていく。
しばらくすると荒かった呼吸も、やがて落ち着いてきた。
生きている。
眩しさで霞む目を、なんとかこじ開ける。
視界に真っ先に飛び込んできたのは……
涙で顔をぐしゃぐしゃにした、セラだった。
「馬鹿っ……! 死んだかと思ったじゃない……!」
俺が意識を取り戻したことに気づき、セラは更に瞳を潤わせる。
いつも飄々と笑っていた彼女が、今はまるで別人のように顔を歪めていた。
「すまない……」
その涙を拭おうと、右手を上げようとする。
しかし、まるで芯が入っていないように、右腕を持ち上げることはできなかった。
「まだ動かないでください!」
張り詰めた声。隣で、リディアが俺の腕を押さえていた。
「ひどい傷……骨まで……」
「リディア……すまない。俺のせいで危険な目に……」
後悔から、彼女の目を見ることができなかった。
だが、リディアの瞳はまっすぐ俺を見つめていた。
「いえ、カイルさんは悪くありません……」
彼女の両手がそっと、俺の右手を優しく包み込む。
「私が無茶してしまったから……」
かろうじて動く指先で、彼女の手に触れる。
その手は、微かに震えていた。
整然を装っている彼女もまた、恐怖と後悔を抱えているのだと、痛いほど分かった。
「今、治しますから……もう少しだけ、我慢してください」
リディアは胸のペンダントをぎゅっと握りしめ、祈りの姿勢をとった。
その祈りは優しく、けれど以前よりも強く、確かな熱を感じた。
「ありがとう……」
その温かい光に包まれながら、俺は自然と眠りについた。
***
ふと目が覚めると、そこはセラの工房だった。
部屋の隅の寝台に寝かされ、薄い布が掛けられている。
隣にはリディアが静かに眠り、奥には机に突っ伏したまま眠るセラの姿があった。
二人とも、疲労からか深い眠りについているようだった。
窓からは月明かりが差し込み、工房の中を優しく照らす。
俺はゆっくりと寝台から降り、床に足をつく。
傷だらけだった足も痛みはなく、歩行にも支障はなさそうだ。
ほっと息をつき、寝台横に用意されていた水差しに手を伸ばした瞬間——
グラスを持つ右手に、奇妙な違和感。
握っているのに、力が入らない。
まるで、自分の手じゃないみたいに。
嫌な予感が背筋を走る。
傍らに立てかけられていた剣を取り、急いで外へ飛び出した。
向かったのは工房の裏手。
だれもいない空間で剣を抜いた。
額に汗が滲む。
……どうか、勘違いであってくれ。
いつものように、剣を振る。
剣を振り抜いた瞬間——
柄を握る手に力が入らず、剣は無様に手を離れ、地面に突き刺さった。
鈍い金属音が、夜の森に響いた。
「うそ……だろ?」
俺は急いで剣を地面から引き抜き、再び剣を振る。
しかし、また同じように剣は手を離れる。
剣が地面に転がる乾いた音だけが、耳に届いた。
痛みはない。剣も振れない訳ではない。
ただ、強く振り抜くことは——その後、何度試してもできなかった。
右手を見つめる。
今まで当たり前にできていたことが、できなくなっている。
それを実感した瞬間、胸の奥の“何か”まで、力を失ったような気がした。
風が吹く。森の葉が擦れ合い、夜の静寂が胸に刺さる。
息をするたび、痛みではなく“虚しさ”だけが広がっていった。
しばらく、途方にくれていると、不意に足音が聞こえた。
「起きてたんだね。ちょっと話せる……?」
寝ぼけ眼をこすりながらこちらを見つめる、セラの姿。
暗がりに立つ彼女の影は、どこか不安げだった。
並んで腰を落とす。
しばらくの沈黙の後、セラはゆっくりと口を開いた。
「……虚の祠で、何かあった?」
心を見透かすような、彼女の視線がまっすぐこちらを捉えていた。
俺は、空っぽの右腕を抱えながら、虚の祠での出来事を吐き出した。
冷たい夜風が、胸の奥の空洞をなぞっていった。




