第九話 迷いの森
――時は、森に入った直後へと遡る。
俺たちはしばらく、獣道を進んでいた。
踏みしめるたび、枯葉が湿った音を立てる。空は木々の枝葉に覆われ、昼だというのに薄暗い。
やがて道が途切れると、俺は腰の剣を抜き、近くの大木に目印のための切り傷を刻んだ。
森の奥は似たような景色ばかりで、方向感覚が狂う。
迷わないよう、一定の距離ごとに印をつけながら進むことにした。
時折、茂みの向こうで小動物の走る気配がし、遠くで鳥の鳴き声も聞こえる。
森全体が不気味なほど静まり返っているわけではなく、むしろ穏やかですらあった。
風が吹けば、木々の梢がそよそよと揺れる。
その音はどこか心地よく、緊張が少しずつほどけていくのが分かる。
「風が気持ちいいですね」
リディアが空を仰ぎ、葉の隙間からこぼれる光を見上げて呟いた。
「あぁ……聞いていたよりも普通の森だな」
俺もつられて笑みを浮かべる。
不気味な噂の割に、拍子抜けするほど静かで穏やかな空間だった。
――だが、それが“罠”のように思えたのは、その少し後のことだ。
次の目印をつけようと、一本の大木の前に立った時。
ふと違和感を覚えた。
幹の表面には、俺が先ほど刻んだのとまったく同じ位置、同じ形の切り傷があったのだ。
その時はただ、以前にも同じことを考えた人がいたんだろう、と深くは考えていなかった。
幹の表面の違う位置に新たな切り傷をつけ、更に先へと歩を進める。
そうして次に目にした大木には――
先ほどの大木と、まったく同じ形の切り傷が刻まれていた。
「……え?」
思わず足が止まる。
幹の節の位置も、傷の深さも、斜めに走る角度までも同じ。
偶然にしては出来すぎている。
まるで、森そのものが“俺の行動を真似ている”ような――そんな気味の悪さを覚えた。
「カイルさん……?」
リディアが不安げに覗き込む。
俺は無理に笑みを作ってみせた。
「いや……なんでもない。少し見間違えただけだ」
そう言いながらも、胸の奥では冷たいものが広がっていく。
森の中を歩くうちに、風向きも、鳥の鳴き声も、どこか同じ場所を回っているように感じ始めていた。
太陽の位置も木々に遮られて分からず、方角が掴めない。
何かがおかしい。
進んでいるはずなのに、前に進めていない――そんな感覚がじわじわと足元を侵食していく。
(そんなはずがない……!)
焦燥が胸を締めつけ、俺は無意識に歩を速めていた。
「カイルさん……! ちょっと待ってください……!」
背後からリディアの声が追いかけてくる。
けれど、その声も次第に遠ざかっていく。
振り返る余裕もなく、ただ前へ、前へ。
木々の隙間を縫うように走り抜け、枝をかき分け、息が荒くなる。
額を流れる汗が頬を伝い、視界が霞む。
「……リディア?」
はっとして振り返った。
――いない。
ついさっきまで確かに背後にいたはずの彼女の姿が、どこにも見当たらない。
焦りで鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
「まずい……はぐれたか……!」
言葉が漏れる。すぐに踵を返し、来た道を戻ろうとした、その時――
前方の森の奥から微かな足音が聞こえた。
息をのむ。
視線の先――木々の合間、わずかに開けた場所に、リディアの後ろ姿が見えた。
「リディア!」
思わず呼びかけた声が震える。
だが、何かがおかしい。
さっきまで、彼女は俺の後ろにいたはずだ。
俺は確かに前に進んでいたはずなのに……なぜ、リディアの背中が“進行方向の先”にある?
背筋を冷たいものが這い上がる。
息を飲み込み、思わず一歩、後ずさる。
――まるで、森そのものが位置をすり替えているような。
リディアが俺の声に気づき、はっと振り向いた。
「もう! 置いていかないでくださいよ! って……どうしてそっちにいるんですか!?」
リディアの目が驚きに見開かれる。
彼女は、元々俺が進んでいたはずの方向と、今の俺の立っている位置を何度も見比べた。
確かにおかしい。
時間も距離も、感覚さえも狂っているようだった。
「……リディアは、ずっとここにいたのか?」
「はい……。一人で動くと余計に迷ってしまいそうで、少し待っていたんです」
リディアの声には不安が滲んでいた。
俺は喉の奥がひりつくような感覚を覚える。
――やはり、この森はただの森じゃない。
その後、どの方向へ進んでも――
気づけば、必ずあの大木の前へと戻ってきてしまう。
右へ行っても、左へ行っても。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も――
「カイルさん……」
リディアの声が震える。
「あぁ……」
それだけを絞り出すのが精一杯だった。
俺たちは、森に捕らえられていた。
まるで、この森そのものが俺たちを逃がす気がないかのように――
そうして――今に至る。
「……何なんだ、この森は……」
不安と焦りが胸の奥で渦を巻く。
見渡す限り、どこも同じ風景。木々の配置も、枝ぶりも、草の形さえも区別がつかない。
「どうしましょう……」
リディアの声もわずかに震えている。
森に入ってから、どれほどの時間が経ったのか。
太陽の位置も分からず、東西南北の感覚もとうに失われていた。
時間も、方角も、何もかもが曖昧になっていく。
思わず頭を抱えたその時、リディアがふと辺りを見渡した。
「……今、何か……声が聞こえませんでしたか?」
「声?」
耳を澄ますが、聞こえるのは変わらず風に揺れる木々のざわめきと、時折響く鳥の鳴き声だけ。
「……いや、何も聞こえないが」
「そう、ですか……私の勘違いかもしれません」
そのときは深く気にしなかった。
だがその後も、リディアは何度か立ち止まり、何かを探すように辺りを見回した。
耳を澄ませ、眉をひそめる。
まるで――誰かの声に応えるように。
――このときに気づけば良かったのだ。
あの集落で、老人が教えてくれた“忠告”を。
『もし――森の中で“声”を聞いても、決して気にしてはならんぞ……』
その言葉を思い出した時には、もう遅かった。
リディアが突然、頭を押さえてしゃがみ込んだ。
両耳を塞ぎ、苦痛に耐えるように顔を歪めている。
「リディア!? どうした、大丈夫か!」
俺は慌てて駆け寄り、肩を掴んだ。
「カイルさん……! 声が……声がするんです!」
震える声。
俺の耳には何も聞こえない。風の音すら遠のくような静寂。
「何が聞こえる!? どこからだ!」
「わ、分からない……でも……どんどん、近づいてくる……ううっ」
リディアは苦しそうに蹲り、頭を振る。
「……さい……る……い……」
掠れた唇から漏れる言葉。
「リディア!」
俺が呼びかけると、彼女は顔を上げ、目を見開いた。
その瞳は怯えと混乱に濁っている。
「――るさいっ! うるさい!! 静かに……静かにしてぇ!!!」
リディアの叫びが森の静寂を引き裂いた。
鳥たちが一斉に鳴き声を上げ、木々の間からバサバサと飛び立った。
羽音が響き、枝葉がざわめき、森全体がざわつく。
――その時だった。
「うわああっ!」
頭上から声が裂けた。
反射的に見上げる。黒い影がこちらへ落ちてくる。
次の瞬間、衝撃。
「ぐあっ……!」
胸が潰れ、地面に背を打つ。重み――
ローブに身を包んだ女が、俺の上に転がっていた。
長い髪が頬をかすめ、草の匂いと淡い香りが混ざる。
「いったたた……気持ちよく寝てたのに、騒がしいね……何なのさ、いきなり……」
顔をしかめながら、女が上体を起こした。
ローブの裾から土埃を払う仕草がどこか気だるげだ。
「あんたら、もしかして……外から来たの?」
俺は気持ちの整理もつかぬまま首を縦に振る。
「あぁ……君は……?」
呆気に取られていると、後ろからリディアが苦しむ声が聞こえる。
しまった!と振り向こうとしたとき、ローブの女がその様子に気づきリディアに近づく。
リディアは地面に膝をつき、額を押さえ、苦しげに眉を寄せている。
「……なるほどね」
女は片膝をつき、リディアの顔を覗き込む。
その瞳はさっきまでの眠たげな印象とは違い、鋭く冷静だった。
「あなた……“声”を聞いたんでしょ?」
「っ……どうして、それを……?」
リディアが顔を上げ、驚いたように目を見開く。
女は小さく肩をすくめた。
「この森は魔力の濃度が高すぎて、敏感な人間ほど“あっち側の声”を拾っちゃうのよ」
俺はその言葉に眉をひそめた。
「“あっち側”……?」
「ま、詳しくはあとでね。このまま放っとくとマジで頭やられるから」
女は軽く手をかざし、リディアの額の前で小さく呟いた。
淡い光が広がり、リディアの表情が少しずつ和らいでいく。
「どう……少しはマシになった?」
「……はい。ありがとうございます」
リディアが息を吐く。
「助かった……君はいったい……」
俺の問いに、女は欠伸をかみ殺しながらゆるく笑った。
「私?私はセラ。見ての通り魔導師、ってやつかな」
気だるげに杖を拾い上げながら、彼女は肩をすくめる。
「もしかして迷っちゃった?……協力してあげてもいいよ?」
軽い口調の奥に、妙な頼もしさが滲んでいた。
――こうして俺たちは、迷いの森で“魔導師セラ”と出会った。




