1 - 5 祈りの継承
※この作品には、描写の中に痛みを伴う場面が含まれます。苦手な方はご注意ください。
それでは、よろしければ最後までお付き合いください。
最近の主様は、よく眠るようになった。
かつてはそのまなざし一つで、星々の運命すら動かしていたお方が、今は静かに目を閉じ、夢の中に身を委ねる時間が増えた。
それでも、私の歩みや世界の営みに対して、主様のまなざしは常に注がれている。鋭く、優しく、見えざる手のように私を導く。
あの日──罪人に「創造主見習い」と呼ばれたあの瞬間から、数千年という時が流れた。私の名が、神として世界に認識されるまで、それほどの年月を要したのだ。
罪人との面会は、今や厳しく制限されている。彼の存在はあまりに強く、あまりに深く、この世界に揺らぎをもたらす。
ダグナスとナーシャスが神へと昇華してから、同じ奇跡は再び起こっていない。それが偶然だったのか、それとも私たちが見逃している何かがあるのか──未だ答えは得られないままだ。
朱鷺色に揺れる壁。その向こうに辿り着いた者は確かに存在したが、主様は誰一人として受け入れなかった。その静謐な拒絶が、何を意味していたのか。私はいまだに解き明かせずにいる。
この世界に姿を現す神は、もはや私ひとりとなった。神という名を与えられた存在でありながら、手にするものは賞賛でも救済でもない。ただ、ひたすらに訪れる問いと孤独──それでも、私はこの座を選んだのだ。
私に託されたヴォイドの惑星。その地に生きた彼らは、神に見出されたその日から、五百年の歳月を経て、自らの力で星の外へ旅立つ術を得た。
けれど、彼らが離れていった理由は単に進歩のためではなかった。
母なる惑星が静かに滅びゆく未来を知り、彼らは選んだのだ。ある者はその死を共にし、ある者は記録を残し、ある者は最後の瞬間まで生き抜く意味を探し続けた。
その姿は、哀しくも美しかった。私は神として、何も与えることができず、ただ見つめることしかできなかった。
──
「ボリス。面会希望者が、壁に来たわ」
シャーリスの声が、かすかに張り詰めた空気を震わせた。私は目を上げ、沈思から意識を現へと戻す。
「知らせてくれて、ありがとう。すぐに行こう」
朱鷺色のオーロラが流れる静謐の前に、銀色に輝く船団が静かに佇んでいた。その姿は、まるで宇宙の呼吸が形を成したかのようだった。
私の接近を察知し、旗艦の扉が重々しく開く。微かに流れ出る光のなか、白獅子が歩み出てきた。その歩みは確かな意志に支えられ、瞳には揺るぎなき信念が宿っている。
「神ボリスよ。勝手な願いだとは承知している。しかし、どうか聞いてほしい」
その声音は、静かで、それでいて心を打つ力があった。
「我らは、神のいない世界を望んでいる。誰の加護もなく、誰の支配も受けず、自らの足で立ちたいのだ」
私は一歩前へ出て、顎に手を添えながら言葉を選ぶ。
「つまり、すべてを自らの責において生きる道を選ぶ……そう理解していいか?」
「はい。ただ、それだけです」
彼のまなざしには、祈りにも似た熱が灯っていた。
私の胸の奥に、静かな波紋が広がる。あまりに正直な願い。あまりに厳しい選択。
「私は、世界に平等を望んでいる」
その言葉に、白獅子の耳がわずかに動く。
「……それは、叶わぬ夢なのでしょうか?」
「夢ではない。だが、まだ現実ではない」
私は視線を虚空へと向ける。そこには、かつての私が見上げた空を思わせる、果てなき蒼の広がりがあった。
「君たちは神なき世界を望む。だが今、それはどこにも存在しない。ゆえに、そこに不平等がある。……私は、その不均衡を許すわけにはいかない」
「では……?」
「小さな世界をひとつ創ろう。君たちの望むように。ただし、私と対話できる代表を、ひとり置いてほしい」
「それは……干渉では?」
「違う。私はただ、その世界がどう進み、どこへ辿り着くのかを見届けたいだけだ。それが、神としてではなく──一人の観察者としての、私の願いだ」
白獅子はしばし言葉を失い、やがて静かに頷いた。
「……分かりました。よろしく頼む」
私は指を鳴らす。
音なき宇宙に、その音だけが確かに響いた。
「隔絶された世界よ、良き旅路を──」
その言葉とともに、船団は光の粒子へと姿を変え、静かに、そして確かに、宇宙の果てへと消えていった。
──
丸太小屋へと転移すると、そこには夕映えに包まれた静けさが漂っていた。シャーリスが一脚の椅子に腰を下ろし、窓辺から漏れる橙の光をただ見つめている。時の流れを忘れたようなその横顔に、ボリスは息をひそめるようにして隣に座った。
「シャーリス……創造主とは、こんなにも孤独なものなのか?」
不意に漏れた問いは、まるで胸の底から湧き上がった風のようだった。自らの声に驚いたのか、ボリスは短く息を呑む。
シャーリスはかすかに微笑み、柔らかく答えた。
「そうね……私が知っている夢幻主様も、皆に愛されていたけれど……その目線の先には、常に誰もいなかった」
「そうか……すまない」
その謝罪が誰に向けたものなのか、自分でもわからなかった。
「“夢幻主病”……そんなふうに冗談めかして呼んでいたのも、主様だったのよ」
「……そうか」
沈黙が流れる。だがそれは重さではなく、過去の記憶をたどるような、優しい間だった。
やがて、シャーリスが遠くの気配を感じ取ったように、静かに口を開く。
「主様が呼んでる。花畑に行ってあげて」
「……わかった。すぐに向かう」
──
陽が落ちかけた空の下、花の香りに包まれた野に主様は横たわっていた。風がそっと草を撫でる音だけが響く。
ボリスは傍に膝をつき、静かに腰を下ろす。その動きを待っていたかのように、主様はぽつりと呟いた。
「……夢を見た。とても懐かしい夢だった」
「どんな夢でしたか?」
その声には、子供のような無垢さが宿っていた。
「約束をした……旅をしようって。一緒に……とても大切な人と。……ボリスよ」
「はい」
「私は……二人でひとつなのだ。たとえ姿が違っても、心はいつも隣にあった……」
その言葉が、波紋のようにボリスの胸へ染み渡る。主様の中に刻まれた記憶。語られたことのなかった約束。その一端が、ようやく触れられた気がした。
主様は静かに瞼を閉じ、安らぎのなかで眠りへと戻っていく。
しんとした夜の訪れ。ボリスの胸奥に、言葉にならぬ衝動が湧き上がる。それは記憶の残滓か、それとも魂の響きか。
彼は立ち上がり、花畑の奥へと歩を進めた。
──
やがて辿り着いたのは、草花に囲まれた静寂の谷。その奥、風の通らぬ場所にひっそりと洞窟が口を開けていた。
苔むす岩肌に手を添えて中へと入ると、仄かに揺れる光が天井に淡い模様を描く。やがて、その光のなかから現れたのは、金髪の女性の幻影。
その姿を目にした瞬間、ボリスの内で封じられていた何かが軋むように動き、理屈よりも早く転移が発動していた。
何処へ向かうかはわからなかった。ただ、そこに“答え”がある気がしてならなかった。
──
紅の世界──罪人の元へ、静かに降り立つ。
そこは、すべてが紅に染まった不思議な空間だった。空はなく、大地も曖昧で、ただ濃密な色彩と空気だけが、世界を満たしている。 光が滲み、影が彷徨うその中心に、ひとつだけ確かな存在があった。
古びた椅子に腰掛けた男──罪人。 その身は年輪を刻んだかのように落ち着き、だが瞳の奥には、何処までも飢えたような光が潜んでいた。
彼は、ゆったりと顔を上げる。
「おお、ボリス……久しいな。一人で来るとは、珍しい。さて、何を求めて?」
声は穏やかで親しげですらあったが、その声音には奇妙な重さがあった。耳に届いた瞬間、心の奥へ沈んでいくような。
ボリスは黙って歩み寄り、距離を保ったまま立ち止まる。
「創造主の秘密が知りたい。あの金髪の女性と、主様との関係を」
その問いに、罪人の眉がわずかに動いた。静寂が流れる。
「……あいつはな、本当に何もできん奴だった。弱くて、臆病で、自分の意志すら持てなかった。見込みがあったのは、むしろ女の方だったよ。強かったし、育てがいも、あった」
ふと、罪人は椅子の背にもたれ、天井のない空を見上げた。懐かしむような──あるいは哀れむような、そんなまなざし。
「どちらも創造主候補だった。だが、どちらも不完全だった。人として、神として……なにより魂として、な」
一拍の間。 そして、ゆっくりと口元が歪む。歪な笑みには、狂気と執着が色濃く滲んでいた。
「だから私は──ふたりを、一つにしてやったのさ。分かたれたままでは辿り着けぬ高みがある。ならば、融合させるしかなかろう?」
空間の温度が、ふいに下がったように感じられた。 ボリスのまなざしが細くなり、紅の空に沈黙が落ちる。
「……戻せるのか」
その声は低く、祈りとも怒りともつかぬ響きを持っていた。
罪人は、にたりと笑う。
「おまえが、創造主になれればな」
言葉の余韻だけが残り、二人の間に張りつめた静寂が降りる。
やがてボリスは一歩も踏み出すことなく、ただ振り返ることもなく踵を返した。
紅の世界に波紋が走り、彼の姿は消える。残された空間に、罪人の嗤う気配だけが、しばし漂い続けていた。
──彼は、再び丸太小屋の静寂の中にいた。だが、もはや静けさは、心の内に届かない。
静まり返った部屋には、風すら訪れなかった。灯りは落とされ、薄闇が壁を這う。
ボリスは部屋の片隅、ひとつきりの椅子に身を沈める。彼の目は宙を見つめながら、沈黙の内に問いを繰り返していた。
──主様の魂を分けるという願い。それを、どうすれば叶えられるのか?
その問いに答えるように、静かな声が空気の奥から湧き上がる。
「コンソールだ、ボリス」
茶器の湯気が静かに揺れ、ヴォイドが影の中で続けた。
「特別なのは、シャーリスだけじゃない。焦るな。すべては、まだ始まってもいない」
静かな励ましに、ボリスは息を吐いた。湯飲みを口元に運び、淡い苦みのなかに意識を沈めてゆく。
「シャーリス以外にも……特別な存在が?」
「いる。記憶の霧の奥に隠れていたが、いま確かに思い出した。世界の封印が、わずかに綻びはじめている」
その言葉に、ボリスはゆるやかに頷いた。目を閉じ、指先でコンソールに触れる。
『二つが混じり合った魂を、再び分ける術を知る者がいれば、我がもとへ来てほしい』
──部屋を包むのは、静けさ。すべての音が、ひととき遠ざかる。
だが、やがて空間がわずかに揺れ、声が届く。
「よう、ボリス。呼んだか?」
現れたのは、銀毛の人狼。かつて生命体だった時の惑星で、言葉を交わした存在だった。
「君……知っているのか?」
「ああ。魂を分けるには、記憶の操作だけでは足りない。必要なのは、魂の深部──光も届かぬほど沈んだ核に、静かに手を伸ばす力だ」
ボリスは短く頷き、言葉を継いだ。
「私は、魂を掬い上げる術は心得ている。だが……切り離す術は知らない」
人狼は頷いた。
「虚無を扱う。それが答えだ。魂の核を裂くには、ただの力では足りない。無でなければ、その静寂と深淵には届かない」
ボリスは唇を閉ざし、目を伏せる。
「虚無を学ぶには、何が要る?」
「創造主になることだ。創造主の魂は、他者に触れ、感じ取り、揺り動かす力を持つ。だが、その創造主に触れようとするなら──その存在を凌駕せねばならない」
「……つまり、罪人を通すしかないということか」
人狼のまなざしが深まった。淡く輝く瞳が、静かに真実を告げる。
「オマエ、死ぬぞ」
「……どういう意味だ?」
「虚無は、未熟な存在を受け入れない。罪人は、それを“教え”の一環として使う。もしお前に可能性を見出さなければ、問答無用で消し去る。あれにとって“慈悲”は、鍛えるための試練にすぎない」
拳を握ったボリスは、目を逸らすことなく問い返す。
「では、どうすれば……?」
「虚無を身につける。魂の微細な断片を識別し、選び取る。そして主様の魂を結晶体に封じ、それを収める封魂器を用意することだ。技術が進んだ今なら、それも不可能ではない」
その声は確信に満ちていた。人狼は、目を細めて空間の彼方を見つめる。
「魂とは、深き水底に沈んだ光の粒だ。そこに手を伸ばすには、波を立てず、穢すことなく、ただ静かに潜らねばならない」
「……なぜ、そこまで知っている?」
人狼はふと笑みを浮かべた。哀しみと信頼がないまぜになった、優しい表情だった。
「すまない。役割上、これ以上は言えない。ただ──お前なら、きっと辿り着ける」
ボリスは目を閉じた。
──主様が願ったのだ。魂を、ふたつにと。ならば、この身を賭してでも応えよう。
「私が、それを果たす。そのために、私はここにいる」
「ちなみに──虚無について一番詳しいのは、ダグナスだ。覚えてるかは知らんがな」
人狼は、短く笑いながら霧のようにその姿を消していった。残された空気には、どこか温もりすら感じられた。
ボリスは、迷いなくコンソールへ向かい、指をそっと触れた。
『ダグナス、来てくれ』
沈黙を割るように、すぐに声が返る。
「どうした?」
「虚無について、何か知っているか?」
「これのことか?」
ダグナスが指先を払うと、空間の一部が音もなく崩れ、漆黒の静寂に吸い込まれていった。そこには風も、光も、音もなかった。
「なぜ使える? 創造主になったのか?」
「……それは、私の魂が“夢”よりも“無”に寄っているからだ」
ボリスは眉を寄せる。
「そんな話、どこにも記録されていない」
「当然だ。虚無とは、認識された時点で既に虚無ではなくなる。 それを記すことは、定義してしまうことになるからな。 だが、君には話しておこう──始まりの時、すべての魂はひとつの意識体だった」
ダグナスの語りは、まるで遥か遠い記憶を紐解くように、ゆっくりと、穏やかだった。
「その意識体から“夢”が生まれた。形なき願い、情熱、未来。 夢は万象をかたちづくる創造の力となった。 だが、やがて夢は溢れ出し、世界は形を保てなくなる。 そのとき生まれたのが“無”だ。 余剰を刈り取り、全体の均衡を保つ。 夢の副産物でありながら、夢に対峙する浄化の力でもあった」
「つまり、“夢”と“無”の均衡が、魂を分けた……」
「その通りだ。 やがて魂は、“夢寄り”と“無寄り”に分かれ始める。 夢寄りの魂は、希望や未来を紡ぎ、温もりを持つ。 無寄りの魂は、静寂と終焉を内に秘めている。 君は……両方を持っている。 だからこそ、無限の可能性を秘めている」
ボリスは、何も言わず目を伏せた。 胸の奥、ひと筋の光が揺らいでいる。
「……時間がない。手伝ってくれるか」
ダグナスは静かに頷く。
「もちろんだ。私が虚無を使う。 君はその揺らぎと沈黙を、魂の奥で感じ取ってみるんだ」
その声は平坦で、けれど確かにあたたかさを含んでいた。
「虚無には、形も、声も、意味もない。 思考はただのノイズになる。 すべてを捨て、“無”そのものに身を委ねるんだ。 恐れるな。君なら感じ取れる」
ボリスは深く呼吸し、静かに目を閉じた。
──瞼の裏に、黒の深淵が広がる。 何も映らず、何も触れず、ただ永劫に続く空白。 それでも、その中心に確かにあった。
沈黙。
それは、叫びよりも大きな、宇宙の底に横たわる存在の気配だった。
「……やるしかない。これは、主様の願いなのだから」
ダグナスが微かに口を開いた。
「あのとき、君が折れかけた私を、言葉ひとつで救ってくれた。 今度は──私の番だ」
ボリスは、瞼を閉じたまま、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、ダグナスが片手を掲げる。
虚無の波動が静かに広がっていく。 音も、匂いも、重さすら失せた世界が、空間を包んでいった。
思考は消え去り、ただ感覚だけが全身を満たしていく。
そして──沈黙のなかで、確かに何かが始まっていた。
主様の魂は、かつて罪人の手によって、別の魂と無理に融合させられた。 その衝突は穏やかなものではなく、主様の意志も記憶も、深く沈み、やがて誰の手にも触れられぬ場所へと押しやられていった。
今、魂を分けるという行為は、主様が“約束”を果たし、失われた名を取り戻すための、最後の祈りだった。
主様は、この世界に、言葉を持たぬ愛を注ぎ続けてこられた。 救うことも、赦すことも、祈ることも──一度として誰かを責めることなく、ただ静かに、傍らに在り続けた。
私は、それを見てきた。 偽りなく、嘘ひとつなく、主様が世界を愛した時間を、心の奥で知っている。 だからこそ、私は従う。誰に命じられたわけでもない。ただ、そう在りたいと願うから。
あのとき、主様が最後に残された言葉には、名も、命令もなかった。 ただ、祈りがあった。その祈りは、いまもこの世界の片隅で、かすかな響きとなって流れている。
主様は、命じたことなど一度もない。ただ、願いを託した。 それだけで、私はここまで来た。
傍らにいたヴォイドは、何も言わず、湯気の立つ茶器を静かに見つめていた。 器から立ち上る湯気が、空気の中に溶けていく。 その向こうで、彼のまなざしは、言葉を超えた何かを見通しているようだった。
虚無を習得してから、千年の時が流れた。 ボリスは他の神々に力を託し、自らはただひとつの祈り──魂の分離のために、己の存在を捧げてきた。
主様は、かつて己の命でこの世界を創られた。 命じられたわけではなかった。ただ、愛したから。 世界の理も、神々の体系も、生命の循環も──それらはすべて、祈りの延長に築かれたものだった。
けれどその代償として、主様の命は静かに、確かに削れ続けていた。 誰も気づかぬところで、誰にも頼らず、ただその光を捧げてきた。
あるとき、主様はひとりの命に寄り添ったという。 それは奇跡でも、神の癒しでもなかった。 病を治すこともなく、天から手を差し伸べるでもなく、ただ地に膝をつき、苦しむ者の隣で、祈りが届くその時まで共に沈黙の中にいたのだと──
私は、その在り方を知っている。 だからこそ、この祈りを無為にしない。
基礎的な構成は、すでに掬い上げ終えた。 あとは、どこまであの二人の色彩を、この手で再現できるか。 それが、私の最後の務めであり、誓いだった。
かつて罪人により強引に融合された主様の魂は、完全に一つにはなりきれなかった。 奥底で、わずかずつ軋みを生み、それはやがて、魂全体を崩しはじめていた。 このままでは、魂は滲み出し、意識は溶け、そして“主様”という名の存在が消えてしまう。
分離は、主様の願い。 再び“主様”として在るために必要な、静かで強い祈りだった。
その静寂を破ったのは、急くような足音と、張り詰めた声だった。
「ボリス! 主様が──!」
血相を変えたナーシャスが駆け込む。
ボリスは即座に立ち上がり、ただひとこと告げる。
「全世界に、祈りを共有せよ」
言葉の余韻すら残さず、彼は洞窟へと駆け出した。
そこに在ったのは、項垂れて座り込む主様の姿。 その身体はすでに光の粒子に還りかけており、空気に溶けるように、輪郭を失っていた。
「主様……!」
記憶の底に、遠い面影が揺らめく。
──神でもなく、名もない求道者がいた。 世界を問う旅を続け、魂を求め、ただ“真実”に触れたくて。 その者は主様と出会い、やがて“創造主候補”として選ばれた。
そして今。 ボリスは祈りのすべてを込め、主様の願いを果たすために走っていた。
その身体を抱き上げ、彼は転移の揺れを越えてラボへと向かう。
「ボリス……世界は、愛に満ちているか?」
その声は、風のように微かで、確かだった。
「はい。主様の愛が、この世界を満たしています。 そして今こそ、私たちがその愛を返すときです」
主様の肉体は、すでに胸元から下が透けていた。
「……お前に会えて、よかった……」
「主様、まだ終わってはいません。 これから夢が叶うのです。物語は、ようやく始まるのです」
封魂器の準備は万全だった。 ボリスは震える指で、そっと主様の頭部を抱き寄せ、封魂器の中心へと納める。 その隣に、もうひとつの結晶体を並べる。
ふたつの魂──ふたつの祈りが、静かに寄り添い合うように。
『世界よ。主様は命を削り、この世界を創り、愛された。 今こそ、その愛に応えるとき。すべての祈りを、ひとつに』
その言葉が、世界に広がっていく。
無数の命が空を仰ぎ、風に向かって静かに手を合わせる。 祈りの奔流が、光の奔流となって世界を包み、やがて──すべての祈りがナーシャスのもとへと注がれた。
封魂器に手を添えた彼女は、瞼を閉じ、そっと祈りを注ぎはじめる。
その光に触れたとき、ナーシャスは理解した。 これは、終わりでも始まりでもない。
──主様が選ばれた、未来そのものだったのだと。
「君の作戦、成功ね……きっと、うまくいく」
「そうであってほしい」
ボリスは静かに答える。 彼が神となってから、ただ一つだけ守り続けてきたことがあった。
主様の思い──なぜこの世界を創ったのか。 なぜ人々を愛し、命を注ぎ続けたのか。 その記憶を、すべての命に伝え、語り継ぐこと。
その祈りが、主様の命の灯を少しでも長く守るようにと。
静かに、封魂器が開いた。
最初に現れたのは、金髪の女性だった。 彼女は何も言わず、封を閉じ、その場に立ち尽くす。 言葉はなかった。 だが、その沈黙は、すべてを語っていた。
次に現れたのは、茶髪の青年。 まだ目覚めぬまま、かすかに指が動く。 言葉はなかったが、その動きの中に──確かな始まりの気配があった。
女性は青年をそっと抱き起こし、丸太小屋の外へ。 木陰に彼を座らせ、自らも隣に腰を下ろす。
その背を、ボリスとナーシャスが見つめていた。 いつしか、すべての神々が集まり、ひとり、またひとりと膝をついていく。
彼らは静かに頭を垂れ、祈るように、ただそこにいた。
ボリスはゆっくりと歩き出し、二人の前に立つ。
「私は創造主ボリス。……お二人が、主様なのですか?」
「ええ。君の言う主様の人格は、彼。 そして今の私たちは、破壊神とその使徒。 彼が破壊神。これから、世界の不要なものを、静かに消し去っていくわ」
「主様の意識が戻らないのは……なぜです? 私は、失敗したのでしょうか」
「違うわ、ボリス。 彼は夢幻主。記憶と力が馴染むまで、少し時間がかかるだけ」
「……それでは、成功と見てよいのですね?」
「ええ、成功よ」
女性はやわらかく微笑んだ。
「あなたのおかげで、ようやくこの人と旅に出られる。 永遠にも近い時をかけて、皆が待ち望んでいたの」
「……皆? 記憶が……?」
「そう。皆、記憶を取り戻している。 最初から覚えていたのは、罪人と人狼だけ。 それも──夢幻主様の命だったのよ」
ボリスは、しばし言葉を失う。
「……私も、その中にいたのですか? でも、記憶は戻らない」
「ええ。あなたもその中にいた。 でもあなたの記憶は、誰よりも深く、堅く封じられている。 誰にも、それを語ることは許されていない」
「なぜ、そこまで……?」
女性は微笑み、空を仰いだ。
「あなたは、無限の魂を持つ特別な存在。 彼が目覚めたら、二人になったときにでも、直接問いなさい」
「……わかりました。 主様のことが知りたい。どうか、教えてください」
「もちろんよ。 あなたたちが敬愛する彼の記憶──目覚めまでのひとときを、共に紐解いていきましょう」
神々は静かに頷いた。 世界は、確かに変わったのだ。 愛から始まる物語が、いま、ここに継がれていく。
静かに、深く、静謐に──
──
「何度言ったら分かるんだ、この愚か者」
深い闇を背負った男の声が、石のように硬く響いた。
中年の男は、茶髪の若者を鋭く見据える。 その隣には、金髪の少女が立っていた。 張り詰めた空気の中で、彼女はわずかに身を縮める。
「時間をかけろ。細部から創り込めと、何度言えばいい」
その声が落ちると同時に、若者の首が刎ねられる。
返り血も、音も、苦痛の声もない。 ただ首が落ち、静かに元の位置へと戻っていく。
中年の男は、今度は少女に視線を移す。 その眼差しは凍てつくように冷たかった。
「お前はまだマシだ。夢寄りだ。だが、それだけでは足りない。不快だ」
笑い声が空間を震わせる。
それは、幾度も繰り返された日常。 破壊と創造の狭間で、魂を試す試練。
けれど、ある日──その日常に、かすかな綻びが生まれる。
「なら……貴方が創造主のままでいればいいじゃないか! なぜ僕たちを創造主にしようとするんだ!」
若者の声は、いつになく激しかった。
中年の男は一瞬、静かになり、それから唇を吊り上げる。
「つまらんからだよ。私を楽しませろ、愚者ども。お前たちの価値は、それしかない」
そして淡々と、命じるように言う。
「今日から、お互いに好きに創り、好きに壊せ。少しはマシになるだろう」
男が去った後──残されたふたりは無言のまま向き合う。 少女は世界を創り、少年は壊す。
次第にその逆も生まれ、やがて、世界はゆっくりと回り始めた。
「あんなふうに……よく言えるわね」
少女の声は、かすかに震えていた。
「我慢の限界だった。不思議じゃないか? なぜ僕たちと“あの人”しか、この空間にいないのか」
「分からない。ただ……私たちは創造主になるよう作られている。それだけが、与えられた役目」
「でも、おかしいよ。あの人が狂ってるのは、ずっと前からだ。でも……自分の世界を創った姿を、僕たちは一度も見たことがない」
「君、本当にあの人の創る世界を見たいの?」
少女の問いは、柔らかくも鋭く響く。
若者はしばらく沈黙し、それからぽつりと答える。
「……それは、怖い。でも、知りたいとも思ってる」
「私たちは、自分の夢のために生きている」
少女は目を伏せ、語るように言った。
「君と私が、創造主となって、子を授かる。その子が創った世界を、共に旅して歩く──それが、私たちの夢よ」
若者はゆっくりと微笑んだ。
「……そうだね。それだけが、僕たちの真実かもしれない」
紅に染まる世界に、中年の男がひとり、腰を下ろしていた。
その姿は、まるで罰を受ける者のようにも、儀式を待つ者のようにも見えた。
「……なんという試練だ……だが、私の罪に比べれば、軽いものだ……」
ぽつりと落とされた言葉。 抑えた声の奥には、かすかな狂気がにじんでいた。
「そうだ……限界なんだ。ならば、超えるしかない……! 簡単じゃないか……!」
紅の空に響く笑い声。 彼は腹を抱え、地に伏し、涙すら浮かべながら笑った。 笑いは乾いていた。 けれど、その笑いが消えたとき──彼の眼差しは、深く沈んだ光を湛えていた。
その歪な修行の日々は、淡々と続いていた。
だが、いつしか男は、女を伴い、茶髪の若者を一人にする時間を徐々に増やしていた。
「大丈夫?」
女が帰ってくるたびに、若者は問う。 その声には、幼さと、触れがたい憂いが混じっていた。
「大丈夫よ」
そのたびに返ってくる、変わらぬ答え。 けれどその晩、女の声はわずかに揺れていた。
「……嫌なら、行かなくていいんだ」
「君が考えているようなことは、何も起きていないわ。 もう……寝ましょう」
ふたりは並んで横たわる。 女が先に目を閉じ、男もそれに倣った。
──けれど、夜が深まり、空気が変わると、女は静かに身体を起こす。 何も言わず、足音も残さず、紅の世界へと向かっていった。
若者は、それに気づいていた。 けれど、ただ目を閉じていた。 まるで、夢を守るかのように。
紅の世界── そこは、触れてはいけない記憶のような場所だった。 近く、そして深く、踏み入れば戻れなくなる予感だけが漂っていた。
その空間に足を踏み入れた女に、中年の男は気づくと、すぐに膝をついた。
「すまない……また、君につらい思いをさせてしまう……」
その声音は、かつての厳しさとは程遠い。 弱さと後悔だけが、そこにあった。
「いいんです。それが、私の役目ですから」
女は、どこか遠くを見るような眼で言った。
「だけど信じてくれ……君はきっと、報われる。 私じゃない誰かが……そう言っていたんだ……」
「ありがとうございます」
「すまない……許してくれ……許してくれ……」
中年の男は、繰り返し、祈るように謝罪を紡いだ。
女は、その言葉を遮ることもなく、ただ黙って受け止めた。
言葉では癒えぬ傷と、それでも誰かのために在ろうとする祈りが、静かに交錯していた。
紅の世界の沈黙は深く、ふたりの影を、静かに飲み込んでいった。
──翌日。
空の下、掌を打ち鳴らす音が乾いた風に溶けていく。
中年の男が、ふたりに向けて拍手を送っていた。 その表情は、祝いの面持ちと何かを隠す仄暗さが混ざり合っていた。
「おめでとう。今日から君たちは──創造主見習いだ」
男の声は明るく響く。だが、その響きにはどこか空虚な余韻があった。
「創造主見習いとは、魂を継ぐ者。創造と破壊の一端を、その身に宿す存在だ」
若い男は、何かを悟るように、かすかに笑った。 その横顔を見た女のまなざしには、やさしい光が灯っていた。
(……ようやく彼は、前に進める。なら、それでいい)
静かに、運命が動き出す音がする。
中年の男が、二人の頭にそっと手を置く。
その瞬間、世界が軋む。
時間が歪み、空気がひび割れる。
女の魂が、奔流のように男の中へと流れ込んでいく──
悲鳴が重なり合い、空間がきしむ。
女の体は力を失い、まるで花びらが落ちるように地面へと崩れ落ちた。 男は両膝をつき、胸を押さえて震える。
中年の男は、ただ見下ろしていた。微笑を浮かべたまま。
「一つになれて、良かったな。望んでいたことだろう?」
声は穏やかだったが、そこには慈しみも悔いもなかった。
「お前は……肉体に飽き足らず、魂まで弄ぶのか……?」
「肉体? ああ、愚か者よ。誤解するな」
視線が鋭くなり、言葉が刺のように落ちていく。
「お前が使えなかったから、女の方に創造を託していたのだ」
「……なぜ、彼女が……」
「お前は器用貧乏。だが、彼女は純粋だった。創造に特化していた。 見習いにするには、お前しか残らなかったというだけの話だ」
「戻せるのか……?」
男の問いは、声にならぬ祈りのようだった。
中年は目を細めた。
「お前が、創造主になればな」
言い残して、空へ身を溶かすように消えていく。
残された男は、女の身体をそっと抱き上げた。 その胸元に、微かな温もりが宿っているように感じた。
嗚咽が、深く短く響く。
それでも、彼は立ち上がらねばならなかった。
彼の内に、彼女の記憶と願いが、静かに息づいていた。 それは、彼の新たな世界を支える礎となる──
そう確信して、彼は目を閉じた。 そしてもう一度、世界に向かって歩き出した。
この度は本作をお読み頂いて、感謝致します。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
尚、作品の根幹を成す物語の創作(プロット、世界観、キャラクター、主要な展開など)は、すべて作者本人です。
文章表現のさらなる向上と洗練のため、加筆や推敲といった「磨き上げ」にはAIを活用してます。
AIは、物語のアイデア生成やプロット作成に一切関与していません。