道に戻る
斜面が途切れていて、体が投げ出される。上半身が前のめりになり、目を閉じていることが怖くて目を開けた。眼下には、川の水が荒れ狂っている。尖った岩が、ところどころ顔を出しており、僕を待ち構えているように見えた。
周囲の景色が、猛スピードで駆けていく。風が服をはためかせ、髪を掻き散らす。今までの出来事が、走馬灯のように思い起こされた。カラス、じいちゃん…
「ぐえっ」
不意に、服の背中を後ろから引っ張られた。岩場の所々に、木の根や枝が生えている。森や崖以外の遠くの様子は、霧に包まれており先を見通すことはできない。
「助かった。木の枝にでも引っかかったのかな…?」
しかし、空中で宙ぶらりんの状態で、とても不安定だ。足の下に見える崖は、白く硬質な岩でできており、まるで、おろし器のような形状をしている。肌に掠っただけでも、皮膚を裂き体に流れる血潮を溢れさせることだろう。
用心して動かなければ、落としてしまうかもしれない。命も体も…
「フーー」
冷や汗が、こめかみを伝う。目線だけで、足場や手がかりを確認した。なんとかしてでも、崖を登らなければと、心ばかりが早鐘を打つ。体が緊張し、神経が研ぎ澄まされ、崖に叩きつけられる水音がよく聞こえる。
「ん?生暖かい風が、上からするような…?」
引っかかっているだろう背中に手を回す…何かフサフサな感触が手の平に伝わった。
突然、視界がぶれた。上下左右に体が大きく揺れる。何かに運ばれている?
「目が回る…ぅゔ…」
口を手で押さえ、吐き気に耐えていると、ようやく動きが止まった。下には、草や木の根が生えた地面が見える。
ゆっくりと降ろされ、恋しかった地面に座り込む。手を地面につくと、少し湿った土の感触や匂いがして、やっと僕は安心できた。何が何やら、訳がわからないが、どうやら助かったようだ。何かの影が、僕を覆い隠す。
「ありが…」
お礼を伝えようと、後ろを振り返る。僕は、驚きに目を見開いた。影の正体は、家の前で襲ってきた、あの黒猫ではないだろうか。夕陽を背にしており、瞳だけが爛々と煌めいている。カラスが言った「食われるゾ」という言葉が頭を過ぎた。
「や、やだ…食べないで…」
逃げようと、四つん這いでズルズルと移動する。猫が、こちらを痛いほど見つめている気配がする。早く早くと、気持ちだけが焦ってしまう。遂には、木が行手を阻んで立ち塞がり、それ以上は進めない。僕は背中を幹に預け、身を縮こませることしかできない。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
僕が逃げられないとわかると、黒猫が尻尾を細かく揺らしながら、巨体と思えないほど静かに歩いてきた。近づくにつれて徐々に小さくなり、僕の目の前に来る頃には、普通の猫程の体長になった。体の大きさを、自由に変えられるようだ…さっきより、怖くないかも。
「あれ?なんか…」
耳は少し横を向き、その満月のような目は、穏やかで敵対心があるように思えない。かわいい。落ち着いて観察すると、カラスが言っていた印象と、だいぶ食い違う。
僕の膝に、猫が頭を擦りつけてきた。心地よい体温とふわふわの毛並みに、突如、異界に飛ばされ荒んだ心が少し癒される。
「…君が、僕を助けてくれたの?」
猫は,「ニャアン」と鳴き声で返してきた。カラスみたいに、しゃべれないのだろうか。ただ、気遣ってくれていることはわかる。お礼のつもりで撫で返すと、嫌がることもなく受け入れてくれた。頬が緩む。
しばらくの間、戯れていた。
「可愛いね」
「ニャン」
「どうして助けてくれたの…もしかして、ずっと僕のこと見てたとか?」
「ニャアン」
「そんなわけないか」
「ニャー」
「まだ、心臓がドキドキしてる。本当に、ありがとう」
「ニャ、ニャアン」
「…ねぇ、僕と」
「シャー」
黒猫が、僕から離れる。急に、ぬくもりが消えてしまった。なんだか本当に、ひとりぼっちになったようで、寂しくて手を伸ばす。しかし、届かない。猫は立ち止まり、尻尾を下げ、耳を立て忙しなく動かし警戒しているようだ。
僕も耳を澄ませてみるが、葉の擦れ合う音しか聞こえない。
その時、突風が吹き葉や土を巻き上げる。腕で顔を守り、目を開けた時には黒猫は立ち去っていた。僕は、手のひらを見つめ、握りしめることしかできない。
ガサゴソと茂みが揺れ、カラスが、ひょっこり顔を出した。
「こんなとこニ、いたのカ。先を急ぐゾ!」
「ちょっと待って…」
「どうしたんダ?」
「腰が抜けて立てない」
「カァ…」
平静を保とうと心では、余裕ぶっていたが、体は正直だ。怖さで、今は力が入らない。