帰りたい
父さんや母さんの顔が浮かぶ。遊び回って、クタクタになって、家に帰ればパートを終えた母が、夕飯を作っていて、ただいまっていえばおかえりって返してくれる。そんな当たり前の幸せな日常が泡となって弾けていく。
カラスが指し示した山は、森が豊かで道も険しそうだ。父と以前、登山に出かけたことがあるが、途中まで車に乗って行った上で、父に必要なものを持ってもらい自分は、最小限の荷物だけで登った。観光地だったこともあり、道も整備されていたにも関わらず、慣れない山道で、苦労したことをうっすらと覚えている。
そう思うと、今の服装では心許なく、準備をしないと行けないと思った。だから、僕は自宅の方角へ足を進めようとする。
「どこ行くんダ?!」
「僕の家に行ってみる。山に登るんだったら、長ズボンとか靴とか必要だと思うし」
「無理だナ。新品のものヤ、むこうにあるものハ、ここにはないんダ。だかラ、お前の家もないゾ」
「もしかしたら、こんなに家があるんだから、人がいるかもしれないし助けを求めることができるんじゃない?」
現実感がなく夢見心地の気分で、ついつい都合よく考えてしまう。
「人はいネェ。いたらすぐ喰ワ、ごホッ、いても狂ってるカ、ヤバい奴しか残ってねェヨ…」
声のトーンを落とし、小声になって聞きづらい。
「なに?人がいないっていった後から、よく聞こえないんだけど?」
「はァ、仕方がねぇかラ、俺様が一緒にいてやるっていったんだよヨ」
カラスは元の調子に戻ると、僕の肩に飛び乗ってきた。重くはないが、乗られていることは、なんとなく感じる。正直、歩きたくないだけじゃないのかな?と疑ってしまった。
「そういえば、君は僕を招いたっていう霊は見ていないの?」
「…俺様ハ、お前の後ろにいたからナ。まァ、俺様には敵わないガ、ヤバくて強い奴だってことハ、わかったゼ!」
街並みは、見たことがないはずなのに、どこか既視感を覚えた。木製の街灯が立ち並んでいる。アスファルトで整備されておらず、土で踏み固められただけの狭い道路を進む。凸凹していて、足を取られそうになる。家との間の垣根は、木の板だったりチクチクしそうな葉っぱが茂っている生垣だったりで、分けられていた。手前には側溝があるが、蓋がされていない。茜色の空のままだから、足元が暗いので落ちないように他所見せずに、気をつけて歩いていこう。
ずいぶん進むと、以前に取り壊されたはずの酒屋が見えてきた。よくお使いで、買い物に行っていた場所だから記憶に残っている。確か、もう少し先に僕の家が、あったはずだ。
「まダ、つかねぇのカ?」
「もう少しだよ。あそこの丁字路を右に曲がって10mぐらいのところだよ」
この辺りに家があったはず。キョロキョロと辺りを見渡す。自宅があるはずの場所に、木が剥き出しの平屋がある。誰かが僕に向かって、大きく手を振っていた。驚きのあまり目を見開き、その場で立ちすくんでしまう。
「なんで、じいちゃんがいるの?しかも、アルバムで見た元気だった頃のままで…」
遠目からでもわかる。あのツルッとした光り輝く頭頂部。目尻を細め口角を上げ、笑顔を浮かべていた。背もシャキッと伸び、溌剌とした印象を受ける。
しかし,棺に入れられた時の姿は、目は落ち窪み頬はそげ、線香の重く漂う香りが鼻をつく。晩年は食事を受け付けない体になっていたから脂肪や筋肉が衰え背中も丸まり、一回り小さくなっていたのに…顔は土色で冷たく見るのが忍びなかった。
「久しぶりじゃノう、元気だっタか?」
「じいちゃん…」
天国にいると思ってた。でも、2度と会えないと思っていたから、姿や声を見て聞けただけで嬉しくて目が潤む。
母と父が共働きの為、よく祖父の家に預けられた。両親が恋しくて泣く僕に、根気よく付き添ってくれたんだ。時折、シワが刻まれた優しい手で、頭を撫でてくれた。祖父が旅立った直後は、幼くて理解できていなかったけど、今ならわかる僕も悲しかったんだ。
「会いたかった!」
頭で考える前に、足が勝手に動き出し走る。あと、2.3mで手が届くというところだった。
なんの前触れもなく、大きな影が祖父を切り裂いた。胴体から真っ二つに分かれて、中からドス黒いモヤが溢れ出てくる。地面に横たわった上半身は、壊れたように笑顔で手を振り、同じ言葉を繰り返す。
「久しぶりじゃノう、元気だっタか?」
「久しぶりじゃノう、元気だっタか?」
「久しぶりじゃノー」
「ひぃ」
祖父のようなものと距離をとりたくて、一歩後退する。冷や汗が噴き出て、こめかみから頬、顎と伝い落ち地面を湿らせた。生暖かい風によって髪が舞い上がり、頬に張り付いて不快感が増す。声も顔も本人なのに、違和感があふれ出している。これはなんだ…
それ以上、見ていられなくて視線を移す。大きな影は黒猫の姿をしていた。家の扉より体高が大きい化け物は、祖父に似ているものを踏みつけて睨んでいる。毛を逆立て牙を剥き出しにしていた。体格に見合った大きな口だ。僕なんて、ひとのみだろう。
「まずイ、ぼさっとしてたラ、喰われるゾ!逃げロ」
カラスが耳の横で騒ぎ立てるが、影に縫い付けられたように動けない。息が荒くなり、焦れば焦るほど足は微動だにしない。
祖父の体から霧散した一部の煙は、今度はネズミの形をとり、どこかへ逃げ去っていった。興味を失ったのか黒猫が今度は僕を見る。見覚えのある黄色い目と視線がぶつかった。その瞬間、体の自由を取り戻す。踵を返し前も見ずに、全力で走る。
後ろから迫ってくる気配や足音がしない。首だけ振り返ると、猫は、じっとこちらを見続けていた。心臓が、バクバクいっている。
「追いかけてこない?」
疑問の答えはでない。どうしてあの黒猫は、僕ではなく祖父を襲ったのだろうか。そもそも、あれは本当に祖父だったのか。わからない。頭の中で考えが堂々巡りしていく。
ただ、がむしゃらに走ることしかできなかった。