第40話 退院の挨拶
どうして?
無機質な音声案内を聞きながら荒木は困惑した。
確かに一月以上音沙汰無しだった。だけど美香だって球場であの事故を目撃したはずだし、その後救急車で搬送された事も知っているはずなのに。そう考えたら、一月連絡ができなかった事だって、やむを得ないってわかりそうなのに。
そこまで考えたところで、そういえば以前、しつこい客に付きまとわれて携帯電話を解約したという話をしていたのを思い出す。
もしかして、そいつに連絡先を知られてしまったのだろうか?
そういえば以前、美香はどうやって借金を踏み倒してお前から逃げようか考えているという話を広沢たちがしていたのを思い出してしまった。
考え始めたらきりがない。とにかく美香に会いにいかないと。
そんな事を考えながら合同練習を行っている総合練習場へ向かった。
荒木が来た事に最初に気が付いたのは池山であった。
大声で荒木の名を叫びながら池山が駆け寄って来る。その声に何人かの人が反応して集まってきた。今回は大変だったねとか、怪我の具合はどうなのとか、各々が口々に喋るので、正直何を言われているのやら全くわからなかった。だが皆の笑顔で、歓迎されているという事だけははっきりとわかる。それが何よりも嬉しい。
少し遅れて、選手たちをかき分けて日野監督が現れた。
日野は三度病床にお見舞いに来てくれている。一度目と二度目は、まだ意識が無い時であった。三度目は意識がある時で、医者からの話を報告すると、少し安堵した顔をしていた。
その日野が両手を広げて荒木の復帰を歓迎している。
「おお、荒木! やっと退院させてもらえたんだ。どうなんだ? 怪我の経過は」
荒木は少し照れて後頭部を掻き、ご心配をおかけしましたと声をかけた。
「まだ退院したというだけで、激しい運動が厳禁だそうです。本格復帰できるのは今月の末くらいからでしょうか」
しばらくは体力と筋力を取り戻すところから始めないといけない。
それすらも胸部の怪我の回復との相談となってしまう。
その報告を日野は目を細め、痛ましいという表情で聞いた。
「それじゃあ、あれだな。まず登別にでも行って、少し湯治してから戻って来るんだな。無理して回復が長引いたら、俺が関根監督に怒られちまうからなあ」
日野が冗談を飛ばすと、選手たちは一斉に笑い出した。
温かい。
全員が味方であり敵であるのに、この温かさ。
少なくとも前の監督の時にはこんな雰囲気では無かった。間違いなくこの雰囲気を作り出したのは日野であり、それこそが今二位という順位にも表れているのだろう。
ある程度、荒木と会話をすると、そろそろ練習に戻ろうと言って日野は選手たちの尻を叩いた。選手たちも笑顔で荒木に手を振り、自分の竜の下へと向かって行った。
練習試合を終え休憩している小川の元へと荒木は向かった。
「お前が退院できそうって話を聞いて、見付球団の本部から神部さんが来てたぞ。お前の退院後の復帰を手伝って欲しいって関根監督から指示されたって」
目の前の練習試合を見ながら小川は言った。
荒木も同じ試合を観察している。
「今日、退院祝いでもするかのように挨拶に来ましたよ。今週末から徐々にやっていこうって言ってました。ところで、あの人ですか、新たな指導者って。今度の人はどうなんです?」
前任の福富はあの後解任され、今月からその代わりに石井という人物が着任している。
石井は三年前まで見付球団の一軍で試合に出ていた人物で、そこから大学に行き指導法を学び、今回二軍の指導者となっている。年齢は四十代、まだ引退してそれほど経っていない事もあり、体形はほっそりとしている。
「高野と池山の話だと、かなり事細かに指導してくれるって言ってたよ。少しづつ色々なところを矯正してくれるんだってさ」
高野と池山だけじゃなく、どうやら小川も指導を受けたようで、言う事がわかりやすいと感じているのだそうだ。
「俺もうかうかしてられないっすね。俺の代わりに入った渡辺っての、中継で見ましたよ。かなり速く竜を追えますね、あいつ。あいつから先鋒の席を奪わなきゃって思うと気が重いっすよ」
荒木が競技場を挟んで反対側で休憩している渡辺を見て、かなり嫌そうな顔をした。その顔が見えたようで、小川は笑い出した。
「あれはお前と比べたらまだまだだよ。粗削りも粗削りだからな。確かに竜を走らせるのは速いんだけどな、最後の打ち込みの制御が絶望的でな」
小川は渡辺の打ち込みを『宇宙開発』と呼んで大笑いした。
映像を見ているので小川の言わんとする事が何となくわかり、荒木も大笑いである。
「俺がもし復帰したら誰が落ちるんでしょうね。伊東さんですかね、それとも野口ですかね」
そう荒木が言うと、その前にいつ頃復帰できそうなのかと小川はたずねた。
医師の許諾次第なのでわからないが、できれば来月の終わりくらいには復帰したいと思っていると荒木は考えている。最後の四連戦、そこに出場して一軍昇格の声を待ちたいと。
「焦る気持ちはわかるけども、勇んで傷が悪化したら元も子もないぞ。さっき監督が言ったように登別でも行ってこいよ。なんならそこで復帰のための練習してこいよ。その方が神部さんも喜ぶんじゃねえか?」
小川が笑うと荒木は苦笑いした。
実は神部からは先ほど全く同じ提案を受けているのだ。本当はあんたが登別で温泉三昧したいだけなんじゃないかと指摘してやろうと思ったと言うと、小川は大笑いだった。
「ところで、例の娘には連絡はとったのか? 携帯が無くてずっと連絡取れず終いだったんだろ?」
小川の言葉で、荒木の顔は露骨に暗くなった。
先ほど美香に連絡をしようと携帯を見た。
そこには着信通知が一件しか無かった。その一件は試合から数日後のもの。電話をかけ終わってから見ると、一通の電子郵便が来ていることに気が付いた。そこには退院したら連絡くださいと書かれていたのだ。
「じゃあ、彼女と連絡が取れてないって事? あれじゃねえの? 確かその娘、総合商店でお惣菜作ってるんだろ? 仕事中は電源切ってるとかじゃねえの?」
確かにその指摘もわかる。なぜなら荒木も最初に思ったのがそれだったから。
だが、よく考えれば、今日は美香の定期休みの曜日なのだ。
単に同僚に何かあって突発で勤務になっただけとも考えた。だがそれなら『電源が入っていない』という音声案内になるはずなのだ。
「『お客様都合』か……確かに一番可能性があるのは料金が払えなくて止められたってやつだな。でも、借金はお前が肩代わりしたんだろ? そんなに良い部屋に住んでるのか?」
美香の部屋は引っ越してから二回だけ行った事がある。
前に住んでいた苫小牧の部屋は見られたら恥ずかしいくらいボロボロの部屋だと美香は言っていた。日高の新居は、見られて大丈夫な部屋がこれなのかと思わず絶句するほどのボロ家であった。
これで大丈夫なら、いったい苫小牧ではどんな部屋に住んでいたというのか。まさかとは思うが公園の遊具が家だったりするのだろうか、そう訝しむくらいには今住んでいる家もボロだったのだ。
「わかった。俺、明日朝牧場の手伝いしたら、そっからは空くから、一緒にその娘を探しに行こうや。じゃないとお前も練習に身が入らないだろ?」
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