第35話 目が覚めたら病院
目が覚めると無機質な白い天井が視界に入った。布団に横になっていて、ピコンピコンという音が定期的に鳴っている。
体のあちこちが痛い。固定されているのか首が動かない。
誰かが胸の上に乗っているかのような強い圧迫感を感じる。さらに胃の辺りに痛みを感じる。
ただ四肢は動く。
「あ……あ……」
発した声に誰かが反応し、声をかけてきた。
誰だろう?
息が苦しい……
思考が……曇る……
◇◇◇
――目の前にボロボロの民宿が見える。
「今年もお世話になります! 昨年はこちらでお世話になったおかげで、夏の大会で非常に良い成績を残せました。今年は去年以上の成績を残せるよう合宿に打ち込んでもらおうと思っていますよ」
川上教頭が安達夫妻に笑顔でそう言った。
それを聞いた安達夫妻は実に嬉しそうな顔をしている。
「じゃあ、私も腕によりをかけて、皆さんのお食事をつくらないとですね」
美香の母は目を細めて目尻に皺を寄せて笑顔を作った。
こういう顔をすると、本当に美香ちゃんはお母さんによく似ていると感じる。もちろん年齢が違うから、お母さんの方が慈愛を多く感じるのだが。
「今年も皆さんが来られるという事でね、私たちの方もあちこち修繕できるところは修繕しましたからね。昨年のように戸が外れて大騒ぎなんて事は無いと思いますよ」
美香の父も川上に嬉しそうな顔を向けた。
そういえば前年はこの時点で広岡先生と安達さんとで、『福田』の読み方で揉めたんだっけ。
戸が外れて大騒ぎか。あったなあそんな話。
確か川村先輩だったよな。それを宮田先輩と藤井先輩が壊した壊したと茶化したんだった。
「荒木さん、あの二階の娘、誰ですか? めちゃくちゃ可愛いじゃないですか!」
嬉しそうな顔してるな、長縄のやつ。俺を見ずに美香ちゃんに釘付けになってるじゃん。
「美香ちゃんって言って、この家の一人娘だよ。絶対に手を出すなよ。出したら来年からここに来れなくなるぞ」
長縄にそう忠告して美香に微笑みかけると、美香は笑顔でこちらに小さく手を振ってくれた。
可愛いなあ。
長縄だけじゃなく、溝口も樽井も手を振ってくれたと奇声をあげる。
そんな一年生たちを貝塚がじとっとした目で見ている。
いつからなのだろう?
美香ちゃんが俺の事をそういう風に思うようになったのって。
少なくとも一年目の時にはそんな風では無かったように思う。
みんなで楽しく西瓜を食べて花火をした。その時には輪に入ってはいた。だが、みんなと一緒に楽しんでいるという感じで、俺とどうのという感じではなかったはず。
でも二年目の時は最初からどこか打ち解けていた気がする。
初日の早朝に便所から出てきたところで声をかけた時も、驚いてはいたが、その表情は怒るというより恥じらっているという顔であった。
二軍の試合を観に行った時は何となくそういう仲に感じていた。
「あの、花火の時、少しだけお話しませんか?」
俺が一人だけになった所を見計らって、手を引いて皆から死角になった場所に連れて行かれ、もじもじとしながらそう言われた。
俺はあの時、美香ちゃんはそういう気なんだと思って口付けをしたのだが、美香ちゃんもそういうつもりだったのだろうか?
それとも雰囲気に流されたのだろうか?
今にして思うと、美香ちゃんは結構雰囲気に流される質に思う。
あの雪の日だってそうだ。
成り行きとはいえ、久々に会って、いきなりそういう宿に行って、二人で抱き合って。
そんな事を考えていたら、無性に美香ちゃんに会いたくなってきた。
きっと今頃、総合商店で頑張っているんだろうな。
三角巾付けて、肉じゃがやら、きんぴらごぼうやら、いんげんの白和えやら、作ってるんだろうな。
「大丈夫かな? 私、今日結構にんにくを使ったお惣菜を作ってたから臭ってない?」
そんな風に真顔で聞いて来た事があった。
いちごのような香りがすると言った時の美香ちゃんの顔がまた可愛かった。
「ああ、今日ね、お惣菜の後、いちごを切って甘食を作ったの。ちょっと食べさせてもらったけど美味しかったよ」
笑った時にできるえくぼ。
あのえくぼがたまらなく可愛いんだよな。
美香ちゃんに会いたいな――
◇◇◇
ゆっくりと何かの景色が見える。
目が横長だというのはこういう時に実感する。
最初、横に長い線が見え、それが徐々に上下に厚みを帯び、最終的に一つの景色を映し出す。
前回も見た白い無機質な天井。そしてピコンピコンという定期的に鳴る電子音。
誰かが手を握っている。
この温かい温もり。誰の手だろう?
「あ! 雅史起きた? 良かった! 私、心配して会社休んで北国まで飛んできたんだよ!」
……お前かよっ。
何で姉ちゃんに手を握られて目を覚まさにゃならんのだ。
良かった良かったと言って頭を撫でる姉の澪。
いつまでも小学校の頃のままの感覚なのだから困ってしまう。
面倒そうな顔をしたのがわかったのだろう、姉は父さんと母さんを呼びに行ってくると言って病室を出て行った。
姉が出て行ったのに、誰かがずっと俺の手を握り続けている。この手はいったい誰なのだろう?
「ああ! 雅史! 良かった! 一回起きたと思ったらすぐにまた昏睡状態になるもんだから、もしかしたらって思って心配したのよ」
母が顔の近くの椅子に腰かけると、俺の手を握っていた手が小刻みに震えた。
「婆さん良かったな、雅史が目を覚まして。目が覚めれば大丈夫って先生も言ってたから。きっともう大丈夫だよ」
父がそう祖母に声をかけた。
そうか。その手は婆ちゃんか。婆ちゃんもわざわざ北国まで来てくれたのか。
「良かった良かった。まだ雅史を迎えに来んでくれってお願いしたのを、爺さん聞き届けてくれたんだな」
良かった良かったと祖母は何度も繰り返した。俺の手をぎゅっと両手で握ったまま。
「婆ちゃんね、あんたが買ってあげた電視機であんたの試合を観ててね。雅君が、雅君がって大騒ぎだったんだよ。婆ちゃんびっくりして過呼吸になっちゃって、そっちの方が一大事になりそうだったんだから」
姉がけらけらと笑う。
なあ、姉ちゃんさあ、それどう考えてもそんな風に笑って話す話題じゃないだろうよ。
「私もびっくりしわあ。婆さんの部屋に行って電視機見たら、あんたが血を吐いて倒れているんだもん。しかもぴくぴく痙攣してて、完全に意識が無い感じで。もう駄目かもってちょっと覚悟しちゃったじゃない」
よく見ると母の目は少し潤んでいる。
その時の事を思い出して今は安堵の涙といったところだろうか。
それにしても、血を吐いて倒れたって、いったい何が起きたんだろう?
どう考えても単なる落竜じゃない。
そもそも落竜なんてこれまで何度も経験してるけど、普通はそんな大事にはならないはずなのに。
「そうだ澪! 看護婦さん呼ばないと!」
そう母に促され、姉はまたぱたぱたと音を立てて病室を出て行った。
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