第19話 美香からの連絡
約束の三か月を迎えようとしている。
すでに長く厳しい季節は終わりを告げ、降り積もっていた雪はすっかり溶け、道のあちこちから強い生命が顔を出している。そんな生命たちに頻繁に恵みの雨がもたらされている。
牧場は竜の羽化の季節を迎えている。
この季節はとにかく忙しい。自分たちの牧場の竜の世話を終えると、すぐに荒木たちは近所の牧場に手伝いに駆けつけている。
見付球団が委託している牧場は生産牧場ではなく、放牧と馴致の牧場なので、いつも世話の内容は変わらない。だが周囲の牧場は羽化で大忙しで、竜の世話にまで手が回らないのだ。
残念ながらあれから一度も美香から連絡は無い。
こちらからは連絡を取るなと小川から言われており、毎日暇さえあれば携帯電話を確認している。だが何度確認しても着信の履歴は無い。
美香を信じてはいる。信じてはいるが、広沢たちが言った事がどうしても頭をよぎってしまう。今頃どうやってお前の前から逃げようか考えているというあの一言が。
美香とのあの思い出の一夜から無常にも三か月が過ぎ去ってしまった。
もう美香の事は諦めよう、口にこそ出さなかったが、荒木は吹っ切れたような顔をしていた。
他の選手たちも話は聞いており、そんな荒木を慰めるように頻繁に呑み屋に誘っている。
最初こそ荒れるような呑み方をしていた荒木だったが、一週間も過ぎると穏やかなものになっていた。
今後どこかに車で出かけよう。そんな話を秦、小川、伊東としていた。
竜の羽化も少し落ち着き始めたある休みの日の事であった。
朝食を食べ終え小川たちと談笑していると、突然荒木の携帯電話が鳴った。
最初は実家の誰かだろうと思っていた。
少し前にお茶を貰ったからと飲むようにといって婆ちゃんから寮に二袋も送られてきている。
不思議なもので、寮の誰かしらの親が茶葉を送ってくるので、頻繁に茶を飲むわりに寮には常に茶葉が常備されている。
これがいかにもお茶どころに本拠地を置く見付球団の寮だなあという気がする。
思い起こせば、その御礼の連絡をまだ実家には入れていなかった。しまったなと思いながら荒木は携帯電話を取り出した。
だが、そこに表示されていた番号は知らない番号であった。
以前聞いていた美香のものでもない。
恐る恐る荒木は電話に出た。
「あの……荒木さんの電話で合っていますか? 安達です」
その一言で荒木はがたんと椅子から立ち上がり、大広間から飛び出して行った。
「美香ちゃん? 俺だよ! どうしたんだよ、連絡してって言ったのに全然連絡くれなくて。心配してたんだよ」
荒木がそう言うと電話先で美香は、「あっ」と言ったまま黙ってしまった。
どうしたんだろうと美香の言葉を待っていると、なんだか鼻をすするような音が聞こえてきた。
「ごめんなさい。私……電話したかったのに、色々あって電話できなくって……」
その声の震えで、荒木は美香が泣いているという事を察した。
どう声をかけたものか非常に悩んだ。最初に『ごめんなさい』と言われてしまった事で、色々な事を勘ぐってしまった。
「それで、その、やっと日高に引っ越しできたんです。それで、その、もしよかったら……」
荒れてぬかるむ湿地のようだった荒木の心に春の風が吹き抜けて行った。
その暖かな風によって、そこかしこの蕾が花開く。
「うんうん! 美香ちゃんさえ良ければ今日会おうよ。一緒にご飯でも食べに行こう!」
電話先で美香が小さく「うん」と返事する。
信じていて良かった。
その可愛い返事で荒木は心底そう感じた。
待ち合わせは日高の駅前。
小川に車を借り、約束の三十分も前から待ち合わせ場所で待機。
小川と伊東から、なるべく休みの日にふらっとやってきたという恰好でと言われ、まるでこれから竜杖球の練習にでも行くのかという恰好で向かった。
あれから三か月半。ただひたすらにこの日を信じて待った。
荒木の心はまるで遠足を翌日に控えた夜のように高鳴っている。
少し待ったところで市内周遊の輸送車が駅に到着。
数人の乗客が降りてくる。その中にやや茶みを帯びた長い黒髪の女性が混ざっていた。
あの時のような際どい恰好ではない。
全体的に紺色を基調とした落ち着いた服装。長めの花柄のワンピースに、軽く上着を羽織っている。装飾品は一切身に着けていない。
前回のような派手目の化粧ではなく、なるべく自然に見えるような化粧をしている。紅の色は淡い柿色。
美香は右手を大きく左右に振って笑顔で荒木の元に駆けて来た。
少し瞼が腫れている気がする。やはり先ほどの電話で美香は泣いていたのだろう。
荒木の顔をじっと見つめる美香。
嬉しさからか瞳が潤んでいる。
荒木は感動で言葉が出なかった。
「お待たせしてしまってごめんなさい。本当はすぐに引っ越ししたかったんだけど、その、引っ越しってもの凄くお金が必要で、なかなか簡単にいかなかったの」
少し恥ずかしそうに美香は言った。
そんな美香を荒木はぎゅっと抱きしめた。
「ちょ、ちょっと荒木君、こんなとこで……」
拒んではいないが、困惑したような声。
ただ、その手は荒木の胸に添えられている。
「ずっと会いたかった。寮のみんなから自分からは電話するなって言われてて。だからずっと待つしかなくって。もしかしたらもう離れ離れになちゃうかもって思うと、不安で不安で……」
美香を抱きしめる腕に力がこもる。
呟くように「ごめんなさい」と言って、美香は頭を荒木の胸に傾ける。
くぅぅ。
可愛い音が美香から聞こえて来た。
耳を真っ赤に染め上げて美香は俯いてしまった。
「ご、ごめん! そうだったよね、ご飯食べに行こうって言ってたんだよね。同僚からさ、車を借りて来たんだよ。だから前から行きたいって思ってた拉麵屋に行こうと思うんだけど、それで良いかな?」
少し慌てた荒木の態度で、お腹の音が聞こえてしまった事がわかってしまい、美香はぎゅっと唇を噛んでこくりと頷いた。
車に乗り込み、荒木は郊外にある拉麵屋へと車を走らせた。
よほど先ほどの音が恥ずかしかったらしく、美香は涙目で俯いている。
可愛い音だったのに。誰だってお腹くらい鳴るのに。荒木からしたらそんな感覚なのだが、美香にしてみたらこのまま消え去りたいくらい恥ずかしいらしい。
「そういえば、美香ちゃん携帯電話の番号変えたんだね」
荒木からしたら何気ない会話のつもりであった。
だが美香の口から発せられた理由に、荒木は聞くんじゃなかったと後悔した。
あの後、前の店の質の悪いお客に付きまとわれたらしい。
何度もお店に来て、肉体関係を求めて来ていたお金持ちの客がいた。なぜか多額の借金の事まで知っていて、金なら出すと何度もしつこく言われた。しかも店長に何とかしろとねじ込んだらしく、頻繁に一晩くらい良いじゃないかと言われていた。
その客がお店に注ぎ込んでいるお金の額に、徐々に断りきれない雰囲気になっていた。
そんな時に荒木君と再会した。
もしあのまま荒木君と会わなかったら、厳しい借金生活にどこかで色々と諦めてしまっていたかもしれない。
店を辞めたのに、どういうわけか携帯電話の番号を入手し、何度も連絡を取って来た。いくら出すから会わないか?と。
結局、なけなしのお金で携帯電話を契約しなおす事になってしまい、引っ越しのお金が足らなくなってしまったのだった。
俯きながらそこまで独白すると、美香は顔を上げ、荒木を見て、ニコリと微笑んだ。
「今日まで大変だったけど、今の私には荒木君がいるから。だから今日から色々とやり直すの」
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