第16話 雪降る熱い夜
すでに終電は無い。
拉麵屋を出た荒木と美香は、苫小牧駅前の広場近くの喫茶店に入った。
外は降り積もった雪が土手のようになって歩行を妨げており、安達荘のあの夜のように星々の下で語り合うという環境ではない。
注文した珈琲を前に二人は向き合ってじっと黙っている。美香はじっと珈琲を見つめ、荒木はそんな美香を見つめている。
何と言って声をかけるべきか。
最初に思いついたのは「あれからどうしてたの?」であった。だが、今の美香の恰好を見れば、おおよその見当は付く。安達荘の惨状を考えれば、その理由もお察しである。
美香だって、そんな話はしたくないであろう。
かといって、この雰囲気で急に明るい話題を振るのも、美香だって気持ちの切り替えができないであろう。少しでも思い出話のような事に話が流れたら、また泣き出してしまうかもしれない。
何と声をかけたら良いか何も思い浮かばない。
美香がずっと黙り続けている以上、こちらから話をするしかないのに。
「ごめんね。俺があんな事しちゃったから、明日からお仕事、行きづらくなっちゃったよね」
やっとかけた言葉がそれであった。
荒木の顔をちらりと見て、美香は無言で首を横に振った。だが、荒木の顔を見ているのが辛いのか、また視線を珈琲に戻されてしまった。
既にゆらりとしていた湯気は消え、すっかり温くなってしまった珈琲に。
聞きたい事は山のようにある。
だけどもはやどこから聞いたらいいかわからないし、今の雰囲気では聞けない事が大半である。
「気にしないで……また、別のお店、もっと健全でお金の良いお店探すから……」
美香の顔を見ていたら、どういうわけか急に美香が遠くに行ってしまうんじゃないかという不安に襲われた。
「それってもしかして北府の夜のお店って事?」
荒木の指摘に、美香はびくりと肩を震わせる。
きゅっと唇を噛み、美香は荒木から顔を背けた。
「仕方ないの……こうするしかないの……」
そう言うと美香は、また瞳に涙を滲ませた。
荒木もそれ以上は何と声をかけて良いかわからず、二人は無言のままであった。
そんな二人に店員が珈琲のおかわりはどうかと聞いてきた。
もう帰りますからと言って荒木は丁寧に断りを入れた。
紙布巾を一枚取り出し、そこに自分の携帯電話を書いて美香に差し出す。
「これ、俺の連絡先。どんな些細な事でも良いから、ここに電話して。美香ちゃんの声が聞けるだけで俺嬉しいからさ。困った事があるんだったら何でも相談に乗るから。ね」
だから黙って俺の前からいなくなるのだけは止めてくれ。
やっと再会できたのだから。
そう言って荒木は精一杯の誠意を微笑みに込めた。
紙布巾を見た美香は、堪えていたものがついに目からあふれ出してしまった。
「ごめんなさい……約束守って……会いに来てくれたのに……私……」
席を立って美香の隣に座り直し、その細い肩に手を置き抱き寄せる。
荒木の服を掴んで、美香がぽろぽろと瞳から雫を落とす。
そんな美香の頭を荒木は優しく撫でた。
会計を済ませた荒木は、美香の肩を抱き店を出た。
家まで送ろうかと声をかけたのだが、美香は首を横に振った。
「荒木君はどうするの? 乗合い車で帰るの?」
何とも言えない切ない顔で美香は聞いてきた。
その表情に荒木は胸の鼓動を高鳴らせる。
「いつもは朝早くからの仕事なんだけど、明日は休みの日だから、その辺に泊まってから帰ろうって思ってる」
そう言って荒木はぶるりと体を震わせた。
ぼたぼたと大粒の白い塊が天から無数に降りて来た。
絶対にさっきの番号に連絡してねと言って、美香と別れようとした。
だが、美香はそんな荒木の服をぎゅっと掴んだ。
「もう少しだけ、一緒にいて欲しい……」
恥ずかしそうに俯きながら美香は言った。
こんな桃色一色の部屋初めて入った。それが最初の荒木の感想であった。
しかも薄暗い。ここまでいかがわしくする必要がどこにあるのだろうか。
寝台に二人で腰かける。
隣に座る美香は真っ赤な顔で耳まで赤く染めて俯いている。照明でそう見えるだけかもしれないが。
恐怖心があるのか、その表情は酷く緊張しているようにも見える。
普通の簡素な宿に泊まろうとした俺に、電飾の派手な宿を指差したのは美香の方なのに。
美香の肩に手を回すと、美香はぴくりと身を震わせた。
顔を近づけ、唇に唇を触れさせる。
顔を離すと美香の顔は急に穏やかなものになった。
「冷えちゃったから、少し温まってくるね」
そう言って美香は風呂場に向かって行ったのだった。
とにかく美香を感じ続けたいと思い、そこから荒木は必死に美香を抱きしめた。
乱暴に扱ったらすぐにでも壊れてしまいそうな繊細な硝子細工のような体を。
外は雪が激しく振っている。
明日の朝、日高に帰れるか不安になるくらい。
だが部屋の中は少し暑いくらいであった。
荒木の腕を枕に裸の美香が寝ている。
細く綺麗な指が荒木の胸にそっと添えられている。時折寝息が脇腹に当たり、少しこそばゆい。
化粧の落ちたその顔は、あの時安達荘で見たまま。
ただ髪が伸びているだけ。
そんな俺の視線を感じたのか、美香が目を覚ました。
荒木の顔を見て、優しく微笑む。
「美香ちゃん。ちょっと聞いて欲しい事があるんだ」
桃色の天井を見つめたまま荒木は言った。
そんな荒木の横顔を美香がじっと見つめている。
「俺、あの時、美香ちゃんたちの民宿でお世話になったおかげでさ、こうして職人選手になれたんだよ。俺さ、契約金っての貰えてさ。それ全部美香ちゃんに託すよ」
荒木の提案に美香は驚き、半身起き上がった。そのせいで、白い胸の膨らみが露わになっている。
ふるふると首を横に振る。ふるふると形の良い胸も横に揺れる。
「駄目よ、そんなの! だって私と荒木君はまだ……ううん、それでも私、そんなお金貰えない」
まだそんな仲じゃない。そう言おうとしたのだろうが、今の自分の姿と昨晩の事を急に思い出し美香は赤面した。
だが、それでも荒木の提案は到底受け入れられるものでは無い。
明らかに困惑する美香に、荒木は優しく微笑んだ。
「あげるんじゃないよ。貸すだけ。もちろん無利子でね。美香ちゃんの御両親への謝礼もあるから、返してくれるのは一部で良いよ」
こうして気が向いたら会ってくれるだけで良い。
一緒にどこかに出かけてくれるだけで良い。
「婆ちゃんに言われたんだよ。このお金はお前がとっておきという時に使いなさいってね。今がそのとっておきだと俺は思うんだ」
そう言って爽やかに微笑む荒木に、美香はまた瞳を潤ませた。
白い布団にぽたりと雫が落ちて、そこだけが灰色に染まる。
唇を震わせた美香は、荒木の胸にうずくまって泣き出した。
そんな美香の頭を荒木は優しく何度も撫でた。
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