第2話 勧誘が来た
修学旅行から帰って来た三年生たちは、そこから三か月間大学受験に向けて勉強に励む事になる。
ただ福田水産高校は校名からもわかるように水産高校である。普通科以外に水産科という科がある。ようは水産業に従事しようとしている人たちに向けた科である。
当然のように女子はいない。男子ばかりの非常にむさくるしい教室である。
水産科では通常の必須授業の他に水産科特有の授業がある。
一年生の時点で全員船舶免許を取り、二年生になったら洋上授業がある。三年生になると漁業実習として漁船に乗り込んで実際に漁に出る。
荒木、戸狩、杉田は全員普通科。大久保、石牧も普通科なのだが、福島が水産科。
その為、福島は洋上授業に行っている。
修学旅行から帰り、三年生が漁業実習に入ると学校はどこかいつもよりも静けさを醸し出していた。何かと騒がしい水産科の人たちがいないというだけで、学校はこうも静かになるのかと普通科の人たちは笑い合っている。
そんな中、職員室からの呼び出しがあった。
呼び出しの相手は史菜。
廊下から外を見ると、校門の前に車が数台止まっている。その時点で史菜が呼び出された理由が察せられる。
次の休み時間に校門前を見ると、先ほどとは異なる車が数台止まっていた。
さらに次の休み時間には別の車が数台止まっている。よく見ると最大手の放送局の社名の入った車が何台か混ざっている。
いつも見ている放送局の名前に、廊下に出た生徒たちは騒然となってしまっている。
その日、午前中の授業を史菜は全て欠席した。
休み時間にも戻ってこず、職員室に行ったまま。昼食の時間になって帰って来て、ぐったりしながら荒木の前で昼食を取った。
「もう、疲れた……まだ午後からも説明があるんだって……」
全社資料をまとめて渡してくれて、後で見ておいてって言ってくれれば楽なのに。時間を区切って一社一社まるで面談のように説明をされる。だから似たような感じの説明を繰り返し聞かないといけない。弊社はこう、弊社はこうと言うけれど、はっきり言って差など無い。大手は給料が良いという程度。
今日で全部説明は終わりなのかとたずねると、さあと言って史菜は面倒そうな顔をする。「はあ」と吐息を漏らす史菜を見て、荒木は肩をポンポンと叩いて慰めるくらいしかできなかった。
結局、翌日の昼まで、放送局からの勧誘で史菜は職員室に入り浸りであった。
昼食の時間、戸狩と諸井が一緒にお昼を食べようと言ってやってきた。
二人にも史菜は散々に放送局の勧誘の件を愚痴りに愚痴った。
これが実際の勧誘の資料だと言って封筒の束を三人に見せる。どれを見てもよく知っている放送局ばかり。全てを合わせると辞書のような厚さになってしまっている。
そのうちの一つをパラパラと見ていた諸井がどれにするつもりなのとたずねた。
荒木の顔をちらりと見て、史菜は手をもじもじとさせる。
「今は幕府の放送局にしようかなって思ってる。まだどれって決めてるわけじゃないんだけどね」
戸狩も諸井もそれ以上の事は聞かなかったが、恐らくは荒木が幕府で仕事をしたいと言ったのだろうなと察したらしい。
なんとなく戸狩の顔を見て、戸狩くんはどうするのと諸井がたずねた。
「俺は頭の出来が良くないのにアレで運動障害が残っちまったからなあ。とりあえず経理を学んで事務屋になるしかないかもな。竜に関わる仕事がやれたら楽しそうだなとは思うけど」
昨年の夏、戸狩は死線を彷徨った。荒木だけじゃなく史菜も諸井もその事は知っている。
あんな事が無かったら、きっと戸狩も今年の夏の大会に選手として出ていただろう。
この先の事だって、もっと多くの選択肢があっただろうに。
「戸狩君、一緒に戸狩君ができる仕事を探して行こうよ。きっと見つかるよ。戸狩君が心からやりたいって思うような素敵な仕事が」
戸狩の手を両手で取って、諸井は自分の豊満な胸に寄せた。その仕草に戸狩は照れて、諸井から視線を反らす。
そんな二人に荒木と史菜は何となく居心地の悪いものを感じた。
史菜がさんざん勧誘の事を愚痴っていた翌日の事だった。
職員室から荒木も呼び出しがあった。
史菜の事があった翌日である。荒木にもどこかから勧誘が来たんだと、三年生の教室の廊下はお騒ぎとなった。見れば校門前に車が止まっている。
真っ先に喜んでくれたのは史菜だった。全力で駆け寄って来て首に抱き着き、おめでとうと声をかけた。その瞳は薄っすらと潤んでいる。
そこに送球部の長崎がやってきてやったなと声をかけてきた。
宮田さんみたいに俺も送球で勧誘なのかなと荒木はお道化て笑う。
そこからも職員室へ向かう途中で何度も何度もおめでとうと声をかけられた。
あまりにもおめでとうと言われるものだから、これで実は教師からの叱責だったらどんな顔して帰れば良いんだろうとかなり不安になった。
職員室に入ると武上先生が駆け寄って来て、遅いと怒られてしまった。
そんな武上の服装はいつものくだけたものではなく、ぴっしりとした正装である。
武上は荒木の手を取り、職員室の奥の応接室へと荒木を引っ張っていく。
なんでだろう。別になんの感情も無いはずなのに、女性にこうして手を握られると照れてしまうのは。
小さく咳払いをし、武上が応接室の扉をこんこんと叩く。
中からどうぞという川上教頭の声がする。
中には応接用の長椅子と、一人用の椅子が二脚置かれ、その間に応接机が置かれている。
長椅子には見知らぬ男性が二人腰かけていて、対面の一人掛けの椅子の片方に川上が座っている。
応接机の横に場違いな簡易椅子が一脚置かれている。
よく見ると床には絨毯が敷かれていて、周囲にはこれまで学校として貰ったらしい優勝杯が置かれている。
こんな部屋があったなんて知らなかった。それが荒木の最初の感想であった。
キョロキョロと見回しながら入室し、簡易椅子に座ろうとすると、川上が慌ててそこじゃないと言って自分の隣の椅子に座るように促した。
そんな荒木の行動に長椅子の男性たちはクスクスと笑い、川上は恥ずかしさで額をこすった。
応接椅子なんてものに初めて座るから、どうにも勝手がわからない。深々と腰かけると、思った以上に椅子に体がもぐり、後に倒れそうになる。ひじ掛けに両手を付き、少し浅めに腰かけると、これはこれで座り心地が悪い。
こんな椅子に座るくらいなら向こうの簡易椅子の方が良かったなどと考えていると、その簡易椅子に座った武上が荒木を指差し、二人の男性に紹介した。
武上が小声で「荒木君、挨拶」と促す。
荒木はばっと立ち上がり「荒木雅史です」と名乗ってお辞儀をした。
二人の男性も席を立ち、名刺を荒木に差し出した。
当然荒木は名刺を受け取る作法などというものは知らない。片手で受け取ろうとすると川上が「両手で」と小声で注意した。慌てて両手で受け取ると、男性たちはまたクスクスと笑った。川上と武上は目を覆っている。
男性たちは幕府球団の人たちであった。
このような待遇で、これだけの給与を出そうと思っているのでうちに来ていただきたいと勧誘者は述べた。その金額に武上が眉をひそめる。
荒木からは武上の表情は見えなかったが、川上からは見えたらしい。
小声で武上にどうかしたのかとたずねた。
「あ、いえ、その……こういうのって年俸以外に契約金っていうのがあるって耳にしていましたので、そういうのは無いんだなって思っただけです」
思った事をそのまま口にしてしまった武上を、川上がはしたないとたしなめた。たしなめはしたが、川上もそこが気になっていたらしい。
「契約金というのはコネのある学校から選手を勧誘する際に提示するものなのですよ。曜日球技の職業球団でもそれは同じだと思いますよ。もしかして、あまりそういった経験がこちらの学校ではありませんか?」
勧誘者の説明に、川上は不勉強で申し訳ありませんと謝罪した。謝罪はしたが、その表情は強張ったままであった。恐らくだが、昨年送球で勧誘を受けた宮田には契約金の提示があったのだろう。
そこから、ご存知だとは思うが幕府球団は全国戦で何度も優勝を果たしている球団だと勧誘者は自慢を始めた。
我々の一員となって瑞穂一の称号を一緒に勝ち取ろうと荒木に呼びかけたのだった。
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