第43話 寂しいな
合宿の最終日、昨年同様安達夫妻は花火を用意してくれていた。
さらにはまだ出始めの西瓜を買ってくれて振舞ってくれた。
一年生たちは安達夫妻と一緒に花火で大はしゃぎ。
貝塚も武上先生と一緒に大はしゃぎ。
そんな喧噪の中、一人荒木はこっそり安達荘を抜け出していた。
「お待たせしちゃったかな。ごめんね。皆の目を盗んで抜け出すのに苦戦しちゃってさ」
ううん。
月光の弱々しい薄明かりに照らされた美香は荒木の顔を見て微笑んだ。
周囲は一面の牧草地。
街灯もろくにない。
ただただ星々の瞬きが綺麗。
今にも濃紺の夜空に飲み込まれてしまいそう、そんな錯覚さえ覚える。
昨日美香は、帰りの輸送車の中で荒木の耳元で小声で一つのお願いをしていた。
明日の夜、昨年同様に花火をするから、こっそりと抜け出て待ち合わせをして、二人だけでお話がしたい。
美香が先に安達荘を抜け出して、星空を眺めながら荒木をじっと待ち続けていた。
牧場の柵に二人は横並びでもたれ掛かる。
「もう帰っちゃうんだね。去年もそうだったけど寂しいな。荒木君たちが賑やかだから、余計にそう感じちゃうんだよね」
福田ってどんなところなのとたずねる美香に、荒木は何も無い漁村だと答えた。何かあるか必死に思い出し、結局何も思いつかなかった。改めて漁村だと言って笑った。
「良いな。行ってみたいな。私一度もこの辺から離れた事無いから。苫小牧にすらあまり行った事がないのよ? いつかいろんなところに行ってみたい」
美香は下腹部の前辺りで指を絡めもじもじとしながら、そんな事を言った。
闇夜にあって月光に映える黒髪を、細い飴細工のような美香の指がかき上げて荒木側の耳に引掛ける。
髪に隠れていた白磁のような顔が露わになる。
表情までは確認できなかったが、恐らくは新雪のような白い肌を薄紅に染めて恥じらっているのだろう。
「学校卒業したらさ。車の免許取って北国に遊びに来るよ。その時一緒に二人で車でどこかに遊びに行こうよ」
荒木はじっと夜空の星を眺めながら話をしている。何となく美香の方を見るのが照れくさいのだ。
ねじ曲がった竜杖のような大きな星座が見える。中央には大きな赤い星。
「でもうち荷台付の軽自動車しかないよ? あれで行くの?」
そう美香がたずねると、荒木はぷっと噴き出した。その時には室蘭で車を借りるからそれで行くに決まっていると言うと、そうだよねと言って美香もくすくすと笑った。
美香の顔にえくぼが浮かぶ。
「待ち遠しいな。荒木君が私の事迎えに来てくれる日が。その日、どんな服着て行こうかな」
夜空を見上げている荒木の横顔を美香はじっと見つめていた。
ふと荒木が美香を見る。
視線が合ってしまい、美香は照れてとっさに自分も夜空を見上げる。
しばらく沈黙が夜の牧場を包んだ。
一陣の風が吹き抜け、牧草たちがさわさわという音楽を奏でる。
美香は自分の胸が激しく高鳴るのを感じている。
ふいに荒木の手が自分の肩の上に添えられた。
ドキリと一際鼓動が高鳴り、思わずその手を確認してしまう。
間違いなく荒木の手。野生の鹿ではない。
美香は一歩だけ荒木の方に体を寄せた。
「寂しいな。これでお別れだなんて」
そう言って荒木から視線を反らす。
するといきなり目の前に荒木の顔が現れた。
「必ず遊びに来るから。約束する」
美香はそっと瞳を閉じた。
唇に温かい軟らかいものを感じる。
唇に触れる暖かな温もりが離れていく。
荒木はじっと美香を見つめている。
「約束だよ。私ずっと待ってるから」
美香は荒木に思い切り抱きついた。
牛乳のような香りに、桃のような甘い香り、そこにレモンのような爽やかな酸味が混ざった何とも言えない良い香りが荒木の嗅覚を支配する。
絶対にまたここに戻って来よう。そう荒木は心に誓った。
「荒木さん今までどこ行ってたんすか! もう花火全部終わっちゃいましたよ!」
安達荘に戻った荒木を長縄が目ざとく見つけてそう言ってきた。
「悪い悪い。なんかさ、さっき外で何かがこっち見てた気がしてさ、それを確かめに行ってたんだよ。見失っちゃったんだけどさ、あれは絶対鹿だと思うんだよね。野生の鹿だぜ? うちじゃそんなの絶対見れないもんな」
目が光っていたからそっと追いかけたんだと荒木は言った。
去年も花火をやってた時に目撃していて、今年も見かけたら絶対に追いかけてやろうと思っていたと。
すると、この辺は確かに野生の鹿が多いと安達さんの奥さんが言った。
部員たちは自分も見たかったと大騒ぎした。
「だけど、一人で見に行くのは感心しないかな。この辺は鹿も多いけど、熊も普通に出るからね」
もし熊だったら今頃は木の梢に埋められて非常食になっていると安達の奥さんは笑った。
荒木の目が点になる。
普通に年に何回も見かけるよと安達さんが言うと荒木の顔は凍り付いた。
そんな荒木を見て、部員たちは大笑いした。
知らない土地で勝手な事をするなと川上教頭が荒木の頭を叩いた。
こうして、長かった春休みの北国合宿は全ての日程を終えた。
明後日から短い二学期が始まり、それが終わればいよいよ大会が始まる。
飛行機の中で荒木は部員たちを見渡した。
行きはあんなにはしゃいでいたのに。帰りの飛行機は全員疲労でぐったりしてしまっている。武上と貝塚が隣り合わせて肩を寄せ合って寝ており、なんだか微笑ましいものを感じる。
「どうした荒木、何か気になる事でもあったのか?」
隣の席の戸狩がそう荒木にたずねた。
戸狩の顔をじっと見つめ、肩にぽんと手を置き荒木は座席に座り直した。
「東国大会に行けたら良いなって思ってさ。なんだろうな。この疲れ果てて寝てる奴らを見ていると、何となく行ける気がしてならないんだよ」
根拠の無い自信、そう言って戸狩は荒木を笑った。
だがちらりと一年生たちを見て、でも気持ちはわかると戸狩も言った。
「間違いなく去年の浜崎さんたちの方が経験もあったし、精神的な安心感みたいなもんもあった。だけど、なんというかな、何か今年の方がやれるって気がするんだよな」
同じような事を戸狩は言っただけなのだが、改めて言われると気恥ずかしくなってしまう。
何か別の話題は無いかと荒木は目を泳がせた。
ふっと思ったのは美香との事であったが、それは死んでも口に出すわけにはいかない。そうなるとそれ以外で荒木が思い浮かんだのは武上の講習であった。
「しっかし、武上先生の抗議酷かったな。『これだけなのよ、簡単でしょ』って、簡単に思えないから難しいって言ってんのにな」
荒木がそう悪態をつくと、わかるわかると言って戸狩も笑い出した。
わかっている人にとってはどんな事も簡単な事なのだ。わからない人にはどんな事も難しい事なのだ。
わかっている人にとっては、何でこれがわからないのかがわからない。そして、わからない人からしたら、なんでわからないかがわからない。
「それを分析して想像して、解説するのが教師の仕事じゃないのかね? 少なくとも教頭先生はそんな感じな事言ってた気がするんだけどな」
先生だって労働者の一人だから色々と苦労はあるのだろう。
教頭先生はそんな先生たちの上司だから、これまた色々と苦労があるのだろう。
川上教頭を戸狩はかわいそうにと言って笑った。
「社会に出るって大変な事なんだな。俺たちも夏の大会が終わったら進路相談が始まるんだよな」
窓の外の風景に目をやり、荒木は何も無い一面の青空を見渡した。
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