第34話 武上が怒った
翌日から荒木たちは漕艇部の練習に合流した。
荒木たちは一月間ではあるが昨年も合流しており、ここの筋肉作りがかなり厳しいという事を知っている。一年生たちは最初の筋肉作りだけでもう言葉数が少なくなっていた。
やっと筋肉作りが終わり、漕艇部の土肥部長がじゃあ実際に漕艇に乗ってみようとにこやかに言うと、一年生たちは絶句した。
全ての練習が終わった時点で、武上先生が戸狩、貝塚と三人で部室にやってきた。荒木と目が合うと貝塚は右手の親指を立ててにっと笑った。
「はい、注目! ちょっと! 一年生たち、ぐだぐだしないの! 先輩たちを見なさい! あなたたちまだ初日でしょうに!」
パンパンと手を叩いて武上が一年生たちを注意する。
すると、うるせえ母ちゃんだと青野がぼそっと呟いた。武上はゆらりと青野の前に立ち頬をつねる。
「まだ二十代のうら若き女性に向かって、母ちゃんとはなんですか! 母ちゃんとは!」
その光景に荒木と杉田は大爆笑だった。こういうところはやっぱり広岡先生の後輩だと大久保と石牧が笑い合う。
その後武上の口から夏の大会までの予定が発表された。
まずは最初の一月は漕艇部。次の一月は水泳部。その次の二か月が送球部。
ここまでは一月前倒しになっただけで、昨年とほぼ変更無し。
「もうすでに聞いている事と思いますけど、昨年春休みに北国に合宿に行ったそうです。先ほど教頭先生と相談いたしまして……」
そこで言葉を区切って武上は一同を見渡す。全員その後の言葉を無言で待っている。
「今年も行けるように調節していただける事になりました! まだ先様の都合もありますから、必ず行けるとは今の時点では約束はできませんけど、その方向で進める事にしたということです」
一年生たちはわっと湧いた。当然のように誰も北国なんて行った事が無い。その北国に合宿で行ける、それだけで気持ちが昂るというものである。
ところが、一年生たちに比べ三年生と二年生はそこまで喜んではいない。
「ってことは、またあの教頭来るのかよ。じゃあまた午後から講習なんじゃん」
そう言って荒木はげんなりした顔をする。
「知ってるか荒木、教頭と広岡先生、俺たちが朝早いからってさっさと寝た後、宿の夫婦と毎晩酒盛りしてやがったんだぞ」
杉田がそう悪態をつくと、だからあの人たち朝起きて来なかったのかと戸狩が憤った。
「それだけじゃねえよ。あの二人の旅費と宿泊費、その酒代も俺たちの労働から出てたんだぞ。あれ、絶対俺たち怒った方が良い案件だと思う」
そう言って杉田が武上をじろりと見ると、全員の視線が武上に注がれた。
「あの……それ私の話じゃなくて先輩の……というか、そもそも引率ってそういうものだから。修学旅行とかもそうだったでしょ?」
おどおどと言った武上の発言は明らかに言い訳であり、全員の武上を見る目がさらに冷たくなっていく。
その態度がどうも武上の神経を逆撫でしたらしい。
「何かあったら私が責任取るのよ! 顧問である以上、嫌でも行かなきゃいけないのよ! 宿泊費くらい持ってくれたって良いじゃないの! 輸送車での観光だって運転手さんや添乗員さんの費用は参加者持ちでしょうが!」
無理やり納得させようとする武上から部員たちは視線を反らす。
今の例えちょっと変じゃ無かったかと樽井が長縄にたずねる。
するとそれが聞こえた武上は、きっと樽井を睨みつけ、変じゃないと抗議した。
完全に意固地なった武上を見て、荒木はにやりとほくそ笑んだ。杉田、大久保、石牧に視線を送る。杉田たちもどうやらそれに気付いたらしく、にやりと笑った。
まず最初に、広岡先生はこんなに感情的に怒鳴り散らしたりしなかったのにと荒木が呟く。
するとそれを受け、広岡先生は面白おかしく対応してくれたと大久保が少し遠い目をする。
さらに、何だかんだで広岡先生はいつも笑顔を絶やさなかったからと石牧が二人に言った。
最後に杉田が決定的な一言を言い放った。
「きっと若松選手も、広岡先生のそんなところが気に入ったんだろうな。俺なんとなくわかる気がするわ」
四人がちらりと武上を見ると、武上は怒りなのか悲しみなのか、俯いて打ち震えていた。そんな武上の横で戸狩と貝塚が必死に笑いを堪えている。
「……広岡先生、広岡先生って……今の女の前で昔の女の話をするなんて……最低」
武上がぼそぼそとそんな事を言い出した。
戸狩は無言で首を横に振り、両手の一指し指を口元で交差された。やりすぎだと言いたいらしい。貝塚もぶんぶん横に首を振っている。
やりすぎたと感じ、荒木たちはバツの悪い顔をした。一年生たちも何となく雰囲気的にこれ以上は駄目だと察した。
……一人を除いて。
「へえ。広岡先生ってそんなに素敵な先生だったんですね。会ってみたかったですね」
そう言って岡本が荒木の方を見たのだった。
焦って武上をちらりと見て、荒木は小声で馬鹿野郎と岡本を叱った。
杉田も焦って岡本に、お前は勇者かよと指摘。
戸狩は無言で目を覆う。
一年生たちは無言で岡本を叩いた。
武上は横に立て掛けてあった竜杖を掴み震えている。
「……もう、絶対に許さないんだから!」
武上は涙目になっている。
内山と溝口がそんな武上を取り押さえ、それだけは駄目だと言ってなだめた。
半泣きで椅子に座り込み、武上は酷い酷いと呟いている。それを貝塚が酷いですよねと背中をさすって慰めている。
貝塚は荒木の顔見て、先生に声をかけてくださいと無言で合図する。
困った荒木は色々と考え、武上の肩に手を置いた。
「先生、気を取り直してくださいよ。先生の方が俺は魅力的に感じてますよ。その、い、色々と」
あからさまにそれとわかる雑な慰め方をする荒木を、貝塚は下手くそと小声でなじった。
次は杉田が貝塚に呼ばれる。
「先生、俺は先生と早く北国合宿行きたいなって思ってますよ。先生がどんな格好で来てくれるんだろうなって」
こういう時に下心のありそうな事を言うんじゃないと小声で叱って貝塚は杉田を追い返した。
貝塚は戸狩を見た。戸狩は無理無理と言って顔を横に振る。だが貝塚に睨まれて、渋々武上を慰める事になった。
「あの……みんな悪気があって言ってるわけじゃないんでね。先生とその……会話を、そう! 会話を楽しみたくてあんな事言ってるんで。あの……できれば、軽く受け流していただいて……その……」
三十点。
まだ戸狩がああだこうだと言っている途中で、武上がそう切り上げて不貞腐れた顔を上げた。
「もういい! これからあなたたちには、竜杖球だけじゃなく、正しい女性の扱い方っていうものも指導していきます。覚悟なさい!」
すくっと立ち上がって、武上は一人一人指差してから部室から出て行った。
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