第57話 病院へ
今すぐ式典を抜け出して病院に行きたい気持ちに駆られたが、若松から式典が終わるまで我慢だと制された。
ふざけるなと言いたそうな荒木の肩に若松はぽんと手を置く。
「今行けば、美香ちゃんが例の子だと報道に教えるようなものだぞ。気持ちは痛いほどわかるが、ここはぐっと堪えろ。それに今は外にも報道が多数詰めかけている。俺たちだけで抜けてみろ。奴らは俺たちを追って来るぞ」
反対の肩に広沢が手を置き、落ち着いて深呼吸をしろと指示。
言われるがままに深呼吸すると、広沢から少しは落ち着いたかと問われた。
無言で頷く荒木。
「若松さんの言うとおりだ。今会場を出て行ったって、お前にとって良い事は何も無い。逆に式典が終わった後なら、俺たちが支援できるぞ。もちろん事務所の職員の方々もな」
かなり渋々という表情ではあったが、荒木は無言で頷いた。
若松は広沢に荒木を頼むと言って、杉浦のところへ向かった。
杉浦は尾花、八重樫の三人で固まっており、若松は何やら四人で相談している。
荒木と広沢のところには小川と秦がやってきて、必死に気分を紛らわせている。
松園社長の挨拶の後、関根監督の挨拶が行われた。
だが、もはや荒木の耳には何も届いてはいなかった。
早く終わってくれ。それだけであった。
関根の挨拶の後は、新入団選手の挨拶。
今年の入団は長島という中盤と中西という後衛。ガチガチに緊張した二人が挨拶すると、その後は歓談となった。
式典進行の職員が荒木のところにやってきて挨拶ができないかと言って来たのだが、荒木ではなく小川が拒絶した。今そんな事ができる状況ではないと言って。
それでも職員は言ったのだが、広沢に『法務部案件』と言われ、職員はかなり驚いた顔をして諦めてくれた。どの職員も先々月から続く報道の中傷報道の事は知っている。それ絡みだと推察してくれたらしい。
永遠にも思えた式典が終わった。
荒木はすぐに会場から抜け出そうとした。だがそこに栗山と伊東がやってきて、荒木を引き留めた。
「荒木さん。病院に向かうんですよね。職員の車を借りれるように手筈を整えました。若松さんと相談して、若松さんには家に帰ってもらうようにしました。もし記者に付けられたら警察に駆け込むようにって。だから、もう少しだけ我慢してください」
荒木の両腕を挟み込むように叩いて、栗山は荒木を説得した。
広沢、小川、秦、伊東も荒木を囲んでじっと目を見つめている。
五人は悪気があってこんな事をしているわけではない。自分の事を慮ってくれての行動である事はわかっている。それだけに荒木としても抗い難かった。
一人、また一人と会場を後にしていくのを荒木はじっと見送った。
すると一人の職員がやって来た。
「栗山選手、さすがですね。良い判断でしたよ。今、選手の駐車場は大混乱となってしまっています。門の前に車が止められてしまって封鎖を受けてしまってます。でも職員駐車場は大丈夫ですから、今のうちに」
「大きな車だから全員乗れると思うので、荒木選手をお願いします」と言って職員は鍵を見せた。
だが、職員駐車場に向かうと、法務部の職員と記者が揉めていた。
法務部の職員が不法侵入、盗撮と言って記者の写真機を取り上げようとしている。さらに続々と職員たちが駆け付けてきて、どういうつもりだと言って記者たちを問い詰めている。
その間に荒木たちはこっそりと車に乗り込み後部座席に隠れた。
邪魔だと言わんばかりに警笛を鳴らして職員が出て行く。
さらに別の車が同じように警笛を鳴らして出て行く。
それに続いて荒木たちを乗せた車が駐車場を出て行った。
見付には比較的大きな病院が三つある。北から天竜病院、見付中央病院、竜洋病院。美香が入院したのは南の竜洋病院。ある程度の上層階の病室の窓からは遠州灘の海岸線が見えるという病院である。
美香が担ぎ込まれた病院は、奇しくも祖母が入院している病院であった。
病院にも記者が待機していたが、その記者たちから影になるように車を停車させて荒木は病院内に駆け込んで行った。
病室に行くと、美香は頭に包帯と白い網を巻いて静かに寝ていた。
計器がピコピコと音を立てている。
椅子に腰かけ、布団から小指だけ出ていた美香の左手を荒木は両手で握りしめた。
美香の手は少し小さめ。ただ指の一本一本が細くて長い。
気のせいだろうか。前に握った時よりも冷たい気がする。
そこに双葉の手を引いて広岡先生がやってきた。
「あ、荒木君やっと来れたんだ。あれ? うちの人は?」
自分の代わりに囮となって家の方に向かった事を伝えると、広岡は双葉の頭を撫でてから、ふうとため息をついた。
広岡も椅子を持ち出して腰かけ、膝の上に双葉を座らせ、痛ましいという顔をして美香を見た。
そんな広岡に荒木は何があったのかとたずねた。
「買い物から帰ったら、うちの前にガラの悪そうな記者がいてね。取材だって言って敷地に入って来て、双葉の襟首を掴んで。双葉を奪い返そうとした美香ちゃんが、その記者たちに暴行を受けちゃって」
その時、勢いで写真機が美香の頭部を直撃。写真機の硝子が砕けるほど強く当たったみたいで、美香は出血して倒れてしまった。
その際、写真機を捨てて行っており、それがその証拠品だと言って広岡が壊れた写真機を指差した。
病室の外で待機していた広沢に病室の入口を見張るようにお願いし、荒木は携帯電話を取り出した。
電話先の人物は事情を聞くと、それは重要な証拠となるので、絶対に相手は奪い返しに来るはずと指摘。
病院で揉め事になる恐れがあるので、警察に届け出る前に球団の法務に相談した方が良いと助言。
だが少し考えて、良い場所があるから、すぐにそこに持って行けと指示した。
電話を切り荒木は一旦病室に戻った。
「今、日競さんに連絡を入れました。その写真機は重要な証拠になるので、浜松の紅花会の大宿に持って行って欲しいという事でした。なので美香ちゃんの目が覚めたら、浜松に行ってこようと思います」
そう言って荒木はまた美香の手を握った。
「一人で大丈夫? うちの人にも行ってもらうように言おうか?」
広岡にそう提案され、荒木はお願いしますと一旦は言った。だが少し考え、もしかしたら若松家が襲われる恐れがあると考えて断った。
そこは広沢と小川にお願いする事にした。
それから二時間ほどして美香は目を覚ました。
誰かが手を握ってくれているのは気付いていたが、広岡だろうと感じていたようで、広岡の姿を見てぎゅっと手を握り返した。だが大きさからそうで無い事にすぐに気づいたらしく、少し頬を桃色に染めた。
「大変な目に遭ったね」と声をかける荒木を見て、美香は軽く唇を噛んではにかんだ。
「俺、美香ちゃんに怪我を負わせた奴らを絶対に許さないから」
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