第56話 新年の挨拶
荒木の顔が見れた事で、そこから祖母の体調はみるみる良くなっていった。
年内に退院できたら初詣に一緒に行こうと荒木は言っていたのだが、さすがにそれは叶わなかった。
祖母の退院が無理とわかると、荒木は若松一家と共に見付天神に初詣に出かける事にした。もちろん美香も一緒である。
美香は近所に部屋を借りる予定だったのだが、広岡から部屋はあるからここに住めば良いと言われ、若松宅に居候している。美香の話によると、真っ先に言われたのは「家事は分担ね」だったそうな。
広岡先生も新年だからという事でいつもよりぴっしりと髪を結っているが、それ以上に美香が化粧にしろ服装にしろ、かなり気合が入っている。
「久々に荒木君に会えるって一番に起きて準備してたんだよ」
こそっと広岡先生が荒木に耳打ちした。そのせいで視線が合うとどうにも照れてしまう。
なお双葉はお寝坊さんで、荒木の背でぐっすりである。
美香がこっそり教えてくれたところによると、実は広岡先生は第二子を身籠っているらしい。
初詣の後は若松家で宴会である。
宴会の中で、ここまでの自分の状況を荒木は話した。
家族にすら言っていない話なのに、若松家には話せるというのは何とも不思議な感覚である。報道からの被害でいったら家族の方が大きかったはずなのに。
「なるほどねえ。こっちでは『あの野郎雲隠れしやがった』って言い合ってたんだけど、そんな状況だったんだな。こっちも連日大変だったんだぞ。どんな嗅覚してるのか知らねえけど、この家にまで来やがってよ。双葉を無断で撮影しやがって。頭に来て盗撮で警察に訴えてやったよ」
現在、若松家に居候している美香は、若松家のある白拍子の北東、千手堂にある八百屋でお惣菜を作っているらしい。見付球団の練習場が近いという事もあり、やたらと報道がやってきたのだそうだ。
騒動の間、別の部門に異動させてもらってこそこそと仕事をしていたらしい。
「しかし何でこんな事になったんだろうな。話を聞いている限り、どう考えてもこんな騒動に発展するような要素なんてどこにも無いのに」
そう言って若松は麦酒を喉に流し込んだ。
「日競新聞の方は、もしかしたら美香ちゃんを商品にしようとしてたけど失敗して、その腹いせなんじゃないかって言ってましたね。反社に目を付けられたんじゃないかって」
荒木が美香を見ると、若松と広岡も美香を見た。
美香も身に覚えが無いようで首を傾げる。
「私の両親がお金を借りたのって普通の銀行だから、そんな反社に目を付けられるような事無いはずなのに……何でそんな事になったんだろう?」
美香がそこまで言った所で、玄関の方で何やら音がした。
それが聞こえた双葉が、年賀状が来たと言って大はしゃぎで駆けて行った。
そんな双葉を可愛いと言って美香も追いかける。
まるで年の離れた姉のように、美香と双葉が一緒に帰って来た。
双葉が広岡に年賀状の束を手渡し、私の分をちょうだいと言って足をばたばたさせる。
これはうちの分、これは双葉の分と仕分けていく。
そういえば、雲隠れしていたから年賀状が書けていない。帰ったら書かないとなんて荒木は若松に言っていた。
すると美香が広岡に「どうしたんですか?」とたずねた。
その声で荒木と若松も広岡を見る。
顔を真っ青にして広岡は一枚の年賀状を手にして震えている。
「ねえ、これ……」
険しい表情で若松はその年賀状を受け取った。
差出人の名は無い。宛先は安達美香。そして住所はこの見付市白拍子の若松宅。
”逃げおおせると思ったら大間違いだ。必ずお前に借金を払わせてやる。どこまででもお前を追ってやる”
印刷機の印刷で文字だけが印刷されている。そして年賀状のため消印が無い。そのせいでどこから投函されたものかがわからない。
「これはやばいな……美香ちゃんがここにいるって事が把握されているって事じゃねえか」
その年賀状を見せてもらっただけでは気づかなかったが、若松に指摘され、初めて事の重大さに気が付いた。
「俺たち、来月から二か月合宿で薩摩ですよ。ヤバく無いですか、この家」
一人は身重、一人は幼児。三人が三人共に自分の身を守れる能力が無い。
「マズいな。合宿だから薩摩に連れて行くってわけにもいかんしな。その間、どっかに匿ってもらうしかないかもしれんな。だけど、どうやってここがわかったんだろう? ここがわからないように住民票だって変更してもらってないのに」
それを若松が言った事で広岡ははっとした。
「履歴書よ。今のとこで美香ちゃんが働く時に提出した履歴書。多分、あれで美香ちゃんとここが紐づいちゃったのよ」
広岡の指摘で、焦燥しきった顔をした美香が口元を隠す。
作業場だけの作業といっても、店に全く顔を出さないという事はない。品出しなんかで少なからず売り場に顔は出す。恐らくはその時に顔を見られてしまったのだろう。
「今の商店は辞めてもらうしかないだろうな。どこかで事情を話して匿うように雇ってもらえる場所を探す必要があるな」
精一杯の微笑みを湛えて若松は美香を見たのだが、美香は自分の失敗に愕然としてしまっていて、ごめんなさいと発するので精一杯であった。
今にも泣き出しそうになる美香を荒木が抱き寄せて背中を撫でた。
それから三日後。
仕事始めでもある、毎年恒例の見付球団の『出陣式』が行われた。
選手たちが事務所に集まって来るのを記者たちが待ち構えている。それを広報の職員たちが整理する。昨年よりも圧倒的に記者の数が多い。その理由は明白だろう。
荒木が姿を現すと、若松、小川、広沢の三人で囲んで事務所へと迎え入れた。
「大した人気ぶりじゃないか。久々に再会したってのに、何だか雲の上の人みたいだな」
そう言って小川がからかった。
「言ってる場合か」と不機嫌そうな顔をした広沢が指摘。そのまま厳しい視線を荒木に移した。
「おいおい広沢。今回の事がきっかけで二股がバレたからって、荒木を責めるのは筋違いってもんだぞ」
そう指摘して若松は大笑いした。
そこから輸送車で秋葉神社まで行ったのだが、そこでも荒木に突撃取材しようという報道で大賑わいであった。
「まったく、正月から仕事熱心な事だな。ここは神社の境内だぞ? 罰当たり共めが」
そう言って秦が報道を睨みつけた。そんな秦に「罰を与えるのはお寺なのでは?」と伊東が指摘。すると、「神社だって行儀の悪い奴は神様が許さないはずだ」と秦は反論した。
せっかくの出陣式だというに、騒がしい報道のせいで厳かな雰囲気がぶち壊しであった。
そうは言っても、その時点ではまだ報道が鬱陶しいというだけで済んでいた。
祈祷を終え、球団の事務所に戻り、式典を行っている時にその情報はもたらされた。
最初に職員が式典中の会場に入って来て、きょろきょろと見渡し、若松を見つけて真っ直ぐ早足にやってきた。その表情から、どう考えても緊急事態。
荒木も若松の隣に場所を移動した。
「今ご自宅から電話が入りました。奥さんの従妹さん、買い物から帰った所を記者たちに囲まれて、何かで殴打されたらしく病院に搬送されたそうです」
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