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第53話 日競の吉田

 熱海には一週間逗留。

 その後下田に同様に逗留するはずだったのだが、三日目に報道に嗅ぎ付けられ、急遽修善寺の小宿に逃走する事に。

 移動は毎回深夜。まるで犯罪者の逃亡のよう。それでも腐らなかったのは、宿の従業員たちが荒木の顔を見るたびに、悪質報道に負けないでと励ましてくれたからだった。


 その後、また深夜に修善寺の宿を発って、駿府の大宿へと移った。


 その日の午後の出来事だった。

 熱海の小宿に潜伏していたと報じられてしまって、熱海の支配人さんが報道に囲まれて大怪我を負うといった事があった。

 その報告を受けた紅花旅館会の大女将が激怒。竜主会に報道の横暴を訴え、弁護士と政治家も動員して過熱している報道に反発。


 競報新聞たちは荒木選手を取材するためと必死に色々な媒体を使って言い訳を行った。だが紅花旅館会の大女将の怒りは全く収まらず、従業員を傷つけた事に対し刑事告訴を行い、営業妨害として超高額な賠償金を請求。

 紅花旅館会の大女将は、東北地方に絶大な影響力を持っており、東北地方を中心に徐々に報道に対しやりすぎという声が投げられ始めた。


 そこから報道は犯罪者を探せというものから、なかなか荒木が姿を現さないというものに変わった。

 その間も、競報新聞を始めとした多くの新聞は新たな証言者が見つかったと言っては、誰だかよくわからない人を連れてきて、顔と名前を隠して、声を変えて、荒木の非道を訴えさせた。

 日競新聞は、そうした誤情報と思われる情報を一つ一つ確認が取れなかったと報じていったのだが、はっきりいって劣勢感が否めなかった。



 携帯電話は切るようにと連盟の職員が厳命しており、現在荒木の消息を知る者は連盟の職員数人と、紅花旅館会のみという状況。

 しかも大女将が激怒しているという情報が入り、紅花旅館会は上からの命令だとして報道への協力を全て拒否している。



 駿府の大宿には少し長めに逗留していたのだが、突然支配人がやってきて、どうやら嗅ぎ付けられたらしいと報告。その日の深夜、またもや荒木は別の宿へと移る事になった。

 駿府の大宿の支配人はかなり用心深い人物で、深夜に先に囮の車を出し、その車を怪しい車が追って行ったのを見てから荒木を送り出した。


 当初は浜松の大宿にという話であったのだが、向かう途中でもう報道が詰めているという連絡が入り、急遽豊川の大宿まで行く事になった。

 しかも高速道の休憩所で紅花会の運送会社の輸送車に乗り換えて向かうという周到ぶり。



 この頃になると、報道の報じ方はまたも変化。

 これだけ逃げ隠れしているという事は、我々の掴んでいないような、そうとうやましい事があるに違いないというものとなった。

 そんな中、豊川の大宿に荒木を訪ねて一人の人物がやってきた。


 扉をこんこんと叩かれ、面会だと言われたが、荒木は返事をしなかった。駿府の大宿にいる時に、もし仮に扉を叩かれても絶対に返事をするなと教えられていたからである。

 もし仮に本当に用事があるのなら、こちらには予備鍵があるから、支配人が自ら予備鍵を持って伺い、勝手に開けて入ってくるはずだと。


 入らせていただきますと言った声は、非常に若い女性の声。だが、荒木は物陰に隠れた。そのため、女性が扉を開けた時には誰の姿も見えなかった。

 窓には窓掛けがぴっしりと掛けられており、光の反射でも中が見えない。どうやらちゃんと言い付けを守れているらしいと女性は安堵した。


 女性は扉を閉め、一人だけでつかつかと中に入って荒木の姿を探した。

 警戒しきった顔を見て、口角を上げて微笑む。


 年齢は二十代中盤といったところだろうか。高く結った髪、ぴっしりとした和装、真っ直ぐ伸びた背筋、その凛とした姿、何よりその整った美しい顔に思わず見惚れてしまう。

 女性は帯の中から名刺を取り出し、荒木に手渡した。


「私、旅館会の若女将をしています氏家あやめと申します。普段は皇都の大宿にいるのですけど、熱海の宿から報告を受けましてこちらでお待ちしておりました」


 そう言って軽く会釈をした。その姿も実に優美で思わず見惚れてしまう。

 ぽうっとした顔でこちらを見ている荒木を見て、あやめは袖を口元に当ててくすくすと笑った。


「荒木様。お客様をお連れしてまいりましたよ」


 そう言ってあやめは部屋の入口に戻り、外で待っていた二人の人物を部屋に招き入れた。

 一人は見てすぐにわかった。日競新聞の猪熊である。

 だがもう一人は見た事が無い。

 顎が細く、特徴的な細い口髭を蓄えており、頭髪は後退して少し寂しい事になっている。背も低めで、ぱっと見ではかなりみすぼらしい風体に見える。


 猪熊がその男性に彼が荒木選手だと言うと、その男性はつま先から順に視線を上げていき、顔を見て小さく頷いた。


 三人を椅子に座るように促し、あやめは三人に背を向け部屋の入口の方を向いて立った。

 椅子に腰かける前に、背の低い男性は名刺を差し出した。『日競新聞局長 吉田』とその名刺には書かれている。


 「局長ってどんな地位なんですか」とこそっと猪熊にたずねると、猪熊は少し焦った顔をして、「社主、主筆に次ぐ三番目の超お偉いさんだ」と説明。「そんなお偉いさんが何をしにこんなところに?」とたずねると、そのこそこそ声が聞こえたらしく吉田は大笑いした。


「僕は今でこそ局長なんいう肩書もっとりますけども、元は一記者ですからね。こういう情報戦争いう話になると、どうにも昔の血ぃが騒ぐんですわ」


 からからと笑う吉田だったが、隣の猪熊は思い切り顔が引きつっている。

 この感じからして、猪熊のところに突然ふらっとやってきて、荒木に会いたいとねじ込んで来たといったところだろうか。


 局長などという地位の人物とはとても思えないほどに、本当に吉田は気さくな人物で、袋から缶麦酒と乾き物を取り出して、「まずはお近づきの印という事で乾杯しよう」などと言ってきた。


 その前に、荒木にはどうしても聞いておきたい事があった。「それがわからない事には乾杯には応じられない」と言うと、吉田はニコニコしながら「どんな事でもどうぞ」と手の平を見せてきた。


「あの、今、俺には誰も会えない事になっていると思うんですけど、どうやって今ここに来ているんですか?」


 なるほどと頷いて、吉田は麦酒の缶を小さな机に置いた。


 この件で他の新聞と戦争をしようという判断をしたものの、どうにも劣勢感が拭えない。なぜもっと強い記事を送り出せないのかと吉田は憤っていた。

 『気になったらまず現場』は吉田の新人の頃からの信条である。普通の局長であれば本社に責任者を呼びつけるのであろう。だが、吉田は担当部署を調べ上げ、豊川の東海支局に足を運んでしまった。

 そこで聞いたのは、荒木が空港から忽然と姿を消したという事であった。


 それだけでは、さしもの吉田といえどどうにもならなかったであろう。

 だが、その後熱海の紅花会の小宿に潜伏していたという情報を掴んだ。それならばと知人である大女将に久々に連絡を取り、この場所を聞き出し若女将に口を利いてもらったという次第だと吉田は説明した。


「そうだったんですね。猪熊さんから連絡が来てたのは知っていたんですけど、家族からだとしても携帯には出るなと連盟からきつく言われていまして。申し訳ありませんでした」


 そう言って素直に荒木は頭を下げた。

 どうやら受け入れてもらえたらしいと感じた吉田は、改めて乾杯しようと言って缶を手に取った。


 そこから吉田は取り留めの無い自分の話を始めた。

 自分は昔競竜の記者をしていたから始まり、岡部という調教師と出会い、記者の本来あるべき像というものを学ぶ事になったという話をした。


 荒木は元々競竜の騎手を目指していた。そのせいで競竜の世界の事には精通している。岡部調教師がどんな人物なのか当然知っているし、岡部師が報道に酷い目に遭わされ続けた事も知っている。もしかしたら荒木が世界で最も憧れている人物かもしれない。


 そんな岡部師に知己があるという吉田に、荒木も口が少しだけ軽くなった。当然酒の力もあっただろう。

 自分は本当は競竜の騎手になりたかったのに、中学の担任が怠惰心からそれを阻みやがったと言って憤った。その後、高校時代の話をした。


 すらすらと自分の事を自分から発言する荒木を見て、猪熊は改めて吉田という人物の有能さに驚いた。


「荒木選手。あなたが何故今こんな目に遭うてるか、教えてあげましょう。実は今、竜杖球は大きな瀬戸際を迎えとるんですわ。不人気球技いうには、あまりにも人気が出過ぎてる。それやのに報道はこれまで竜杖球を無視し続けてきた。そやからこれ以上人気になられたら困るんですわ」

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