第13話 うちを選んで欲しい
翌日、荒木は再度事務所へと向かう事になった。
事務所からは、昼食を一緒にと思っているのでその少し前くらいに来てくれという、なんともざっくりとした指示であった。
事務所へ向かうと、昨日まで同席した法務部の市川の他に、営業部長の相馬が待っていた。
市川は車の鍵に付いてる輪に指を入れて、鍵をクルクルと回して談笑している。
荒木の顔を見ると相馬は椅子から立ち上がり、じゃあ行こうかと市川に向かって言った。
市川の運転で助手席に相馬が乗り、後部座席に荒木が乗って、どこかに向かって車は走り出した。
車は事務所を出て大通りを西へ。見付市を出て浜松市に入る。さらに南下し浜名湖の今切口へと向かった。橋を越え、浜名湖競竜場に向かう通りを少し行った先の一軒の古びた店で停車。
車の扉を開けてすぐに醤油の焦げる良い香りが漂ってくる。さらにその香りの中に焼き魚のような香りが混ざる。
店の古い看板には黒い樹脂が塗られ、その上に『うなぎ』の白い文字が躍っている。
「ううん、良い匂いだねえ。何で鰻の匂いってのは、こう空腹を刺激するかねえ」
相馬の顔はほころびまくりで、その口からは今にも涎が零れ落ちそうである。市川の顔も同様で、鼻腔を一杯に広げて鰻の匂いを吸い込んでいる。
「市川君、ここで食べても買収にはならないって事で良いんだよね?」
相馬の冗談に市川は大笑いした。
「多賀城では親指みたいな厚さの牛肉を食べに行くらしいですよ。しかも最上級の。函館なんて超高級の店で寿司だそうです。それに比べればうちなんて可愛いもんですよ」
大笑いしながら荒木の方に顔を向け、不安そうな顔をする荒木に、規約上は問題の無い行為だから安心してくれと説明した。
少しべたつく暖簾をくぐり、さらに鰻の香りの強い店内へ。
店員は相馬の顔を見ると、二階の一室を案内した。
市川が三人分の特上の鰻丼を注文。店員は、お茶と鰻の骨の素揚げを置いていった。
「この骨みたいなの、初めてみるんですけど、何にするんですか?」
荒木が骨を手にしてしげしげと眺めていると、相馬と市川の方からポリポリという音が聞こえてきた。
「このまま食べるんだよ。ちょっと醤油が効いてて旨いぞ! 思わず熱燗が呑みたくなるよ」
相馬はがははと笑いながら、もう一本鰻の骨を口にする。そんな相馬に市川は勤務中だとたしなめた。
荒木も骨を口にしてみる。
ポリポリと軽い食感ではあるし、塩味と醤油の味が程良く、確かに美味しい。だが、どこまでいっても骨は骨だった。言われてみれば、確かに酒、それも米酒のつまみとしてはかなり良いかもしれない。
「うちのね、大事な交渉事はいつもこの店を使わせてもらう事にしているんだよ。浜名湖周辺でもここが一番だと私は思うんだよね。人によっては福田で海鮮丼や、魚介が嫌という人は磐田市に行って鴨鍋にするんだけどね」
そっちの方が良かったかなと相馬は笑いながら荒木にたずねた。
荒木としては高校時代に通っていた福田よりは断然鰻だろうか。鴨も捨てがたいとは思うが。
昨日と一昨日の話をしていると、部屋に鰻丼が運び込まれて来た。
まずは冷めないうちに食べようという事になり、三人が一斉に蓋を開ける。店の外にまで漏れていたあの良い香りが容赦なく鼻腔を殴りつける。思わず口内が唾で溢れる。
横の椀は肝吸いである。こちらも蓋を開けると、昆布と鰹節の良い香りが漂ってくる。
二人は待ちきれないとばかりに割り箸を割り食べようとするのだが、荒木はその前にお膳に向って礼儀正しく手を合わせた。
それを見て二人も箸を置き手を合わせた。
食べながら相馬は荒木の気を和らげようと、どんな食べ物が好きなのやら、お酒はどんなのを好むのやら、これまで行った印象に残っている旅行先はやらと聞いていった。
印象に残っている旅先としては二か所ある。
一つは間違いなく、美香と再会したあの苫小牧だろう。もう一か所は修学旅行で行った伊勢。そういえば、卒業してから完全に連絡が途絶えてしまったのだが、史菜は元気にしているのだろうか。
食事が終わり、いよいよ本題へと入った。
契約書は荒木の前に提示してはいるものの、相馬はその内容についてはほとんど触れない。せいぜい給料と待遇面の話をした程度。その給料にしたって二日間で聞いてきた金額からしたら中の下といった所。
ただ、これは決して足下を見たわけでも無いし、引き留めを諦めたわけでもない。残念ながらそれが見付球団が提示できる限界なのだ。恐らくはこれより低い金額を提示した球団も同様であろう。
「市川君から、だいたい他の球団がいくらを提示したかというのは聞いたよ。その上でこの金額しか提示できないというのには、実は訳があるんだ」
実はこの二日間、いくつかの球団は恐らくもっと高額な金額を提示してくるだろうと相馬は考えていた。それだけの価値のある選手だし、恐らく今後客も呼べるようになるだろう。もしかしたら、それ以上の事もあるかもしれない。
ところが提示してきた金額は横並びに近いもの。もちろん資金力が豊富な幕府、稲沢、西府はそれでもかなりの高額を提示してきたと聞く。
そこで一旦説明を中断して、相馬はお茶をすすり、乾いた喉を潤した。
「ここだけの話にして欲しいんだがね、来年から竜杖球の女子の職業球技戦が仮開催になるんだ。一国三球団、計十二球団の総当たりから開始する事になる。で、うちも後発参加にはなるが、配下球団として浜松球団を準備しているんだ」
球団を一つ立ち上げるとなるとそれなりの資金が必要となる。しかも国内にはまだ女子竜杖球用の球場は数えるくらいしかない。専用の練習場も無い。
そこで見付球団も昨年漁業関係者と交渉し、浜名湖競竜場の隣に女子竜杖球用の設備を作った。まだ全ては完成していないが、すでに大学生たちがそこで練習している。
だが、まだ球場がない。
そこで以前競竜場があった浜名湖の南西部の中之郷という地を提供してもらい、そこに球場を作ってはいる。
だが、当然球場だけ作れば良いというわけではない。駐車場も作らないといけないし、鉄道会社との連携も重要となる。さらに事務所も作らないといけない。
つまりは、これから尋常じゃない資金が必要になるという事である。
さらにもし女子竜杖球が赤字垂れ流しなんて事になれば、男子竜杖球の経営の方にも確実に影響が出る。
そこまで説明して、相馬は机の上で手を組み、少し身を前に乗り出した。
「だからね、もし高額な争奪戦になるようであれば、我々は離脱を検討しないとと言っていたんだよ」
相馬は組んだ手をほぐし、机の上に広げて置いた。そしておもむろに頭を下げた。
「私たちを選んで欲しい。そして、あの球場に君の力で観客を呼び込んで欲しい。金銭面でも待遇面でも、限界ギリギリまで君に提供する覚悟はできている。だから、この通りだ」
荒木は生まれて初めて、こんなおじさんが自分に対して頭を下げる光景を目にした。
心の中は困惑という感情しか湧かない。
まだ一軍で通用するかどうかも定かではない自分に、どうしてここまでできるのか。
そう考えたら荒木は何も言えなくなってしまった。
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