第11話 交渉開始
後は頼んだと市川の肩をぽんと叩いて、酒井は応接室から出て行った。
引き続き市川が荒木に説明を始める。
昨年末から見付球団に対し、荒木を金銭獲得したいとう申請が寄せられている。竜杖球職業球技協会の定めた規約の関係で、元球団が交渉を妨げる事はできない。また、交渉対象の選手も、交渉そのものを受けないという事は許されていない。その為、今日こうして席を用意し、各球団の人たちに来てもらう事になった。
一球団、一球団時間を割いて交渉する事になるのだが、個々の交渉となるとどうしても色々と不正が行われやすい。そこで元球団から法務担当を立ち合いに付ける事が許されている。
不正交渉があればその場で警告し、場合によっては竜杖球協会の方に申告する事になっている。さらに交渉内容についても不正が無いか立会人が精査できる事になっている。
「今回交渉の申請は全部で十件です。荒木さんは、確か入団の時も複数の勧誘があったんですよね。あの時みたいな事だと思っていただけたら」
市川としては荒木に変な緊張をされないようにとの配慮で言ったのだろう。変に緊張されて相手の話術にほだされるような事が無いようにと。
だが、荒木は目を半分閉じ、眉をハの字にして、げんなりとした顔をした。
「また、同じような話を何回も何回も長々と聞かされなきゃいけないのか……」
ボソッと心情を吐露する荒木を市川はくすりと笑った。
この荒木の態度は見付球団にとっては幸運だと市川は感じた。そもそも市川の立場は、法的な指摘をして相手が不正を行っていると印象付けて、荒木を見付球団に留める事である。明らかにこれからの会談に尻込みした態度の荒木に、市川はそれなら良い方法があると耳打ちした。
まず最初の交渉球団である台北球団の担当が交渉に応接室に入って来た。
担当は二名。一人は少し折り目の消えた一張羅の感じからして恐らくは球団の交渉者。もう一人は明らかに締め慣れていない襟締めの感じからして指導者の一人であろう。
荒木は椅子から立ちあがって荒木ですと名乗って頭を下げた。すると台北球団の交渉者は下げられた荒木の右手を引っ張って、強引に握手を交わした。
台北球団の交渉者が手土産だと言って紙袋を荒木に手渡す。すると市川が、念のため中身を確認させてくれと言って紙袋を引き受けた。こっそり現金を入れていないかという確認である。
台北球団の担当もそれが慣例だとわかってはいるのものの、口をへの字に曲げ少し不快感を顔に出す。
市川に椅子に座るように促され、台北球団の交渉者が椅子に腰かける。すると、せっかく開けたのだから、お菓子をつまみながら話をしましょうと言い出した。台北球団の交渉者たちが入室する前に、球団の職員がお茶を淹れて持って来てくれており、おあつらえ向きではあった。
最近南国では釈迦頭という果物を加工したお菓子が流行していると言って、親指ほどの大きさの卵菓子を配った。
食べた瞬間何とも言えない甘い香りが口内を支配する。さらに南国果実独特の何とも言えない良い香りが漂ってくる。
「旨っ!」
思わず荒木の感想が声として漏れた。市川も大いに賛同。台北球団の交渉者は満足そうな顔をし、もう一つどうぞと言って配った。
「手土産は何が良いかと聞いたら、部下の若い娘がこれを薦めてくれましてね。お恥ずかしながら私も知りませんで。ですので私も初めて食べたのですが、確かにこれは美味しいですね」
一見すると単に荒木たちに賛同しているように思う台北球団の交渉者であるが、目は荒木を観察し続けている。恐らくは思った以上に好感触だ、最初の掴みは成功だと感じているのであろう。
そこから皆でお茶をすすり、いよいよ本題へと入った。
台北球団の交渉者が鞄から大きな封筒を取り出し、二つのボタンに巻かれた糸をほどいていく。中からは数枚の契約書が出てきた。そこに提示された内容はかなり多岐にわたっており、最初に市川に手渡され不正が無いか調べられた。
市川の調査が終わると、台北球団の交渉者は書面の内容について淡々と説明を始めた。
ところが非常に態度の悪い事に、荒木は説明の途中から露骨に飽きたという態度をとった。耳垢をほじってみたり、欠伸をしたり、挙句の果てには両手を上げて背筋を伸ばした。
その態度に台北球団の指導者が眉をひそめる。
「すみません……話が難しいうえに長いから……」
申し訳なさそうに言う荒木に、台北球団の交渉者の笑顔が引きつった。
机の横で両者から顔を背けほくそ笑んだ顔の市川を見て、台北球団の交渉者は色々と察した。
「そうですよね。こういう小難しい話は誰だって苦手ですもんね」
気を取り直し、台北球団の交渉者は契約書を横にどけ、荒木の顔を見て微笑んだ。
「ようは、当球団は荒木選手を本気で欲しがっているという事です。そして、もし来ていただたら高給を約束しますよって話です。それと、荒木選手には十番を付けてもらおうと思っています。本来なら六番なのでしょうが、この十番を永久欠番にしようと思っていますから」
これまで長々と説明した事がたった一分足らずで終わってしまった。
とはいえ各球団に与えられた持ち時間というものがある。残りの時間台北球団の担当の二人は、台北市の良いところを身振り手振りを交えて熱く語った。一年中海で泳げるとか、美味しい果物がたくさんあるからそれを送ってあげれば家族が喜ぶだとか。
「それでは、良い返事をお聞かせいただける事を願っています」
そう言って台北球団の担当の二人は荒木と握手して応接室を退室した。
二人が退出すると荒木は市川のしてやったりという顔を見て大笑いした。
「これなら残り九球団、乗り切れそうですよ。契約みたいな話をああだこうだって聞かされるの、ほんと苦痛なんですよね」
笑顔を見せ乾いた笑い声を発する荒木を、市川は目を細めて笑った。
「それは良い事を聞きました。うちの球団の番では、拷問のように一時間くらい契約の説明すれば、折れてこちらの条件で飲んでもらえそうですね」
けたけたと笑う市川に、荒木はいらん事を言ったと鼻に皺を寄せ嫌そうな顔をして呟いた。
「冗談ですよ。うちの球団だって最後に十一球団目として交渉するんです。できれば良い印象でいて欲しいですからね、そんな信頼を壊すような真似はしませんよ」
懐疑的な目で市川を見る荒木に、市川は便所に行かなくて大丈夫ですかとたずねた。
台北球団の次は多賀城球団、その後昼食を挟んで、西府球団、函館球団、南府球団と続いた。
その日の最後は太宰府球団であった。
太宰府球団も担当者は二人。交渉者は当然見た事は無い。だがもう一人は見覚えのある人物であった。それは獅子団で太宰府球団の指導者をしていた人物であった。
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